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        「・・・・・・え?」




        剣心は、耳を疑った。
        「昨夜のわたしに」と、いうことは、まさかあれは夢ではなかったとでもいうのか?
        俺が薫を襲ってしまったのは―――現実だったということか?



        いや、そんな筈はない。
        だって昨夜俺は両手で彼女を抱いていて、だからあの出来事が現実の筈はなくて。
        でも―――それなら今の彼女の台詞の意味は?

        いやそれに、彼女に「がっかりした」だなんてそんなまさか。
        がっかりしたどころか、めちゃくちゃ幸せで君はとてもきれいでかわいくてやわらかくてきもちよくて―――




        「・・・・・・わたしが、剣心をがっかりさせちゃったのなら、あやまるわ。ごめんなさい」
        ぐるぐると混乱する剣心に、薫は更に追い討ちをかけるように謝罪する。

        もう、昨夜のことが夢なのか実は現実だったのか、わけがわからなくなってきたが、でも。
        もしも現実だったとしたら、俺は今彼女に、男として最低最悪なことを言わせてしまったのではないか―――?



        剣心は、左手で薫の腕をぐっと掴んだ。
        腰から細い手を剥がして、そのまま引っ張って抱き寄せるようにしながら、彼女を自分の前に立たせる。
        「それは、違うでござる。がっかりなんて、これっぽっちもしていないでござるよ」
        力をこめて、薫の目をまっすぐ見ながら断言する。薫は驚いたように瞳を大きくしたが、すぐにその目を伏せて、視線を剣心から逸らした。

        「・・・・・・でも、剣心今朝から、なんだかわたしを避けてる感じだったじゃない。朝起きたときだって、いきなりわたしの手を振り払ったし、それってやっぱり、
        昨夜のわたしが原因で・・・・・・」
        「そんなわけがないでござる!それどころか、謝るのは拙者のほうでござるよ!拙者こそ、昨夜は薫殿にひどいことを・・・・・・」
        「・・・・・・え?」
        剣心の謝罪に、薫はきょとんとして彼の顔を見る。束の間、記憶を辿るように軽く眉間に皺を寄せて、それから小さく首を傾げた。


        「・・・・・・でも、わたし剣心に蹴飛ばされたりしてないわよ?」
        「・・・・・・は?」


        わけがわからなくて混乱しているところに、今度は意味のわからない台詞が飛び出した。
        脳内での処理が追いつかず、剣心は思わず間の抜けた声を出す。


        「すまない・・・・・・その、言っている意味がわからないのだが・・・・・・蹴飛ばす、とは?」
        「・・・・・・覚えては、いないんだけれど。でもきっとわたし・・・・・・蹴飛ばすとか殴るとか、しちゃったんでしょ?」
        「・・・・・・一体、何の話でござる?」

        ここにきて薫も、自分たちの会話が噛み合っていないことにようやく気づいたらしい。
        睫毛の長い瞳を何度かまばたきさせてから、ゆっくりと口を動かした。



        「昨夜のわたしの寝相が悪かったから・・・・・・それで剣心、幻滅したんでしょう?」



        その発言があまりに想像の範囲外だったので、剣心はかくんと口を開けたまま数秒間固まった。
        そして―――我に返ると猛然たる勢いで彼女の誤解を解きにかかる。

        「いやっ!違うでござるよ!殴られても蹴られてもいないでござるよ!」
        「でも・・・・・・わたし時々、起きたら枕が畳の上に転がっていたり、足が布団の外に飛び出していたりするもの。だから昨夜もそんな感じに剣心のこと蹴飛
        ばして・・・・・・だから剣心、わたしに幻滅したんじゃないかって、そう思って・・・・・・」
        「されていないでござるよ!だから幻滅のしようがないでござる!」
        「でも!わたしの寝相ってほんとにそんな感じなのよ?!それってやっぱり、がっかりするものでしょう?」
        「拙者が薫殿にがっかりする訳ないでござろう?!だいたい、寝相なんて少しくらい悪いほうが可愛いでござるよ!」

        きっぱりと言い切られて、薫は息を飲む。次いで、瞬く間にしゅわしゅわと顔に血がのぼる。
        言い切った剣心の方は、照れている余裕もないのだろう。真剣そのものの表情で、薫の目を見つめている。


        「・・・・・・じゃあ、何が原因なの?」
        頬を赤く染めたまま、薫は小さな声で尋ねた。
        薫としては、彼が急によそよそしくなった理由は、寝相くらいしか思い浮かばなかったのだ。それを否定されたとなると、本当の訳を知りたくなるのは無理
        もない話だろう。しかし剣心としては―――それこそ、彼女に幻滅されることを覚悟して、告白しなければならなかった。

        「・・・・・・薫殿こそ、拙者にがっかりするでござるよ?」
        「そんなの、わたしが剣心にがっかりする訳ないじゃない」
        先程言った台詞をそのまま返されたが、剣心の心は軽くならなかった。だって、夢とはいえ、あんな―――


        「・・・・・・薫殿」
        「はい?」
        剣心はおもむろに薫の腕を引っ張った。
        どん、と胸と胸がぶつかって、薫は肩から吊った右腕をつぶしてしまうのではと慌てたが、次の瞬間から、彼の腕の心配をするどころではなくなった。

        「すまない」
        「え?何のこ、と・・・・・・っ?!」


        怪訝そうに尋ねる薫の声は、途中で口づけに遮られた。
        彼女の唇を自分のそれで塞ぎながら、剣心は左腕を華奢な背中に回し、拘束するように強く抱きしめる。


        「けん、しん・・・・・・っ?」
        喘ぐように、薫は唇の上で彼の名前を呼ぶ。まだ、こうされることに慣れていない彼女からは戸惑う気配が感じられたが、構わずにぐいぐいと身体を押しつ
        ける。よろめくように薫は後ずさり、それを追って前に出した剣心の足が、畳に敷かれた布団を踏んだ。
        「きゃっ・・・・・・!」
        下に向かって引っぱると、膝が崩れた。力を緩めずに更に押すと、薫はたまらず布団の上に尻餅をつく。体重をかけると、均衡を保てなくなった細い身体
        は、あっけなく布団の上に倒れこんだ。

        「ふ、ぁ・・・・・・」
        のしかかる身体の重さに耐えかねたように、薫の唇から苦しげな息が漏れる。
        彼女はまだ、触れるだけの口づけしか知らない。甘噛みするようにそこに歯を立てると、びく、と怯えたように肩が震えるのがわかった。


        左腕で身体を支えながら、剣心は薫から唇を離す。仰向けにされた薫は、きつく閉じていた目蓋を開くと、剣心を見上げる。
        大きな瞳が潤んで、行燈の灯りをきらきら反射しているのがとてもきれいだった。




        その、綺麗な目を見つめながら、剣心はゆっくりと言葉をつむいだ。





        「昨夜・・・・・・夢を、見たんでござるよ」
        「・・・・・・え?」
        「薫殿に、ここから先のことをする、夢を」













        6 へ続く。