2









        ―――いや、いやいやいや。それは駄目だ。それはいくらなんでも駄目だろう。




        剣心はうっかり頭に浮かんでしまった独り言というか心の本音を振り払うように、枕に落ち着けていた頭をぶんぶんと左右に揺する。
        その気配を感じたのか、薫が「うーん」と声を漏らして身じろぎをしたので、今度は慌てて首を動かすのを止める。


        そんなのは駄目だ。だって今は同じ屋根の下に弥彦と蒼紫と操殿がいて皆まだ起きているわけだから、そんなことをしては絶対に彼らに気づかれてしまう
        から―――いや、だからそうじゃなくて!

        この状況で抱いてしまうというのは、彼女の寝込みを襲うということだ。もしそうなったとしても最終的には薫は自分を受け入れてくれるだろうが、そんな無
        理強いをしては彼女の心は傷つくに違いないましてや彼女は生娘なのだから―――いや、違う、だからそういうことじゃなくて!



        まず第一に、俺は彼女と約束をしたんだ。
        怪我が治るまでは、君に手は出さないから、と。



        京都で、同じ部屋に泊まった夜。君は、君のことを意識しすぎてすっかり挙動不審になっている俺にむかって「襲ってもいいよ」と「許可」をくれた。
        それは誘惑とも呼べない、ただひたすらに健気な申し出で、かなり理性がぐらついたけれど、すんでのところで伸ばした手をひっこめた。
        だって、こんなに好きになってしまったひとを、片腕だけで抱くなんて、そんなことできるわけがない。

        こんなにも好きなひとを、こんなにも大事なひとをはじめて抱くときは、ちゃんと両腕で抱きしめないと。そうじゃないと、君を抱く意味がない。
        だって、これは俺がどれだけ君のことを好きなのかを、君に伝えるための行為なのだから。


        言葉で表現しても追いつかない程の気持ちを伝えたいから、君を抱きたい。
        心も身体もひっくるめて、君という存在すべてが欲しいから。君が俺にとってただひとりの特別な存在であることを、もっとちゃんと知ってほしいから。君とひ
        とつになりたい。

        だから、腕一本じゃ足りないんだ。
        こんなに大きく育ってしまった「好き」という気持ちをちゃんと君に伝えるためには、両腕でしっかりと、力いっぱい強く、なにより優しく抱きしめないと―――
        とてもじゃないけれど、足りないんだ。
        こんな不完全な状態で、この気持ちを表現できるわけがない。だから―――あと少し、「我慢」しなくては。


        ・・・・・・いや、しかし、嫁入り前の女性に対してこんなことを真剣に考えていること自体どうなんだ。
        いやいや、彼女は確かに嫁入り前ではあるが俺はもう彼女と夫婦になることを心に決めているわけで、彼女だって「何十年先も一緒にいる」と言ってくれ
        たくらいだから、きっとその点に関しては問題はないはずで―――




        そんなことをひとりぐるぐると考え煩悶していたら―――ふと、澄んだ瞳と目があった。




        「・・・・・・薫殿?」
        ああ、起きたのか、と剣心はほっと息をついた。

        手を出さない(出せない)にしろ、彼女が隣でただ眠っていてくれるだけでも充分嬉しい。嬉しいのだが―――何も起きないにしろ、ふたりで同じ部屋で一
        夜を過ごしたりしては、明日他の面々からなんと言われるものかわかったものじゃない。やはりここは、ちゃんと別々の部屋で寝むべきだろう。
        そう思って、剣心は、薫に自室に戻るよう促そうとしたのだが―――


        ふいに、薫が横たわったまま、口の端を上げてにっこりと笑んだ。
        彼女に笑いかけられるのは、ごく普通に、よくあることの筈なのに、何故かこの笑みはいつもの彼女の笑顔と雰囲気が違っていた。
        なんというか―――ひどく蠱惑的だった。


        「薫・・・・・・殿?」


        敷布の端に膝をついて、薫はゆっくりと立ち上がる。
        剣心を見下ろすように、布団の傍らに立った薫は―――無言で、帯締めの結び目に手をかけた。


        「・・・・・・え?」


        きつく結んだ、帯締めをほどく。
        腰に巻かれた帯がゆるんで、身体の線に沿って足許へと流れる。

        帯揚げも緩めて、帯締めと一緒に引き抜いた。
        小鳥が羽を広げたような形の帯結びが、支えを失って崩れ、ばさりと畳の上に落ちた。


        彼女が何をしているのかは明白だった。
        驚きのあまり言葉を発することを忘れてしまったように、剣心は、薫が着物を脱いでゆく様子をただ呆然と眺める。


        腰紐をほどくと、朱鷺色の着物が肩から滑り落ちた。その下に着ていた、淡い色彩の襦袢も腰巻も、花びらが散るように彼女の足許に落ちてゆく。
        最後に、薫は着物と同じ色のリボンをほどく。長い髪がふわりと広がり、白い背中を覆った。

        身に着けていたものをすべて脱ぎ捨てた薫は、ひた、と裸足の足を剣心の方へと踏み出した。
        反射的に、半身を布団の上に起こした剣心は、そのままの姿勢で後ずさる。



        な・・・・・・なんだこれはなんだこれはなんだこれは。
        これはどういうことだろういやどういうことかはわかりきっているだろう彼女のほうからこんな行動に出るなんてこれはつまり。



        抱いて、ということだろう。



        いや、それはだめだそれはだめだそれはだめだ。
        彼女がそう望んでくれることはめちゃくちゃ嬉しいし俺だって彼女のことが欲しくて欲しくてたまらないけれど、今俺は腕がこの有様でこんな状態で君を抱
        きしめるのは俺の本意ではなくて―――


        ―――と、そこで剣心は、自分が腰で後退りをしながら、敷布の上に右手を突いていることに気づいた。
        いつの間にか、腕に巻きついた包帯がなくなっていた。
        その事に驚きながら、右手を顔の前に持ってきてしげしげと見つめる。どこも、痛くない。怪我が―――治っている。


        ・・・・・・あれ?おかしいないつの間に治ったんだろう。
        ・・・・・・じゃあ、治ったということは、いいんだろうか。



        君を抱いても―――いいんだろうか。



        剣心は、薫の白い裸身を見上げた。
        彼女は、とてもきれいだった。


        きれいだな、と思ったとたん、怖くなった。
        こんな綺麗なものを俺のものにしてしまっていいんだろうか。
        こんなに、心も身体も綺麗でひとつの穢れもない、まっしろでまっさらな君に触れるなんてこと、許されるんだろうか。

        どうしよう、俺は彼女を怖がっている。
        ずっと焦がれていた存在に、いざ手が届く段になって怯えている。
        だって、こんなに好きなひとに、こんなに綺麗なひとに、一度でも手が届いたなら、触れてしまったなら。


        俺は喜びのあまり、君を―――めちゃくちゃにしてしまうに違いない。


        剣心は、また後退して薫との距離を広げようとする。
        しかし薫は、彼の前に膝をついて―――じっと、剣心の顔を覗きこみ、微笑んだ。
        迷子の子供にむかってそうするように。あるいは、傷ついた獣に対してそうするように。「大丈夫」というように、優しく微笑みかける。

        その、聖母のような笑顔に見とれると、すっと白魚の手が剣心に向かって伸ばされた。逃れる間もなく、てのひらが頬を包み込む。
        彼女の伏せた睫毛が、ごく近くに見えたけれど、剣心は目を閉じることすらできなかった。



        唇が、触れる。
        彼女から、口づけられる。


        「かお・・・・・・る・・・・・・」


        うわ言のように、彼女の名を呼ぶ。
        理性を保てたのはそこまでの事で―――そこから先は、もう、身体が勝手に動いた。



        固まっていた腕を動かして、円い肩を捕まえる。そのまま、飛びつくようにして、彼女を布団の上に押し倒した。
        細い手首を握りこんで、組み伏せた薫を見下ろす。途端、彼女の面から慈愛に満ちた笑みが消えて、年相応の少女の顔になる。
        これから自分の身に何が起きるのを知りながら、覚悟をしながら―――それでも怯えを隠しきれない、十代の少女の顔に。

        その、怯える様子すら可憐でいとおしくて、剣心は構わずに薫を抱きしめ口づける。
        口を開かせて、呼吸を奪うようにふかく求めて、苦しそうに彼女が「けんしん」と呼ぶ声も、ほとんど耳に入る余裕はなくて。


        「すまない・・・・・・」
        掠れた声で剣心は薫に謝罪した。
        口にしてから、これは何に対する謝罪だろうかと自問する。

        君をこれからめちゃくちゃにすることに対しての謝罪だろうか。それとも、あれだけ懊悩していたくせに、いざとなるとあっさり理性が負けてしまう己が情けな
        くて、つい謝ってしまったのだろうか。

        自分でも判然としないまま、剣心は薫の腰を持ち上げ、引き寄せた。
        涙声の悲鳴があがる。それでも薫は、苦しそうに息をしながらも細い腕を剣心の背中に回して、懸命に彼を受け止めようとする。




        剣心はもう一度「すまない」と謝りながら、慄える薫の唇に口づけた。








        ★








        目を開けると、すぐそばに剣心の顔があった。



        常の薫は低血圧だが、今日ばかりはびっくりしてあっという間に目が覚めた。
        ああそうか、そうだった。昨夜は剣心に「もう少し一緒に」とねだられて、彼の隣に横になって。ほんの少しそうしているつもりが、じゃれあっているうちに眠
        ってしまい―――そのまま、朝になってしまったらしい。

        ・・・・・・しまった。これは、操ちゃんにからかわれるかも。
        何もしていないとはいえ、剣心の隣で夜を明かしてしまったのは充分ひやかしの種になりそうだ。仕方ないかと苦笑しつつ、薫は身を起こして剣心の寝顔
        に目をやった。


        まだ、眠っている。
        何だろう、夢でも見ているのだろうか。彼の唇は楽しげな笑みの形をとっている。


        「・・・・・・かおる・・・・・・」


        小さく名前を呼ばれて、薫は目を大きくする。まだ彼は眠っている。と、いうことは、寝言で名前を呼ばれたということだ。
        嬉しくなって、薫はもう一度身体を倒して、剣心の隣に横たわる。じっと寝顔を見つめると、まるでその視線を感じとったかのように、目蓋が震えた。薄く、
        目が開く。

        明るい色の瞳にむかって、薫は囁くように「おはよう」と言った。
        半分以上、意識をまだ夢の中に残してきたような表情で剣心は薫を見る。右腕を動かして抱き寄せようとしたが、その途端、鈍い痛みが走って顔をしかめ
        る。


        「ちょ・・・・・・駄目よ!動かしたら傷が開いちゃう!」
        「傷・・・・・・?」
        「そうよ、せっかく良くなってきたんだから、あと数日はそのまま我慢してって、恵さんも言ってたでしょう?」
        ようやく開いた目でぱちぱちと瞬きを繰り返して、剣心は薫と、包帯が巻かれたままの自分の腕とを交互に見る。
        突然大きく動かしたため、少し傷が痛い。つまりは、まだ怪我は治っていない。と、いうことは―――

        「治った夢でも見ていたの?」
        「・・・・・・え?」
        「剣心、なんだか嬉しそうな顔していたから・・・・・・わたしの名前も、寝言で呼んでいたわよ?」


        そう言って、薫は無邪気に笑いかけた。
        すると―――剣心の口が、驚いたようにかくんと開く。


        「・・・・・・きゃっ!」
        がば、と。掛け布団を跳ね飛ばす勢いで上半身を起こした剣心に、今度は薫が驚きの声をあげる。
        剣心は、今の今まで見ていた夢の内容を思い出して真っ赤になり―――そして、夢の中で薫にしたことを思い出して、青くなった。


        「剣心?」
        忙しく顔色を変える剣心を、薫は気遣わしげに見つめる。
        「どうしたの?気分が悪いなら、もう少し寝ていたほうが・・・・・・」

        身を起こした薫は、剣心にむかって手をのばし、肩に触れようとした。
        しかし―――





        ぱし、と。





        剣心は素早く左手を動かして、肩に触れる直前に薫の手を払い除けた。














        3 へ続く。