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今年も残り僅かというところで、東京の街にはうっすらと雪化粧が施された。
剣心は明け方の出来事そのものがまるで夢だったかのように、その後はごくごく普通に振舞っていた。薫はそんな「いつもどおり」の彼の様子を
目にしながら、今朝のあれは何だったのかしらと首を傾げる。
彼が、泣いているところを、初めて見た。
いや、わたしは初めてだけれど―――そうだ、左之助と恵さんは見たことがあると言っていた。
あれは―――
そこまで考えて、はっとする。
周りの目も構わず剣心が泣いたという、あの時。
あれは、わたしが死んだときだ。
その日一日雪は気まぐれにちらついて、冷え込みの続くなかまた夜が来た。
いつものように薫の隣で眠りについた剣心は、明け方近くに、また同じ夢を見た。
あとはもう前日と同じ流れで―――夜中に目が覚めてしまった子供が暗闇を恐れて母親にすがりつくように、剣心は薫の名を呼んで彼女の肩を
つかんで揺さぶり、強制的に眠りから覚めさせた。その様子は「寝ぼけている」というにはあまりに切羽詰っていて、起こされた薫はずっと年上の
彼を幼子をあやすように宥めるしかなかった。
「ほら、ちゃんとここにいるから・・・・・・大丈夫」
言い聞かせるように優しく囁くと、噛みつくように口づけられた。
重ねられた剣心の頬は、やはり、涙に濡れていた。
すがりつく手の動きが愛撫にかわり、夜着を剥ぎ取られる。
恥じらう暇も与えられず、彼がなかに押し入ってくる。
加減することを忘れたように激しく抱かれて、薫は耐えきれず幾度も悲鳴のような泣き声をあげた。
「ねぇ、どんな夢なの?」
何度も何度も求められて、身体中彼の余韻に満たされながら、薫は呟くように訊いた。
「・・・・・・同じ夢、薫殿がいなくなる夢でござった」
冷え込んでいる筈の、真冬の夜明け前。しかし、抱き合ってくっつきあった互いの身体は汗ばんでおり、むしろ暑いくらいだ。
「んー、もっと具体的な説明をお願い」
「いや、説明したところでそんな面白い内容でもないし」
のらりくらりとかわされた薫は、剣心の腕枕に頭を預けながら、憮然とした表情になる。
いくら他人の夢のこととはいえ、そこに登場している以上は自分だって当事者だ。そう思うのは詭弁だろうか。
大体、泣いている彼を宥めたのは―――たった今いいだけ好きにされたのはわたしだというのに。
「明け方に見る夢って、正夢って言うわよね」
ならば切り札に、とばかりに吐いた台詞に、剣心がぎょっとする。
「え、ほ、本当でござるか?」
おろおろと聞き返してくる様子がまるで年上の男性には見えないほど子供じみていて、薫はなんだか可笑しくなった。
「ほんと。母さんが言ってたもの。でもね、悪い夢は人に話したら、正夢にならずに済むんだって」
その言葉に剣心は真剣に考えこむ。それがまた子供のようで、薫は頬を緩ませた。
「・・・・・・その、気を、悪くしないで欲しいのだが」
「うん、なぁに?」
たっぷり逡巡したあと、歯切れ悪く口を開く。
「薫殿が・・・・・・死んでしまう夢、で、ござるよ」
薫は、驚かなかった。
むしろ、ああやっぱりと思った程だ。
「あのとき、みたいに?」
「・・・・・・ああ」
腕に納めた薫の身体を、剣心はより近くへと引き寄せる。
ふたりの間に、隙間ができないように。
離れることの、ないように。
「あの時のように、沢山血を流して・・・・・・昨日も今日も全く同じ夢だった」
だんだんと、剣心の声が小さくなる。
それを声に出して語るのすら、不安だと言わんばかりに。
「怖かった?」
「うん」
「あの時、わたし、どうすることもできなくて、ごめんね」
剣心が小さく首を横に振る。揺れた前髪が、薫のそれに絡まるように触れ合う。
「あの時も拙者は泣いて・・・・・・泣くだけ泣いて、涙が涸れたらあとはどうでもよくなった」
うん、と薫は頷いた。
その「壊れて」いた頃の彼については、薫は皆の話でしか知らない。
「どうでもよくなって、だからいっそ死んでしまおうかと思った」
薫はぎくりとして彼の顔を見た。
「でも、あの時はもう自ら死ぬ気力すら、残っていなかったんでござるなぁ」
「それは・・・・・・残っていなくてなによりだったわ」
当時の姿を自嘲するように剣心は苦く笑ったが、薫としては笑っている場合ではなかった。
だって自分はしっかりばっちり生きていたのだから、彼に死なれてはたまったものではない。
「でも、どうして今になってそんな夢を見たのかしら」
薫にしてみればもっともな疑問であったが、既に剣心はその理由を悟っていたらしい。
薫の目を、至近距離からじっと見つめて、すっと息を吸ってから、答えた。
「雪が、降ったから」
「え」
「むかし、巴が死んだのは、雪の中でだったから」
驚いたように、薫は目をみはる。
しかし剣心は、その瞳を閉じさせるように、瞼に唇を押しあてた。
「剣心?」
「すまない」
「けん・・・・・・」
「まだ、怖いんだ」
息を奪うように口接けられて、薫の眉が歪む。
息苦しさと甘い眩暈に襲われながらも、薫は必死に剣心の言葉の意味を考えた。
雪の中でこと切れた、かつての彼の大事なひと。
彼にとって、雪は―――大切なものが消えることの象徴ということなのか。
「いかないで」
「・・・・・・え?」
手のひらで、薫の首筋から頬をなぞりながら、剣心は絞り出すように言った。
「・・・・・・薫、もう、どこにも・・・・・・いかないでくれ・・・・・・」
まだ、悪夢に心が囚われているのだろうか。
その声が帯びた絶望の色に、薫はどきりとする。
悪い夢から引き戻させたくて、思い切り腕をのばして、剣心の首にぎゅっと抱きついた。
「勝手に殺さないでよ! わたしがあなたを置いてどこかに行くはずないじゃない!」
敢えて、強い口調でたしなめると、剣心の肩がぴくりと震えた。
その言葉で目が覚めたように、剣心の纏っていた思いつめた気配が、ふっと軽くなる。
「・・・・・・あの時、勝手にいなくなったくせに」
言い返してきた声はどこかおどけた響きがあってほっとしたが、同じ調子で彼の台詞をひきとった。
「ちょ、そういうこと言うのー!? それなら剣心だって、京都に行っちゃったときは・・・・・・」
「あはは、すまない、それを言われると辛いでござる」
返ってきたのはいつもと同じ笑い声だった。薫は幾分、安心する。
「もう少し眠ろうか」と促されて大人しく目を閉じたが、瞼の裏に浮かんだのは見たことのない筈の自分の姿で―――ぞっとした。
胸に深々と刺さった大きな刀と、頬にざっくりと生々しい十字の傷。夥しい、赤い色。
これが、彼の夢なのだろうか。
薫は、あのとき剣心に刻まれた心の傷を思って、彼にすがりつく腕に力を込めた。
そうだ、彼の目の前でわたしは死んだ。まさにわたしも当事者なのだ。
だからわたしが、彼を助けなくては。
3 に続く。