薫がその言葉の意味を理解するのには、少々の時間を要した。
接吻されて押し倒されて、その「先」に続くであろう行為がどんなものなのかを想像した薫は、数秒の間の後ただでさえ赤い顔を更に真っ赤にする。
剣心は薫の傍らに、「ばふっ」とうつぶせに倒れこむ。左腕を伸ばしたまま、彼女の肩を抱くような格好で。
「・・・・・・幻滅、したでござろう?」
布団に顔を押しつけながら、剣心はくぐもった声でそう言った。
薫は赤い顔のまま、しばらくおろおろと視線を宙に彷徨わせていたが―――やがてそろそろと手を動かして、剣心の肩にそっと触れた。
「・・・・・・どうして?」
目線を天井に定めて、薫は言葉を紡ぐ。
「あの・・・・・・どうして、それでわたしが幻滅しなくちゃいけないの?」
その声音からは、嫌悪も憤りも感じられなかった。剣心はゆっくりと首を動かして、布団に押しつけていた顔を薫の方に向ける。
「・・・・・・怒らないのでござるか?」
「怒るって・・・・・・何を?」
薫も、首を動かして剣心の目を覗きこむ。
彼女の瞳に浮かんでいたのは、軽蔑でも怒りでもなく、ただ純粋な疑問の色だけで―――その事に、剣心は驚いていた。
「いや・・・・・・だって、嫌でござろう?夢とはいえ・・・・・・その、拙者がそんな、薫殿に無体な振舞いをする夢を見たなんて」
夢の内容を彼女なりに想像してみたのか、薫は羞ずかしそうに剣心から目を逸らす。けれど、起き上がって彼の腕から逃げようとする気配はなかった。
「そりゃ・・・・・・確かに、ちょっと恥ずかしい気もするけれど・・・・・・でも、夢は夢でしょう?実際には、剣心ちゃんと約束守っているもの。昨夜だって、そうだっ
たじゃない」
予想外の反応に驚きながら、剣心は身体を起こす。
確かに―――約束は、守っている。
京都へ、巴の墓参りに行った夜、ふたりで葵屋で同じ部屋に泊まった。互いに想いを告げて、はじめて口づけを交わした。
「襲ってしまいたい」と思った剣心に、薫は「襲ってもいいよ」とそれを許可してくれた。
けれど結局一線を越えることはなく、「怪我が治ってから」と、約束をした。
その約束を、剣心は破ってはいない。
それでも、あんな夢を見てしまったことは、自分が薫に対してよこしまな感情を抱いていることの証拠に他ならなくて。
夢の中でではあるが、彼女との約束を破ってしまったように思えて。夢の中ではあるが、彼女を思うままに汚してしまったように思えて―――とにかく、申
し訳ない気持ちでいっぱいだった。それなのに―――
「だから、別に怒ったりなんかしないわよ。それより・・・・・・わたし以外の女の人とそういう事をする夢を見たとか言うなら、怒るけど」
「そんなの、見るわけないでござるよ!拙者は、そういう事は薫殿としかしたくないでござる!」
大真面目に宣言する剣心に、薫は目をぱちくりさせて―――そして、口許を手でおさえてくつくつと笑い出した。
その様子を見下ろしていた剣心も、やがてふっと肩から力を抜く。薫に一拍遅れるようにして、ふつふつと笑いがこみ上げてきた。
剣心はもう一度、薫にむかって倒れこんだ。今度は、身体ごと彼女に覆い被さるようにしながら。薫はきゃー!と楽しげな悲鳴を上げ、ふたりは子供がはし
ゃいでいるようにじゃれあいながら、笑い合った。
ひとしきり、声をあげて笑って。
薫は、頬にかかる髪を剣心にかき上げられながら、「・・・・・・よかった」と微笑んだ。
「何がでござるか?」
「剣心に、嫌われたんじゃなくて、よかった」
「拙者も、薫殿に嫌われなくてよかった」
「あら、わたしが剣心のこと、嫌いになるわけないじゃない」
「その台詞、そっくりそのまま返すでござるよ」
頬をなぞる剣心の指に、薫は心地よさげに息をついて、「騒がしくしちゃってごめんね」と小さく謝る。
「いや、拙者の方こそでござる。しかし、そろそろ寝むことにするかな」
「また一緒に寝てあげましょうか?昨夜みたいに、隣で」
「・・・・・・それは、気持ちだけいただくでござるよ・・・・・・」
薫の提案は冗談めかしてのものだったが、答える剣心の声は情けない。ただ並んで眠るだけでも幸せだけれど、昨夜の夢がまだ記憶に新しい今夜は、
遠慮しておいたほうがよいだろう。
きっと、君がこんなふうに言ってくれるのも、あんな夢を見たことを「ちょっと恥ずかしい」だけで許してくれるのも、君がまだまっさらで、何にも染まっていな
いからなんだろうな。
もしも、君が昨夜の夢を覗き見ることができたとしたら、確実に君は怒って、幻滅したことだろう。
けれど―――あまりにも純粋で真っ白な君は、想像することができないのだろう。あの夢で、俺が君に対してどれほど貪欲で我儘に振る舞ったかなんて。
「・・・・・・薫殿」
「なぁに?」
「好きでござるよ」
薫が起き上がる前に、剣心は彼女の耳元に唇を寄せ、そう告げた。
首筋まで赤く染めながら、薫は「・・・・・・わたしも」と微笑む。
少し前まで、口には出さずに胸の奥に仕舞っていたこの言葉を、今ではきちんと伝えられるようになった。
この気持ちは、君に届いているはずだけど―――でも、きっと君が思っているよりもずっと、俺は君のことが好きだ。
そして君が想像しているよりもはるかに強く、俺は君のすべてを自分のものにしてしまいたいと、焦がれている。
近いうちに、今にこの怪我が治ったら、君はそれを知ることになるのだろうけれど―――願わくば、その時こそ君が俺の貪欲さに幻滅しないよう、神様と君
に祈ろう。
「じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
彼女の真っ白な無邪気さに心の中で感謝を述べながら、剣心は薫が部屋を出て行くのを見送った。
★
翌朝、操は朝食の支度をしながら、薫に「昨夜は何があったの?」とこっそり尋ねた。
「何がって?」
「あたしも蒼紫様も耳がいいから聞こえちゃったんだよねー。なんかふたりして、楽しそうにはしゃいでいたみたいだったから」
よそよそしくなくなって良かったねと笑う操に、薫は「やましいことはしていないわよ?」と、わざとすました顔で答えた。
後程薫からその話を聞いた剣心は、「治っても、彼らが京都に帰るまでは何もできないということか」と、心の中で呟いた。
昨夜の秘密 了。
おまけに続く。