ゆめのおわり







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       ひらひらと、闇の中桜が舞った。





        柔らかな薄紅の花びらが優しく降り注ぐのを髪に手のひらに受けとめていると、やがてそのうちの一片が頬の上で融けて水になって流れた。



        ああ、そうかこれは桜ではない、雪か。
        そうだ、今の季節は春ではなく、冬だったではないか。


        あとからあとから舞い降りる牡丹雪の向こうに、見慣れた後ろ姿を見つけた。
        見慣れた背中、薫の背中にむかって手を伸ばす。



        どうしてか、近くにいるのになかなか届かない。
        行く手を阻むように激しさを増してゆく雪を払いのけるようにして、やっと薫の細い手首に手が届いた。


        強く引いた。
        彼女の身体がこちらを向く。


        途端に薫の身体が崩折れる。
        とっさに抱きとめると彼女の唇が笑みの形をとった。
        幾度も触れたことのある珊瑚色の唇の端から、つう、と朱色が伝う。


        唇から零れた血は形のよい顎を流れ首筋を濡らし、桜の柄の着物の襟元に紅い花弁を散らす。
        毒々しいまでの紅い花が左胸に咲く。
        彼女の背中を支える手もみるみるうちに薫の血に紅く染められてゆく。




        声をあげた。




        大声で腕の中にいる薫の名を呼んだ。
        筈だったが、声は音にならずに空気の塊となって吐き出されるだけだ。


        それでも呼ぶ、彼女の名を。
        薫の目に自分の姿が映っていた。



        彼女は笑った。
        優しく、美しく、包み込むように、菩薩のように、聖母のように。


        薫の左頬に傷が浮かび上がった。
        一筋、もうひとすじ。
        大きな十字傷からまた新しい血が鮮やかに流れる。




        ほころんだ形のままの唇から、ごぼりと音をたてて大量の血が溢れた。






        剣心は絶叫した。












        「―――はい?」




        もともと薫は寝起きがよいほうではなく、朝はしばしば剣心のほうが先に起きる。しかし、さすがに繰り返し何度も大声で自分の名を呼ばれたうえ
        にがたがたと身体を揺さぶられたら、いくらなんでも目を覚ます。

        平生より速く眠りから意識が覚醒してゆく。
        ぼんやりしている頭で薫は、まだ随分暗いなぁと考えていた。


        「・・・・・・薫?」


        正面に剣心の顔があった。
        背中には、布団の感触。と、いうことは剣心は自分に覆い被さった姿勢でいるのだろう。
        「なあに? どうしたの・・・・・・?」
        のんびりした声で薫は応えた。剣心はその声にくしゃりと顔を歪めたのだが、暗闇の中、その表情を薫は認識できなかった。


        「・・・・・・よかった・・・・・・」


        抱きしめられた。
        寝ぼけた頭で薫はちょっと苦しいなぁと思いつつ、ゆるゆると彼の背中に腕をまわした。
        そのまま赤子をあやすようにぽんぽんと優しく背を叩いてやる。



        「・・・・・・大丈夫、わたし、ここにいるわよ」



        特に深く考えずに、それこそぐずる子供に言って聞かせるくらいの気分で紡いだ言葉は、しかし剣心の胸のの深いところを突いた。
        抱きしめる腕に力がこもる。本気で苦しくなってきて薫の意識はようやく鮮明になった。
        「剣心? ねぇ、ほんとにどうしたの?」
        彼の手がせわしなく動く。まるで薫の存在を確かめるかのように。やがてその手は夜着の袷を押し開き彼女の帯をするりと解いた。
        「けん、しん?」
        いよいよ困惑した薫が不安げに彼の名を呼んだ。


        暗闇で、二人の目が合う。
        頬にあたたかい水滴がしたたり落ち、薫は驚く。


        「泣いて・・・・・・いるの?」



        とめどなくこぼれる涙が、薫の頬を、首筋を胸元を濡らす。
        こんな、子供のようにぼろぼろ涙を流す剣心を見るのは初めてだった。
        薫は驚きながらも、ただ、彼の好きにさせようと思い剣心を掻き抱いた。












        「・・・・・・怖い夢を見たんだ」



        素裸のままの薫を腕から離さずに、それでも漸く落ち着いた様子で、剣心は呟くように言った。


        「どんな夢?」
        「薫が、消えてしまう夢」
        さっきの夢は細部まで嫌というほど覚えていたが、とても具体的に説明する気にはなれず、大雑把にそれだけ言った。
        「わたし、どこにもいかないわよ」
        剣心の胸に頬を押しあてながら、薫が言った。

        突然起こされたかと思うとめちゃくちゃに抱かれて、すっかり疲れきった薫はもう一度眠りの淵に引き込まれようとしていた。ああでももうすぐ夜が
        明けちゃうのかな。そんなことを思いつつも、瞼はどんどん重くなってゆく。
        彼女が眠りに落ちるのを見届けてから、剣心はようやく安心したように、再び目を閉じた。










        数時間後。
        いつもより少々遅く寝床から出た剣心は、雨戸を開けてそこに広がる光景を目にして、自分が何故あんな悪夢を見たのか、その訳を理解した。


        薄く一枚膜を張ったように、庭を覆った白い色。
        初雪だった。










        2 へ続く。