結局、その日一日剣心の挙動不審は続いたが、下手に踏み込んだ左之助が受けた制裁と、操の問いに対して薫が真剣に考えこんでしまったことを鑑み
て、一同は「放っておくことが一番」と判断した。
なので、夕刻には表面上は平穏に皆で晩御飯となり、特に今日は酒もつかず、夜が更けると三々五々でそれぞれの部屋にひきとることとなった。
右腕を怪我して以来、剣心は身の回りのことで誰かの手が必要な場合、そのほとんどを薫に頼っていた。
それは、気がつくと当然のようにそんな流れになっていたわけで。例えば、寝間着を着るのを手伝ってもらうのも、すっかり彼女の役目になっていたのだが
―――今晩は、剣心は薫に何も言わず常より早く寝所にひっこみ、片手で慌ただしく着替えを始めた。
脱ぐのはどうとでもなるし、不恰好ながら畳むことも出来るだろう。でも、帯を片手だけで結ぶのは一仕事だ。まぁ仕方ないからここは下着を同じ要領で、
巻いたところに適当に端を挟みこんでお茶を濁そう。そう思って、行動に移したのだが―――
「・・・・・・剣心?」
慌てて取りかかったため、廊下を歩く、部屋に近づいてくる気配に気づけなかったのは不覚だった。
襖のすぐ向こうで聞こえた薫の声に、剣心はびくりと肩を震わせる。はずみで、腰に巻く途中だった帯が畳の上に落ちた。
「・・・・・・入っても、いい?」
「あ、いいいいいいやその、今丁度着替えをしていて・・・・・・」
「じゃあ、手伝うわよ」
それは、昨日までのふたりにとってはごく当たり前にやっていたことなので、咄嗟に断る声を出せなかった。返事を待たずして襖がするりと開き、剣心はと
りあえず申し訳程度に着物の前をかき合わせた。薫も、それは予想していたのだろう。襖を開けた彼女は目を伏せて、視線を畳の上に落としている。
「・・・・・・今、顔あげても大丈夫?」
「あ、ああ、うん、大丈夫でござる」
薫はこころもち頬を染めながら、頤を上げた。こんな状況ながら剣心は、そんな初々しい様子を「かわいいな」と思う。そう思っている間に、彼女に間合いを
詰められた。
「・・・・・・帯、巻いていい?」
「・・・・・・あー、うん、頼むでござる」
剣心の後ろに膝をついた薫は、すっかり慣れた様子でするすると帯を腰に巻きつけてゆく。それは、怪我をしてから何度もやってもらっている事だけれど、
今日に限っては剣心は心穏やかではいられなかった。
なんとなれば、あんまり距離が近くなると、彼女の体温や呼吸を間近で感じてしまうと、昨夜見た夢をまざまざと思い出してしまう。だから、今日は必要以
上に薫に近づかないようにしていたのに。
―――昨夜、彼女を夢の中で自分のものにした。
それはある意味、実際に彼女を襲ってしまう事よりも、酷いことなのではないだろうか。
だって、それは君の意思を完全に無視して君を抱いたということなのだから。
いや、そもそも夢なのだから、現実の君の意思がどうこうという問題ではないのだろうけれど。
だいたい夢の内容は見る本人でも決められないものなのだから、不可抗力と言ってしまえばそれまでなのだが―――
「・・・・・・苦しくない?」
「・・・・・・うん、大丈夫でござる。かたじけない」
薫は寝間着の帯を貝の口に結ぶと、結び目をぽんと軽く手ではたいた。剣心は礼を言うと、そのままさりげなく薫から距離をとろうとした。あんまり彼女の
近くにいると、あの夢をまざまざと思い出してしまうから。
しかし、剣心が一歩を踏み出そうとする前に、薫は身体を前に傾けた。
ことん、と。背中に、あたたかいものが優しくぶつかる。
それは、薫が背中に寄り添って、身を預けた感触に他ならない。
「か・・・・・・おる、どの?」
いつもの剣心ならば、そのまま身体を返して薫を胸に抱き寄せたことだろう。しかし、剣心は背中をこわばらせたまま、動くことができない。薫は固まってし
まった背に頬を寄せながら、「・・・・・・今日の剣心、変」と、呟くように言った。
「そうでござるか?別に、いつもと変わらないと思うが・・・・・・」
もし、弥彦や左之助、操たちがこの場にいたとしたら、「それは違う」ときっぱり否定したことであろう。
「俺はなんて夢を見てしまったんだろう」と動揺してしまい自己嫌悪に陥りながらも、「でもいい夢だったよなぁ」とうっかり思ってしまい、更にまた自己嫌悪
に陥って―――と。そんな事で頭の中は飽和状態だったため他のすべてがお留守になって、結果として剣心の今日の行動は、たいそう面妖なものになっ
てしまった。
しかし、薫が「変」と指摘したのは、それとはまた、別の事についてである。
「嘘よ。だって今日の剣心・・・・・・なんかわたしによそよそしいじゃない」
「おろ?そんな事はないでござるよ、特段普段と変わりは・・・・・・」
「ううん、絶対に普段と違うわよ!だいたい、今朝は、わたしに・・・・・・しなかった、でしょ・・・・・・?」
「今朝、って・・・・・・何をでござるか?」
剣心が首をかしげると、薫は彼の寝間着の端をきゅっと握った。少しの間、どう言ったものかと逡巡した後、ぼそぼそと口を動かす。
「・・・・・・ん」
「え?」
「・・・・・・接吻。いつも、剣心しているでしょ?包帯、直すときに・・・・・・」
・・・・・・たしかに。
いつも、と言っても、それはわりと最近から。ふたりで京都に行ってから始まった、「いつも」だ。
初めて口づけを交わした夜から、一夜明けての朝。腕の包帯を直してくれている彼女に不意打ちで唇を寄せた。その時の、真っ赤になって戸惑いながら、
睫毛を震わせて瞳を閉じた薫があまりに可憐で可愛らしかった。だからそれ以来、包帯を直す際の近い距離にかこつけて、たびたび君の唇に触れている
のだが。
「いや、薫殿、それは・・・・・・別によそよそしくしたつもりなどなくて、たまたま今朝はしなかったというだけで、その・・・・・・」
これは完全に嘘だ。
だって、口づけなんかしてしまったら、もうてきめんに夢の内容が脳裏によみがえってしまうから。
だから、今朝はあえて我慢して、彼女に触れずにいたのだが―――
「・・・・・・嘘」
薫はそう言いながら、そろりと手を動かした。
ためらいながら、傷に障らないよう気をつけながら、背中から腰へと腕を回して、ぎゅっと剣心にすがりつく。
「本当は・・・・・・よそよそしいのは、幻滅したからなんでしょ?」
・・・・・・今、妙な言葉が聞こえたような気がした。
そう思って、剣心は首を回せるだけ後ろに回して、薫の表情を確認しようとする。
目が合った彼女の瞳には、何か思いつめたような色が浮かんでいた。
「剣心・・・・・・昨夜のわたしに、がっかり、したんでしょう?」
5 へ続く。