3










        陽が高い位置にのぼった昼飯時を狙って、左之助は神谷道場を訪れた。
        最近はなんとなく、玄関を通らず直接庭にまわるのが癖になっている。現在客人の多いこの家は、日中は大抵縁側に誰かしらがいるものだが―――今
        日は剣心が佇んでいる姿が目に入った。


        「よっ!怪我の具合はどうでぇ?」
        いつもどおりの調子で声をかけると、剣心は左之助の方へ首をめぐらせる。
        「ああ蒼紫、おはようでござる」

        剣心は笑ってそう言ったが、左之助は目を点にする。
        訂正箇所はふたつ。
        自分は蒼紫ではないし、今は「おはよう」という時間でもないのだが―――


        「・・・・・・朝からずっとこの調子なんだよなぁ」
        「さっきは蒼紫様のことを弥彦って呼んだのよ?どうやったら蒼紫様とこいつを間違えられるっていうのよ、失礼極まりないわよねー・・・・・・」
        振り向くと、弥彦と操がやれやれというような表情で立っていた。










        「どーもこーも、今朝からずっとあんな感じだよ」


        大人数での賑やかな昼食の後、剣心と薫を除いた面々で額を突き合わせての「会議」が始まった。
        議題は勿論、剣心の奇行についてである。

        「顔見てる限りはいつもと変わらないし、言ってることも普通なんだけど・・・・・・明らかにやってることがおかしいのよねー」
        「例えば?」
        「あんな調子でみんなの名前を呼び間違うし、庭に入り込んだ近所の子猫に気づかないで蹴飛ばしそうになるし」
        「縁側から落ちるし転んで障子をぶち抜くし牡丹餅に醤油をかけて食べるし」
        操と弥彦に交互に解説された左之助は、ついその味を想像してしまいげんなりした顔になる。「俺的には最後のが一番嫌だ」と言って―――それと同時
        に、数ヶ月前にも同じ台詞を言ったことを思い出した。

        「・・・・・・おい、前にもあったんじゃねぇか?同じような事が」
        「ああ、あれだろ?料亭の跡取り息子の嫁にならないかって、薫が求婚された時だろ」
        「えっ何それ知らない!そんな事あったの?!」


        食いついてくる操に、弥彦はごく手短に説明をする。
        それは剣心が五月に京都に向かう前のこと、薫が酔っぱらいに絡まれている老人を助けたところ、「うちの息子の嫁にならないか」と持ちかけられたこと
        があった。その際、顔には出さなかったものの内心は見事に動揺した剣心は、今回とまったく同じ挙動不審となったのだが―――


        「じゃあ、この度も嬢ちゃん絡みってわけか・・・・・・ってぇ事は、昨日俺が帰った後、あいつらの間で何かあったのかよ?」
        左之助としては、心当たりがないかどうかを尋ねたつもりだった。しかし、操はうーんと首をひねりつつ、決定打ともいえる台詞を口にした。
        「昨夜、薫さんが緋村の部屋に行って・・・・・・戻ってきたのが、今朝だったの」
        左之助は、その言葉の意味を頭の中で咀嚼して、目を丸くする。そして「ひゅー!」と口笛をひとつ吹くとぱあんと高らかに手を打ち鳴らした。

        「なんだなんだ!それで決まりだろ!って言うかそりゃ目出度ぇじゃねえか、おい、赤飯炊いたほうがいいんじゃねえか?!」
        すっかり盛り上がる左之助に対し、操は年頃の娘らしく頬を赤らめながら、「そんな事ではしゃがないでよ」と、いつもより小さな声で苦情を申し立てる。
        「でも、水をさして悪いけど、そういうのじゃないと思う。あたしも蒼紫様も人より耳がいいから、そんなことになっていたらきっと気づくもん。昨夜緋村の部
        屋の前を通ったけれど、いつもと違う気配は全然なかったし・・・・・・ね、蒼紫様?」
        蒼紫は三人の輪から少し離れたところで茶を喫していたが、話の内容はちゃんと耳に入っていたらしい。操の問いかけに対し微塵も表情を動かさぬま
        ま、「残念ながら」と頷いた。弥彦は「ひょっとして今のは蒼紫なりの冗談なのだろうか」と首を傾げ、左之助は「いや、そりゃねーだろ」と真っ向から異議を
        唱える。

        「あいつだって立派な大人の男だぜ?惚れた女と一晩同じ部屋で過ごして、据え膳食わねぇ訳がねーだろ?そこはお前ぇらに聞こえないように、気をつ
        けてのやり方ってもんが色々と・・・・・・」
        「ちょっと、少しは発言に気を遣ってよ!ここには女子供もいるんだからねっ?!」
        いよいよ真っ赤になった操は、弥彦の耳を塞ぎながら左之助の演説を遮った。
        「ああすまねぇ、でも子供ふたりの間違いだろ?」
        すかさず雑ぜ返した左之助に、操はそばにあった空の湯呑みを投げつける。狙いは正確で彼の額に命中したが、左之助はさして効いたふうでもない顔
        で湯呑みを畳の上に戻しつつ、「まだるっこしいなぁ・・・・・・」と髪をかきむしった。


        「よしわかった!いっちょ俺が奴に直接訊いてきてやるよ。それが一番手っ取り早いだろ」
        すっくと立ち上がった左之助は名案だとばかりに宣言したが、弥彦も操も当然制止する。
        「やめなさいよー!あんたはそっとしておくとか慮るっていう言葉を知らないの?!」
        「いくら剣心でも・・・・・・いや、剣心だから怒るって!あいつお前には容赦ないから蹴りの一発くらい入れられるかもしれないぞ?!」
        「まぁお子様たちはそこで待ってろって。ちょっくら男同士の話をしてくるからよ」

        左之助は善は急げというふうに、いそいそと剣心がいる彼の部屋へと向かう。と、それまで静観していた蒼紫がすっと立ち上がり、音もなく左之助の後を
        追った。
        弥彦と操はそのまま居間で事の成り行きを待つしかなかったが―――やがて、剣心の部屋の方で、何か重いものが倒れるような音がした。




        程なくして、白眼をむいて昏倒している左之助の襟首を掴んでずるずると引きずりながら、蒼紫が戻ってきた。
        「あの、鞘から刀を飛ばす技は何と言うんだ?」
        「・・・・・・飛龍閃、至近距離から食らったのか・・・・・・」

        そりゃ気絶もするよなぁ、と弥彦は首を横に振る。蒼紫は「あれは天井の低い室内で闘うのに便利だな」と呟いた。
        操はそんなやりとりを聞きながら、肩をすくめてため息をひとつつく。



        「・・・・・・女同士の話、してみよっかな・・・・・・」









        ★









        「薫さん、昨夜さぁ・・・・・・」



        夕飯の、支度をしながらの台所にて。
        操はそれだけを言って後は言葉を濁したが、薫はそれだけで肩をびくっと跳ね上がらせる。


        「・・・・・・やましいことは何もしていないわよ?」
        彼女にしては珍しい、口の中でごにょごにょと呟くような不明瞭な喋り方に、操はつい笑ってしまう。
        「薫さんと緋村はもういい仲なんだからさー、何かあったとしても『やましい』なんて言い方はおかしいんじゃないの?」
        「そ、そうかしら・・・・・・?でもまだわたしたち、夫婦になったわけでもないんだし、だから、そういうのはやっぱり・・・・・・」

        まな板の上に置いた青菜の茎をもじもじといじりながら、薫は頬を赤くして俯いた。その様子から操は「やっぱり何もなかったんだな」と判断して―――ほ
        んの少しだけ、安心したような気持ちになる。これはきっと同じ年頃の少女として、まだ「先を越された」わけではないことに、なんとなく、ほっとしたのだろ
        う。もっとも、越されるのは時間の問題だとは知ってはいるけれど。

        「まぁ、そうだよねー。品の無い言い方になっちゃうけれど、緋村はそんな、がっついてくるような男じゃないよね。左之助は据え膳がどうこうとか言ってた
        けれど・・・・・・緋村はそういう感じじゃなさそうだもん」
        竈の火を調節している操の背中を横目で見ながら、薫は聞こえないように小さな声で「・・・・・・そうでもないんだけれど」と呟いた。
        「でも・・・・・・そうなると、なんで緋村は様子がおかしいわけ?前にもこういう挙動不審があったそうだけど、その時は薫さんが原因だったんでしょ?」
        「あら、弥彦から聞いたの?」
        青菜の根を切り落としつつ、薫は照れくさげに笑う。


        あれは今年の、春のこと。
        薫が「求婚」された事が理由で剣心の様子がおかしくなった事があった。

        剣心は、薫が「玉の輿に乗る」ものだと、すっかり決めてかかっていた。
        その日の夜、深夜でふたりでお酒を飲む流れになって―――
        その場で薫は剣心の早とちりに気づき、「そんなことするわけがないじゃない!」と、彼を一喝したのだった。


        「剣心の勘違いは腹立たしかったけれど、でも、わたしがお嫁に行かないってわかったとたん、安心したみたいで・・・・・・それで、様子がおかしいのが直っ
        たのよね」
        「いいなぁ・・・・・・その頃から緋村、薫さんにぞっこんだったんだね」
        「えぇっ?!い、いや、そんなまさかっ!きっと、ただ単に居候先の家主がお嫁に行くと居づらくなって困るとか、そういう理由で・・・・・・」
        「ないない!そんな理由あるわけない!でも・・・・・・そうなると今回は何が原因なんだろうね?」
        薫の言葉を笑い飛ばしながらも、操は首を傾げる。
        この度は、薫が剣心以外の誰かから求婚されたというわけでもない。
        また、朝から様子を見ている限り、彼らは喧嘩をしているふうでもないし―――

        「喧嘩・・・・・・は、していないけれど・・・・・・でも、確かに剣心、今朝からちょっとよそよそしいの」
        「え?そうなの?全然そんな感じに見えなかったけれど・・・・・・緋村、どこがどう違うの?」
        「どこが、って・・・・・・」


        まずは、起きぬけにいきなり手を振り払われた。
        それについては直後に「ちょっと、寝ぼけていて」と言い訳をされたけれど、なんというか釈然としないものが残った。

        そして、その他にも。
        今日の剣心は、いつもと違う点がもうひとつあって、それは―――


        もうひとつの「よそよそしい点」について思い返した薫は、何故か、ぼわっと更に顔を赤くする。
        「えー?!ちょっと何それその反応ー!詳しく教えてよー!」
        「きゃー!操ちゃんわたし包丁持ってるんだから!危ないってばー!」
        飛びかかってきた操にくすぐられて、薫は笑いながらの悲鳴をあげる。火も使っている台所はふざけあうには危険な場所なので、操はすぐに薫を解放した
        が―――それでも、諸々が気になることに変わりはない。

        「んー、いずれにせよ、薫さんにも理由はわからないのかぁ・・・・・・すっきりしないなぁ。じゃあやっぱり左之助説で正解なのかな?昨夜薫さんが寝てる間
        に、緋村なんか変なことしたんじゃないの?」
        「やだ、なんかって何っ?!何もされてないわよ?!」
        「だから、薫さんが寝ている間に気づかれないように何か・・・・・・それで後ろめたくておかしくなっているとか」
        「きゃー!ないわよ剣心に限ってそんなことっ!だいたい、何かされた覚えも全然ない、し・・・・・・」



        全力で否定していた薫だったが、途中から、声のスピードが減速しはじめる。
        何か―――心あたりを見つけたかのように。



        「・・・・・・薫さん?どうしたの?」
        突然黙りこんだ薫に、操は気遣わしげに声をかける。束の間、沈黙が続いた後、薫は操に向けて答えたというよりは、むしろ独り言のように呟いた。





        「やっぱり・・・・・・昨夜のわたしが、原因なのかもしれない・・・・・・」






        包丁を持ったままそう言う薫の表情は思いがけず深刻で、操はそれ以上追及することができなかった。















        4 へ続く。