夢で逢えたら










        「恋ひ死ねとするわざならし むばたまの夜はすがらに夢にみえつつ」
               ―――焦がれ死にしろと言うのですか? 一晩中、あなたが夢に出てくるなんて―――
                                                            (古今和歌集)















        短い下草の上にごろりと寝転がると、うっそうと茂る木々の合間から夜空が覗いていた。
        真っ黒に塗りつぶされたような木の葉の影の真ん中にぽっかり開いた濃紺の空。星明りのせいで、そこだけわずかに明るい。黒々とした地面に
        できた雨上がりの水溜りのようだ。

        少し離れた場所から、かすかに操の寝息が聞こえてくる。
        京都に向かう道中、なりゆきで同行することになってしまったこの少女は実にたくましく、街中から離れた森の中での野宿もものともしていない。
        疲れもたまっていそうなものだが、あと少しで京都に着くと思うとそんなことは操にとっては些事なのだろう。

        くるくる変わる表情と、尽きぬ泉のように溢れる生命力。
        そんなところが、少し薫に似ているかな、と思う。
        思って、すぐにその考えを打ち消す。


        なにかにつけて、つい、考えてしまう。彼女のことを。


        東京。あの場所で、新たに出来た友人たち。
        まっすぐな瞳で自分のことを見つめてくれた女性。
        これ以上、一緒にいてはいけないと思ったから去ったというのに。なんて、女々しい。



        その夜は、諦めの悪い自分にため息をつきながら眠りに落ちた。
        ―――そう、だから、きっと夢を見たんだ。








        ★








        「いつ、帰ってきたんでござろう・・・・・・?」
        縁側から見える庭の風景、もう見慣れてしまった眺め。
        自分は、神谷道場にいた。


        ―――「帰ってきた」?
        ぽろりとこぼれた言葉に苦笑する。
        いつのまにか自分はこの家を、「帰る場所」と思うようになってしまっていた。


        「ほんと、いつ帰ってきたのかしら?」


        驚いて横を見る。
        自分ひとりかと思っていたら、隣には薫がいた。
        いつのまにかふたり、並んで縁側に腰掛けている。
        頭上には奇妙に明るい、突き抜けたように青い空がぽっかりと広がっていて、妙につくりものめいていて。
        ああそうか、これは夢なのか、と。剣心はそこで気づいた。


        「薫殿も、どこかに行っていたのでござるか?」


        あんな別れ方をした彼女に、普段どおりの口調でするりと話しかける。
        でも、いいじゃないか。これは夢なんだから。


        「うん、京都にむかってるの」
        「京都?」
        「わたし、船に乗っていた筈なんだけど・・・・・・そうそう、弥彦が船酔いで大変なのよ」
        「どうしてまた、京都など・・・・・・」
        「剣心に会いに行くの」


        ―――凄い、さすがに夢だ。実に都合よくできている。


        そうだ、あんな別れ方をしておきながら、心の中でひそかに思っていた。
        ―――もし、彼女が、追いかけてきてくれたら?
        そんなふうに思ってしまうのは、まだ、後ろ髪をひかれているから。心を半分、この家に残してきてしまったように。

        「拙者の居場所など、知らないでござろう」
        「探すわ」
        「・・・・・・」
        「きっと大変だと思う。へこんだり、弱音を吐くこともあると思う。でも、あきらめないの。絶対に剣心を探し出さなきゃ」
        そう宣言する顔はとても晴れやかで、あの夜流した涙の片鱗も感じさせないで。
        「でも変ね、いつわたしたち、帰ってきたのかしらねぇ」
        いつもどおりの口調で、薫がふわりと笑う。


        「・・・・・・薫殿」
        「なぁに?」
        「好きでござるよ」


        自然に、口をついて出た。
        だってしょうがない、これは夢。
        夢だから、あふれてしまった感情を抑えることなんて、無理な話。


        「わたしも、剣心のこと好きよ」


        ずっと前からそう答えることが決まっていたかのように、それは自然に、薫が言った。



        これは夢、ここは夢の中。
        それなら―――許されるだろうか。



        腕を伸ばす。
        彼女を抱き寄せる。


        まだ、身体が覚えている、薫の肩の細さ、触れた頬のやわらかさ、甘い髪の香り。
        最後に、一度だけ交わした、別れの抱擁。
        あの夜とまったく同じ感覚が戻ってくる。



        夢の中なら―――君に触れることを許されるだろうか。



        ためらわずに、唇に触れる。
        現実では触れたことのない、触れることのできなかった、彼女の。
        夢にしてはやけに本物めいた、あたたかい感触が伝わってくる。


        そっと唇を離すと、薫は頬をほおずきのように真っ赤にそめて、驚いた表情をしていた。
        ・・・・・・きっと、実際の君に口づけたとしたら、こんな反応をするのだろうな。

        もう一度顔を近づけると、薫はぎゅっときつく目を閉じた。
        その仕草が可愛らしくて、ほころんだ形の口元のまま、今度はもっとしっかり唇を押し付ける。



        どうか、今だけ。
        今だけ思うままに振舞うことを許して。
        せめて夢の中でくらい、彼女に想いを伝えさせて。



        僅かに震えた薫の身体を、剣心は更にしっかりと抱きしめた。







        ★








        「緋村ー!起っきろー!!」



        容赦なく鼓膜を叩く操の声で、一気に現実へと覚醒させられる。
        既に夜は明けて、昇りだした太陽が暖かい木漏れ日を投げかけている。

        「早く起きてよ!今日中に京都に到着する予定なんでしょ?」
        威勢よくたたみかけてから、操は不思議そうな表情で剣心の顔をのぞきこんだ。
        「・・・・・・どしたの?緋村、変な顔してるよ」
        「変な顔?」
        「うん、なんてゆーか、腑抜けた顔してる」
        「・・・・・・」
        音量だけではなく、喋る内容にも容赦がない。
        「いい夢でも見てたの?なんか嬉しそう」

        たしかに、いい夢だった。
        そしてやけに現実味のある夢だった。まだ薫の感触が、この腕に残っている。
        唇にも、彼女の余韻が。


        「スキなひとでも出てきた?」


        上げかけた腰がぴたりと止まる。ぎょっとした顔で操を見た。
        「図星だぁ」
        してやったり、といった顔で操が笑う。
        「ね、誰が出てきたの?緋村のいいひと?どんなひとなの?」
        「いや・・・・・・いいひとというわけでは・・・・・・」
        別に答える義理もないのだが、寝起きで咄嗟に頭がうまく働かないのと夢の残滓とのせいで、ついつい口が動く。
        「でも、夢に出てくるってことは、好いてくれてるってことでしょ」
        「は?」
        「知らないの?よく言うじゃない。夢に誰かが出てくるってことは、相手が自分を想ってくれてるってことだよ」
        「・・・・・・そう、なんでござるか?」
        「うん、逢いたい気持ちが、身体を抜けて相手の夢まで飛んでっちゃうんだって。ろまんちっくだよねっ、あーわたしの夢にも蒼紫様出てこないか
        なー」
        きゃー、と操がはしゃいだ声をあげて笑った。


        ―――また、それは都合のよい。
        剣心は苦笑する。



        俗信とはいえ、操の話をついつい信じてしまいたくなる自分がいた。
        逢いたい気持ちが、夢の中に飛んでゆくというのなら、自分の心こそ彼女の夢に飛んでいってしまいそうなものなのに。








        ★







        「はよーっす!薫!」


        ぼんやりと甲板の手摺に身を預けて海を眺めていた薫に、弥彦が威勢よく声をかける。
        「・・・・・・ああ、弥彦おはよう・・・・・・船酔いは大丈夫?」
        「おう!今日は海も静かだし、すっかり・・・・・・って、お前こそ大丈夫か?」
        「え?」
        「顔赤いぞ、熱でもあるんじゃねーか?」


        薫は、自分の頬に手をあててみる。
        ほんわりと熱を帯びたそこがまだ、剣心の頬の感触を覚えていた。



        別れの夜、抱きしめられたときの感触ではなく、昨日見た、夢での。



        「具合悪いならおとなしく休んでろよなー、もうすぐ京都だっていうのに」
        「・・・・・・剣心の夢をみたわ」
        「お!幸先いーじゃん!」
        案外、到着したらすぐに見つけられたりしてな、と弥彦が笑う。


        海からの風が頬に心地よいが、それでも火照りはなかなか退かない。
        夢のなかで触れられたのは、重なったのは、頬だけではなく、唇も―――

        現実では触れたことのない、触れられることのなかった、彼の。
        夢にしてはやけに本物めいた、あたたかい感触が今でも残っている。



        「夢・・・・・・だったのよね・・・・・・」



        ずいぶん現実味のある夢だった。
        あんな別れ方をしたというのに、そんなことをすっかり忘れさせてしまうような、幸福な夢。


        「でも、都合のいい夢だよね」
        口のなかでちいさく呟く。



        相手が自分を想ってくれていると、そのひとが夢に出てくるというけど、ほんとうかしら。
        都合よく、そんな俗信もあてにしようとしてしまう自分に苦笑しつつ、薫はぐっと首をそらせて、長い髪を潮風に遊ばせた。











        「寝られぬをしひて我が寝る春の夜の 夢をうつつになすよしもがな」
             ―――逢えない苦しさに、眠れぬ夜にやっと見た夢を、どうすれば現実にできますか?―――
                                                               (後撰和歌集)












        (了)
                                                                                   2012.02.06





        モドル。