目を開けると、すぐそばに薫の顔があった。
前にもこんな朝があったな、と思う。
でも、今日はあの時とは違って、左腕に薫の頭の重さがあった。右腕の怪我もとっくに完治していて痛くない。だから―――夢ではない。
家の中は、静かだ。
あの時と違って、左之助も恵も旅立ち、東京を遠く離れている。蒼紫と操も、京都へと帰っていった。
そして弥彦は、ある用向きのため現在は横浜である。今、この家にいるのは剣心と薫のふたりきりだった。
静か、ではあるが、遠くからは朝のざわめきも微かに感じられる。朝ではあるがもう早朝という時間でもない。既に街の人々は動き出している時分だろう。
「すっかり寝過ごしてしまったな」と思いながら、剣心は、素裸のまま眠る薫へと視線を落とす。
閉じられた扇形の睫毛を眺めながら、剣心は改めて、胸に溢れてきた幸福感を噛みしめる。そして、自分の目許に涙の跡はないか、指先で触れて確認し
た。昨夜、薫が眠ってからうっかり泣いてしまったことは内緒だ。
ようやく、君を抱いたことが。君とひとつになって鼓動を体温を直に感じて、君が生きていることを改めて実感できたことが、嬉しくてたまらなかった。
一度は失ったと思った君が、生きて、この腕の中にいてくれる。そんな奇跡のような現実に、後からあとから涙があふれて止まらなくなった。それは間違い
なく喜びの涙だったけれど―――薫に泣いたことを知られるのは、さすがにちょっと恥ずかしい。
「ん・・・・・・」
小さな身じろぎとともに、薫の目蓋がぴくりと震えた。長い睫毛の隙間から、黒曜石のような瞳が覗く。
ゆるゆると目を覚ました薫は、腕枕の上でぎこちなく首を動かして剣心の顔を見た。瞳を大きくして驚きの表情をしたのは、寝起きの所為で今の状況を理
解できていないからだろう。剣心が囁くように「おはよう」と言うと、ようやく昨日、夜を一緒に過ごしたことを思い出したのだろう。細い声で「おはよう・・・・・・」
を返してくれた。
なんとなく、無言で見つめあう。前髪の間からのぞく彼女のまるい額に唇を寄せると、薫は羞ずかしそうに目を伏せた。
「・・・・・・大丈夫でござるか?」
「え?」
「身体、つらくないでござるか?」
薫は一拍遅れて、言われた言葉の意味を理解して、こくこくと頷きながら「大丈夫」と返す。剣心は「よかった・・・・・・」と呟いて微笑むと、細い身体をかき抱
いた。
「今・・・・・・何時くらいかしら」
「八時くらいかな」
「そろそろ、起きないと・・・・・・」
「まだいいでござろう、今日は弥彦もいないことだし」
「でも」
「もうちょっとだけ」
言いながら、小さな頤を捕まえて口づける。びく、と薫の肩が震えたが、すぐに目を閉じておずおずと応えてくれるのが可愛らしかった。
「・・・・・・あんまり、見ないで」
唇を離すと、薫はほんのり上気した顔で息をつき、困ったような目で剣心に訴える。彼の視線が胸元に下りるのに気づいて申し立てた苦情だったが、剣心
は「今更でござろう?」と笑って流した。昨夜はじめて結ばれて、互いの裸はさんざん目にしたわけだから「今更」と言うのも道理なのだが、何しろ今は陽
がのぼりきった時刻である。薫が恥じらうのもまた当然のことだった。
「だって・・・・・・ここ、明るいから、恥ずかしいんだもん・・・・・・」
「明るいところで見たいんでござるよ」
真顔で言われて、薫はいよいよ真っ赤になる。身体を返して背中を向けることで視線から逃れようとしたが、剣心はそれを許さなかった。薫が動くより早く
肩のあたりをがしっと掴んで、細い首筋に吸いついた。
「ひゃっ・・・・・・!」
柔らかい皮膚を辿って、鎖骨を舌でなぞる。胸元に軽く歯を立てると、薫の肩がぴくりと跳ねた。
昨夜探した彼女の感じるところに、もう一度、ゆっくりと触れてゆく。
「や・・・・・・やだっ!」
少しでも肌を隠そうとして、薫は布団を引っぱりあげて肩の上までを覆ってしまおうとする。が、剣心はそれを逆手に取って、布団の中にごそごそと潜り込
んだ。
「だ・・・・・・めぇ・・・・・・」
ふたつの胸のふくらみを愛撫して、更に下へと舌を這わせる、恥ずかしさに身をかたく縮こまらせてはいるが、薫からのそれ以上の抵抗はなかった。
両手で包みこんでしまえそうな細い腰を、手のひらで撫でて。どうしてこんなにどこもかしこもやわらかいんだろうと不思議に思いながら、あちこちに口づけ
を落として。そして―――彼女の中心に、指を伸ばす。
「・・・・・・痛っ」
その声に、剣心はぴたりと手を止めた。
「・・・・・・すまないっ!」
布団の中から勢いよく「飛び出し」て、謝罪の言葉を口にする剣心に、薫は痛みも恥ずかしさも忘れて目をぱちくりさせる。
「その、すまないでござるっ!つい悪ふざけが過ぎて・・・・・・大丈夫でござるか?!ほんとは、他にもどこか痛いところがあったりするのでは・・・・・・」
謝罪と弁明と心配をおろおろと早口に繰り返す剣心を、薫は呆気にとられたように眺めた。それから、ふっと表情を緩めると、彼に向かって身体を傾ける。
「薫・・・・・・殿?」
ぽすっ、と。薫は剣心の懐に自分から身をおさめる。彼の胸板にすがりつきながら、くすくすと堪えきれない笑いをこぼす。
「・・・・・・その、薫・・・・・・?」
剣心は、おそるおそる遠慮がちに薫の肩に触れた。つい先程までいいだけ悪戯をしていたくせに―――と、その事がまた可笑しくて、薫は更に笑う。
「・・・・・・嬉しい」
「え、痛いのがでござるか?」
「違うの、そうじゃなくて・・・・・・」
まだ少し、いやかなり恥ずかしいけれど。けれど嬉しさのほうがはるかに勝ったので、薫は華奢な腕を剣心の背中に回してぎゅっと抱きしめた。
「こんなに、近くなったんだなって。それが、嬉しいなって・・・・・・そう、思ったの」
「え?」
「剣心と、わたしの距離が」
出逢ったばかりの頃から、剣心は優しかった。誰に対しても親切で分け隔てなく笑顔で接してくれて。
しかし、それでいて、一歩離れたところから皆を眺めているような感じがしていた。
まるで剣心だけ、いつもひとりだけ遠いところに立っているみたいで、それが寂しかった。
一度さよならを言われて、けれど帰ってきてくれて。それからは、あなたの「一歩引いた感じ」がなくなって。前より距離が近くなったみたいで、嬉しかった。
あなたから過去を打ち明けられて、あなたは過去と向き合って、また距離が縮まって。
ふたりで行った京都での夜、好きだと告げられて口づけを交わして―――はじめて逢ったときにくらべて、信じられないくらい、心も身体も近づいて。それ
が、やっぱり嬉しかった。
そして昨夜、はじめて、身体ごと愛しあって想いを交わした。
ひとつになって、互いの身体に隙間ができないくらいに、きつくきつく抱きしめあった。嬉しくて、涙が出た。
でも、嬉しかったのはそれだけではなくて。
こんなふうに、じゃれつくように悪戯をされたり、子供みたいな謝り方をされたり。そんな剣心の姿は、これまで見ることができなかったから―――
「これだけ近くならなきゃ・・・・・・きっと、見られなかったわ」
剣心にしてみると、なんだか格好悪いところを見られる機会がどんどん増えているようで複雑だったが、薫の気持ちはよくわかった。今まで見ることのでき
なかった彼女の表情をいくつも知ることができたのは、やはり薫との距離が近くなったからだと―――同じように思っていたから。
「なんだか、不思議ね」
心臓のあたりに耳をくっつけると、彼の鼓動を感じた。優しく、頼もしい音を聞きながら、薫はふかく息をつく。
「わたしもあなたも、昨日からなんにも変わっていないのに。わたしたちの距離は、昨日よりずっとずーっと近くなったみたいで・・・・・・なんだか不思議で、と
ても、嬉しいの・・・・・・」
そう言って、薫は剣心の胸に頬をすり寄せる。
剣心は、躊躇していた手を薫の背にまわして抱きしめ、首を前に倒すようにした。薫の頭のてっぺんに唇を押し当てて、「変わったでござるよ」と呟くように
言う。
「もう・・・・・・俺のものにしてしまったのだから、全然違う」
滅多に口にはしない一人称がぽろりとこぼれてしまったのは、心のまんなかの一番素直な部分が言わせた言葉だからだろう。おまけに、なんだか喉の奥
が急に熱くなって声が潤んでしまったので、剣心は薫がこっちを向かないでいてくれることを祈った。
「わたし・・・・・・剣心のものになったの?」
「うん」
「じゃあ、剣心も、わたしのものって、思ってもいいの・・・・・・?」
「当然でござるよ」
「・・・・・・嬉しい」
今度は、薫の声が泣きそうに掠れた。すがりつく手に、力がこもる。
「ずっと、そんなふうになりたかったの。剣心にとって一番特別な、一番近いひとになりたくて、だから・・・・・・」
「・・・・・・うん、拙者もだ」
ああ、そうか
こんなふうになりたかったのは、彼女も同じだったんだ。
どれだけ君のことを好きなのかを伝えたかった。言葉で表現しても到底追いつかない程の気持ちを伝えたかった。だから、君を抱きたかった。
心も身体もひっくるめて君という存在すべてが欲しいから、そして俺のすべてを捧げたいから、君と、ひとつになりたいと思っていた。
夢にまで見てしまう程に君を求める、自分のあさましさに愕然としたこともあったけれど。嫁入り前の娘にこんな不埒な念を抱くなんてと自己嫌悪に陥った
こともあったけれど。でも、そうじゃないんだ。
だって、ただ「抱く」という行為と、「好きなひとと愛しあう」ことは、まったく違うのだから。
誰よりも好きなひとと、互いに特別な存在になるために。
ふたりの間にある邪魔なものも距離も全部取り払って、一番近くに、ひとつになるために。
そのために、昨夜俺たちは結ばれたんだ―――
「・・・・・・寒くない?」
「全然。剣心、あったかいもの」
「お腹、空いていないでござるか?」
「うーん、そういえばあんまり・・・・・・今、胸がいっぱいだからかしら」
「うん、拙者もだ」
薫は剣心の胸から顔を離すと、彼の目をのぞきこむようにして笑った。その笑顔の眩しさに、剣心は目を細める。
「もう少し、こうしていようか」
「起きるって言っても、駄目って言うんでしょ?」
「うん、駄目」
そう言うなり剣心は布団の中で、薫の脚の間に自分のそれを割り込ませた。動かせないように絡められて、薫は笑い声まじりの悲鳴をあげる。
それから、しばらくの間ふたりは、何をするでもなく身体を寄せ合って過ごした。とろとろ時が流れてゆくのをぼんやりと感じているだけで、胸の奥があたた
かなもので満たされていった。
「好き」だと互いに告げてから、こうして契りを交わすまでの期間、気持ちが逸ったり「未遂」に終わった日があったりもしたけれど。しかし今となっては、こ
んなふうにふたりで贅沢な時間を過ごせることを、運命の神様に感謝したいくらいだ、と。剣心はしみじみ思った。
とはいえ、新たな悩みも生まれてしまった。
一度薫に触れてしまった以上、はたして自分はこれから今までのように理性を保てるのか、甚だ不安である。今に弥彦が帰ってきて三人の暮らしに戻る
わけだが、その状況下で、君に手を出さずに我慢をできる自信が―――困ったことにまったくない。
だって、実際の君はいつか俺が勝手に見た夢よりも、はるかに綺麗で可愛くて柔らかくて最高にきもちよくて―――
「何、考えてるの?」
剣心の眉が考え事をするように動いたのに気づいて、薫は問いかける。あどけない瞳を覗きこみながら、剣心は口の端を上げた。
「聞いたら薫殿、幻滅するでござるよ?」
「嘘、わたしが剣心にそんなことするはずないわ」
いつかも似たような会話を交わしたことがあったな、と思いながら、剣心は薫の額にそっと唇を寄せる。
「幸せな、悩み事でござるよ」
昨夜の秘密 おまけ 了。
2015.05.11
モドル。