夕暮れ音色









        目が覚めると、ひとりきりだった。





        咄嗟に、今がいつで此処が何処なのか、失念する。
        橙色の空に、まだ昼間の熱を残す空気。風が、縁側に吹き込む。

        自分は縁側にいた。
        緩い風に乗って、子供たちの声が遠くから流れてくる。どこかで烏が鳴いている。余所の家の、夕餉の支度の匂いが漂ってくる。


        今は、いつだっただろうか。夕方だ。
        いつの夕方だったろうか。今は、明治の―――

        そろりと手を動かすと、指先から伝わってくるのは、床板の感触。
        縁側にいる。草の上ではない。旅の空の下ではない。ここは、神谷道場だ。


        ・・・・・・ああ、そうだ。少し前に、京都から皆で帰ってきて。
        薫は今日は午後から出稽古で、弥彦はそれに同行して。
        夕飯は拙者が作るでござるよと言って、台所に立ったが少々早く支度は整って。
        続きは薫たちが帰ってきてからと思いつつ縁側に出て、一息ついていたら―――つい、うとうとしてしまった。

        空は茜色に染まり、その色はだんだんと明度を低くしている。黄昏時が迫り、薄暗さを増す道場に、ひとの気配はない。
        薫も弥彦もまだ帰ってきていないようだ。今日はずいぶんと帰りが遅いな、と思う。

        かすかに聞こえる、近所の子供たちの声。
        またねまた明日と言い合っているようだ。遊んでいる子供たちも、そろそろ家に帰る時間だろう。


        ああ、うちの中が静かだから、まわりの音がよく聞こえるんだな、と思った。
        子供の声に烏の鳴き声に、ひとびとが奏でる暮らしの音が、潮騒のように。


        流浪人だった頃、こんな音を聴くのが好きだった。
        街や村を歩いていると聞こえてくる、生活の音。
        市井のひとびとが奏でる、暮らしの調べ。それはどこか懐かしくて、あたたかくて―――



        「たっだいまー!」
        「ただいまー!」

        ふいに、玄関のほうでふたつの声が響いた。
        かたんかたんと、履き物を脱いで上がり框を踏む気配がする。薫と弥彦が、帰ってきた。

        「おかえりでござるー」
        賑やかな二重唱に、剣心も声を大きくして答える。ふたりを迎えるため、座り込んでいた縁側から立ち上がる。


        「ただいま剣心!遅くなっちゃってごめんね!」
        「稽古の後にさ、おはぎを食ってきたんだよ。あ、ちゃんと夕飯の分の腹は空けてあるからな」
        「お土産にも包んでもらったの。前川先生の奥さんが、作ってくれたのよ。ほら・・・・・・」
        薫は抱えていた風呂敷包みを解いて、中にあった箱を開いてみせる。粒あんのおはぎが綺麗に整列しているのに、剣心は「美味しそうでござるなぁ」と目
        を細める。
        「でね、このあたりはわたしが握ったやつなの」
        「一目でわかるだろ、このあたりのだけ形がいびつだもんな」
        「うるさいわねー!これからもっと練習して上手になるんだから!あのね、今度奥さんにおはぎ作りの指南してもらうのよ」
        「それは、楽しみでござるなぁ」
        「でしょ?期待しててね今に上手になってやるんだから!ねぇ、このおはぎ夕飯の後に・・・・・・」

        弥彦とやいのやいの言い合っていた薫が、ふっと剣心の方に目を向ける。そして、彼の顔を見て、何かに気づいたように眉を動かした。
        「うん、拙者も夕飯の後でいただくでござるよ。さ、ふたりとも着替えてくるといい」
        じきに夕飯でござるよと促すと、弥彦は「おうっ」と返事をして居間を後にした。しかし、薫はおはぎの箱を持ったまま、そこを動こうとしない。


        「・・・・・・薫殿?どうかしたのでござるか?」
        いつもどおりの穏やかな表情で問われて、薫はすこし躊躇するように目線を泳がせた。若干の間の後、「あのね、これ見当違いだったらごめんね」と前置
        いてから、口を開く。

        「わたしたちがいない間に・・・・・・何かあった?」
        薫の言葉に、剣心はなんとなく、どきりとした。
        しかし、ついいつもの癖でそれを表には出さずに、にこやかに「いや、特に変わったことはなかったでござるよ」と答える。
        事実、変わった事は何もない、平穏な午後だったのだ。それなのに、何故彼女の言葉にどきりとしたのか、自分でもわからなかったのだが―――
        「そうなの?なら、いいんだけど」と、いぶかしげに首を傾げる薫に、剣心は「どうして、そう思ったのでござるか?」と訊いてみた。実際、何故彼女がそん
        なふうに感じたのかが不思議だったから。
        すると薫は、ふたたび躊躇うように目を動かしたが―――思い切ったように口を開いた。



        「なんだか剣心・・・・・・寂しそうな顔、してたから」



        それは、思いがけない言葉で。
        しかし同時に、「見透かされた」と思った。


        「・・・・・・って、ごめんね変なこと訊いちゃって。違うならいいのよなんとなくそう思っただけで深い意味はなくて・・・・・・」
        言い訳するかのように薫は早口にまくしたてたが、剣心は内心で少なからず動揺していた。

        彼女の指摘ではじめて自覚したが―――そうだ、確かに今俺が感じているのは、これは「寂しい」という感覚だ。
        でも、どうしてだろう。俺はいったい何に対して、寂しさを感じているのだろう。


        しかし、その疑問は顔に出さずに「おろ、ひとりで留守番をしていた所為でござるかな」とおどけてみせて、縁側に腰を下ろす。
        「少し、寝ぼけてしまっただけでござるよ」
        「居眠り、してたの?」
        「ああ、こうして此処に座って・・・・・・風が気持ちよくて、薫殿の弥彦の帰りを待ちながら、うとうとしてしまって」
        薫も彼に倣って、隣に座る。傍らに置いたおはぎの箱は、とりあえず蓋を閉めて。剣心は、自分の心の中を整理する意味もこめて、ぽつりぽつりと話し出
        した。

        「それから目が覚めて・・・・・・ちょっと、寝ぼけてしまったのかな。今がいつで、何処にいるのか、一瞬混乱してしまった」
        うつらうつらと、夢と現の間を行ったり来たりするなかで、耳に流れこんできたのは家路につく子供たちの声、夕暮れを告げる烏の声。暮れゆく街の、穏や
        かなざわめき。
        「そんな音を、夢心地で聞いていた所為でござろうか・・・・・・一瞬、昔に返ってしまった気分になって」
        「むかし・・・・・・?」
        「ここに来る前の、流浪人だった頃に戻ったような気がして」

        さほど昔でもないか、と剣心は笑った。
        しかし薫は笑わずに、目を大きくしてしげしげと剣心の顔を見つめる。
        凝っと注がれる視線がくすぐったくて落ち着かなくて、剣心は「・・・・・・薫殿?」と間を繋ぐように声をかける。と、薫の唇がゆっくりと動いた。


        「・・・・・・どうして?」
        「え?」
        「どうして、その音を聞いて、昔を思い出したの?」
        「いや、それは・・・・・・」


        確かに、薫の疑問はもっともである。だって、夕暮れのざわめきは、流浪人時代の自分にはとても縁遠い音だったのだから。
        あれは、人々の生活が奏でる音。旅から旅を続ける、帰る家のない根無し草の自分には、まず「生活」というものがなかったのだから。でも―――

        「・・・・・・好きだったから、かな?そんな音を聴くのが」
        旅をしているとき、街を、人里を歩くとき、灯のともし頃になれば聞こえるその音。それは暮らしの音であり、市井のひとびとのささやかな幸せの音だ。
        帰路につき、家族とともに夕食を囲み、陽が落ちて、眠りにつく。そんな一日の終わりがひとつひとつの屋根の下にあると思うと、それがなんともいとお
        しく感じられたから。だからあの空気が、音が、好きだった。


        「・・・・・・ねぇ、剣心」
        「うん?」
        述懐する剣心に、薫は真剣な面持ちで言葉をかける。そして、まるで子供に言って聞かせるような口調で、ゆっくりと念を押すように言った。


        「気づいていないみたいだから言うけれど―――今はあなたも、その音の中に、ちゃんといるのよ?」


        一瞬、理解ができず剣心は目を白黒させる。しかし薫が更に「だからもう、寂しく思うことなんてないのよ」と続けたものだから、慌てて反証を唱えた。
        「いやっ、違うでござるよ!だから拙者、別に寂しいわけでは・・・・・・」
        「だって、現にさっき寂しそうな顔してたもん」
        「それ、は・・・・・・」
        答えに詰まりながらも剣心は、ああそうかと納得をしていた。

        夕暮れの音が好きだったのは、それが人々の幸せを表すような音だから。
        人々がそうやって、自分たちの暮らしを守りながら、穏やかに幸せに生きていること。それは俺にとっても喜ばしいことだから。そんなふうに、人々が笑顔
        でいられる世の中を作りたかったのだから。



        でも、その幸せの音の中に、俺の居場所はない。
        それこそが俺に与えられた罰で、俺が望んだ報いだった。

        人並みの幸せなど望んではいけない。望む資格はないと、ずっとそう思いながら生きてきた。
        心の中に降り積もってゆく「寂しさ」にも、ずっと気づかないふりをして。

        けれど―――



        「此処に帰ってきて、この家でみんなで暮らしているんだから、あなただって、今はもうその音のなかにいるの。今日だってそうよ。今だって・・・・・・香りが
        するでしょう?」
        「かおり?」
        「ほら、お味噌汁の香り」

        ・・・・・・確かに、台所からかすかに漂ってくるのは、さっきまで自分が作っていた味噌汁の香りだ。温め返したら、すぐに三人で夕食にできるよう準備をして
        おいたものだった。

        「わたし、この匂いをかいで、剣心がご飯を作って待っててくれたんだなぁ、って・・・・・・わたしは家に帰ってきたんだなーって、自然に思ったわ。これって、
        もうあなたが『その音のなか』にいる証拠じゃない?」


        真剣な瞳で、語りかけてくる薫。まっすぐな視線を受けながら、剣心はふっと表情をゆるめた。
        もう「寂しい」と思ったりしないよう、一所懸命になって。こんなふうに、他人のために必死になったり、泣いたり笑ったり怒ったりする彼女のことを、改めて
        「好きだなぁ」と思った。

        そうだ、だから俺はこの家に帰ってきたんだ。
        流浪人になってはじめて、「ただいま」と言えたこの場所に。君がいる、この家に。


        「・・・・・・薫殿、それならば『音の中」ではなく、『匂いの中』にいるのでは?」
        敢えて、軽口でそう返すと、薫はほっとしたように口許をほころばせた。しかし、すぐさまその顔をしかめてみせて、「揚げ足取りしないで!」と剣心の肩を
        拳固で小突く。
        「おろー」とよろめくそぶりを見せながら、剣心は胸のうちにあたたかなものが満ちてくるのを感じていた。


        鬼灯の実のような赤い夕陽は、もう沈みかけている。
        空の色は橙から群青にかわってゆき、黄昏が終わり、夜が近づいてくる。

        「夕飯を用意せねばな」
        剣心はそう言って立ち上がると、薫に手を差し出した。少し恥じらいながら、その手に甘えた薫は「そうね」と答えて玄関のほうに首をめぐらせる。


        「もうすぐ、みんなが帰ってくるしね」
        「・・・・・・みんな?」
        言葉の意味が分からずきょとんとした剣心に、薫はこのうえなく優しい笑顔をむけた。





        「ほら、あなたの家族がよ」










        目が覚めると、ひとりきりだった。





        咄嗟に、今がいつで此処が何処なのか、失念する。
        橙色の空に、まだ昼間の熱を残す空気。風が、縁側に吹き込む。

        自分は縁側にいた。
        緩い風に乗って、子供たちの声が遠くから流れてくる。どこかで烏が鳴いている。余所の家の、夕餉の支度の匂いが漂ってくる。


        今は、いつだっただろうか。夕方だ。
        いつの夕方だったろうか。今は、明治の―――


        「たっだいまー!」


        ふいに、玄関のほうで元気な声が響いた。
        四人分の賑やかな足音がそれに続く。そうだ、今日は薫が出稽古で、子供たちもそれについて行って。夕飯は拙者が作るでござるよと言って、台所に立
        ったが少々早く支度は整って。続きは薫たちが帰ってきてからと思いつつ縁側に出て、一息ついていたら―――つい、うとうとしてしまった。


        「ただいま剣心!遅くなっちゃってごめんね!」
        「稽古の後にさ、おはぎを食ってきたんだよ。あ、ちゃんと夕飯の分の腹は空けてあるからな」
        妻と子供たちの帰宅で、家の中はあっという間に賑やかになる。小さな身体に道着をまとった末の娘が、風呂敷包みを手に父親のもとに駆けてきた。

        「ほら見ておみやげ!お父さんのぶん!」
        受け取った包みと、中にあった箱を開くと、そこには作りたてのおはぎが並んでいた。剣心は「おいしそうでござるな」と目を細める。
        「でね、このあたりのは、わたしがにぎったやつなの!」
        「一目でわかるだろ、このあたりのだけ形がいびつだもんな」
        「ひどーい!お兄ちゃんのいじわる!」
        横から茶々を入れた剣路に妹が小さな拳を振り上げて、あわや兄妹喧嘩になりかけるが―――剣心は娘の頭に、ぽん、と手を置いてなだめた。
        「上手にできているでござるよ。あとで残さずいただくでござる」
        その言葉に、兄への攻撃の意思は霧散してしまったらしい。薫によく似た面差しで笑って「うんっ!」と返事をするのに、剣心は頬をゆるませた。

        「みんな、着替えてきなさい。もうすぐお夕飯よー」
        母親の声に子供たちははぁいと答え、めいめいの部屋へとむかう。そして薫は良人の顔を見ると、小さく首を傾げた。


        「ね、わたしたちがいない間に・・・・・・何かあったの?」
        「おろ?いや、特に変わったことはなかったでござるよ」
        「・・・・・・そうなの?なら、いいんだけど」

        そう言いつつ、にこにこと笑う薫に、剣心はぐっと顔を近づける。
        「どうして、そう思ったのでござるか?」
        額と額がこつんとぶつかる。縁側でじゃれついてくる剣心に、「もう!」といたずらっ子を叱るような声を出しつつも、薫は優しく目を細める。



        「なんだか剣心・・・・・・とっても嬉しそうな顔、してたから」



        ああ、やはり君は鋭いな、と思った。
        あのときも君は、そんなふうに俺の心を見透かしてくれた。

        あの時は「寂しさ」を指摘されたが―――今はもう違う。


        「・・・・・・居眠りをしていて、懐かしい夢を見たのでござるよ。薫殿もいたでござる」
        「あら、どんな夢だったの?」
        「後でゆっくり教えるから、着替えておいで」
        唇の端に小さく口づけると、薫はもう一度「もう!」と笑って身を翻した。高く結った髪を揺らす後ろ姿を眺めながら、ああ変わっていないなぁと思う。

        夢で見た、出逢った年の夏から、君は全然変わっていない。
        いや、年を重ねて母親になって、ますますあたたかく、包み込むように優しくなったと言うべきか。



        人々が家路につき、街が静かにざわめく夕暮れの音。
        幸せの象徴のようなその音を聞くたびに、かつては寂しさが胸に滓のように積もったが―――それはもう、昔のことで。

        君と夫婦になって家庭をもって、家族が増えて。気がつくと、独り流れて生きてきた時より長く、君と一緒の時間を重ねて。
        今では―――夕暮れの音色は安らぎの音だ。



        「・・・・・・薫殿が、言ったとおりでござるな」



        夢で聞いた、懐かしい薫のあの言葉。「あなたもその音の中に、ちゃんといるのよ」と、君はあの時そう言ってくれた。
        あれからずっと俺は、幸せの音色の中にいる。

        君が言ったとおりに。
        そして、君がいてくれたおかげで。




        鬼灯の実のような赤い夕陽は、もう沈みかけている。
        空の色は橙から群青にかわってゆき、黄昏が終わり、夜が近づいてくる。

        「・・・・・・さて、夕飯を用意せねばな」
        今に薫も、着替えを終えて手伝いをしに来るだろう。たっぷり身体を動かして帰ってきた恋女房と子供たちの為に、味噌汁とお菜を温め返さねば。





        平穏のままに暮れてゆく、今日の日の穏やかな幸福に感謝の念を捧げながら、剣心は台所へと向かった。













        了。






                                                                                        2018.10.07









        モドル。