君は、沢山のものを俺に与えてくれたね。
新しい仲間との出会い。
過去と向き合い、答えを出す勇気。
生きようとする意志、帰る場所。
そして―――
雪と涙
暮れも押し詰まった、師走の午後。
明治十三年も、残すところあと数日となって、新年を迎える準備に街は気ぜわしい雰囲気に包まれている。
その空気に背中を押されるかのように、道をゆく人達の足取りも自然と速いものになっていたが―――そんな時、ふと足をとめて空を見上げてしまったの
は、剣心と薫だけではなかった。
「・・・・・・おろ?」
「・・・・・・あ!」
不意に舞い降りた、この冬最初の天からの使者。
往来の人々は一瞬慌ただしさを忘れて、頬を緩めて頭上を仰ぐ。
「ほら剣路。見てごらん、雪よ」
水色の空には薄い雲が流れているものの、太陽の顔も見えている。風花だった。
薫は腕に抱いた剣路を小さく揺すって教えてやる。夏に生まれた彼にとっては、はじめて目にする雪だ。
「この冬は、年が明けるまで降らないのかと思っていたが・・・・・・」
「そうよね、前の冬で二、三年分くらいいっぺんに降ったみたいだったものね」
またこの度も大雪になるのかしら、と呟きつつ、薫は剣路の顔を覗きこんだ。空から降ってくる白いふわふわとしたきれいなものは、彼の目にはどのように
映っているのだろうか。
「わかるのでござるかな、笑ってる」
「ほんとね、ご機嫌みたい」
剣心によく似た色の目を細めてにこにこしている剣路に、薫は笑顔を返す。
そして、まわりの通行人にぶつからない距離なことを確認して―――その場で、くるりとつま先で立つようにして回った。
黒髪がふわりと大きな弧を描く。
舞い落ちる雪がその髪をきらきらと飾る。
雪が、薫のまわりで踊るのが楽しいのか、それとも単にくるくる動くのが面白いのか、剣路がきゃーと笑い声をあげた。それに応えて、二度三度と薫がそ
の場で回ってやったところで、剣心から「あんまり続けると、目が回るでござるよ」と声がかけられた。
「はぁい」と素直に答えた薫は、振り向いて北風にほんのり染まった顔を剣心に向けたが―――その目が驚いたように大きくなる。
「どうか、したでござるか?」
首を傾げた剣心は、逆に薫に問い返される。
「剣心こそ、大丈夫・・・・・・?」
「え?」
薫は気遣わしげに剣心の顔をのぞきこみ、手を伸ばしてそっと頬に触れる。
目に映る彼女の姿が、僅かに揺らいで見えた。そこでようやく、剣心は自分の目尻に涙が滲んでいることに気づいた。
「ああ、これは・・・・・・」と呟きながら、何食わぬ様子で目許を拭う。
「風が、目に染みただけでござるよ」
剣心はごく自然な調子でそう言って微笑む。
薫は彼の瞳の奥の色を確かめるようにじっと目を凝らしてから、「なら、よかった」と表情を緩めた。
「本格的な降りになる前に、帰ろうか」
「うん。お買い物、あと何が残っていたかしら」
「竹ひごと、紙でござるな」
凧の材料を挙げた剣心は、歩きながら身を屈めて剣路に顔を近づける。
「正月には、凧をあげてやるからな」
「あ、ねぇ、津南さんに絵を描いてもらったら素敵じゃない?」
「それは、贅沢な凧になるでござるなぁ」
薫の提案に剣心は笑った。
一陣の強い風が吹いて、薫は剣路を庇うように身を竦めた。
★
「もう、寝てしまったのでござるか?」
「うん、今日はお外でいろんな人に会ったから疲れちゃったのかな」
その日の晩の剣路は薫が寝かしつけてやるまでもなく、布団の上に横たえてやると直ぐに寝息をたてはじめた。
小さな布団の隣に肘をついて横たわっていた薫が身を起こすと、後ろから伸びてきた腕に抱きしめられる。膝の間に座らされた薫は、遠慮なく剣心の胸
に背中を預けた。
「薫殿、昼間言っていた話でござるが」
「え?」
「凧の絵、ほんとに津南殿に頼んでみようか。ほら、もともと餅を搗いたら届けに行くつもりだったでござろう? その時にでも」
「あ、それは名案ね!大賛成!」
「妙殿が聞いたら、怒られそうでござるがな」
「うーん、津南さんの絵を凧に使うなんて勿体ない!って?」
その剣幕は容易に想像できたので、剣心は笑った。そして、剣路をあやすときのように、抱きしめた薫の身体をゆっくりと揺らしてやる。
薫はその心地よい振動に、暫く身を任せていたが―――ふと、躊躇いがちに口を開いた。
「ねぇ、剣心」
「んー?」
「わたしも、昼間のことなんだけど」
「うん」
「・・・・・・やっぱり、剣心泣いていたんじゃないの?」
ぴたり、と振動が止まる。
薫が振り向くと、近い距離で剣心と目が合った。
「どうして、そう思うのでござる?」
「だって・・・・・・ほら、初雪が降ったでしょう? だから、ひょっとして、また・・・・・・」
慎重に言葉を選びながら尋ねてくる薫に、剣心は首を横に振ってみせる。
「それは、もう大丈夫でござるよ。もう怖くないと、前にも言ったでござろう?」
二年前、ふたり暮らしを始めて間もない頃。
出逢ってからはじめての雪の季節を迎えて、剣心の心に揺らぎが生じたことがあった。
降る雪に、大切な人を喪った記憶が呼び起こされた剣心は、薫が自分をおいて消えてしまう悪夢に夜毎苛まれるようになった。
彼女がいなくなってしまうのではないか、という不安に駆られ、毎晩夢から覚めては薫を抱きしめて、子供のように泣いた。
雪が、怖かった。
剣心にとって雪は、大切なものが消えてしまうことの象徴のようなものだったから。でも―――
「今では、むしろ嬉しい知らせを連れてくるものに思えるでござるよ」
「え?」
「剣路を授かったと判ったのは、雪の季節だったから」
二年前、思いがけない行動と言葉で、悪夢の淵から剣心を引っ張り上げたのは薫だった。それ以来、怖い夢を見ることはなくなった。
そして次の冬が来て、年が明けて街全体がすっぽり白い雪にくるまれた頃、薫は新しい命が宿ったことを剣心に告げたのだった。
「薫殿と、剣路のおかげでござるな」
ありがとう、と、礼をするように剣心は首を前に倒す。前髪と前髪が触れ合って、薫は照れくさそうに首を縮める。
「・・・・・・でも、泣いてたように見えたんだけどなぁ」
剣心の答えに安心したのか、薫は先程とは違うからかうような口調で言った。
「だから、風が目にしみただけだと言ったでござろう?」
「んー、けど、剣心って結構泣き虫だしなー」
「泣き虫? 拙者が?」
「赤ちゃんができたって伝えたときも、剣路が生まれたときも、剣心泣いてたじゃない」
「いや、それは・・・・・・仕方ないでござろう・・・・・・」
確かに、泣いた。
でも、あの時はどちらも、どうしようもなく感動してたまらなく嬉しくて涙があふれてしまったのだ。
そこを茶化されるのは心外だとばかりに憮然とする剣心に、薫はくすくす笑いを引っ込めて「そうよね、ごめんなさい」と素直に謝った。薫としても、あの時
彼が泣くほど喜んでくれたのが、とてもとても嬉しかったわけだし―――しかし。
「泣き虫なのは、薫殿のほうでござろう?」
「きゃ・・・・・・!」
ぐい、と肩に力がかけられたと思ったら、あっという間に布団の上に引き倒される。
覆い被さってきた剣心の表情に不穏なものを感じて、薫は身を竦ませた。
「け・・・・・・剣心? えーと、ごめんなさ・・・・・・んっ・・・・・・!」
もう一度謝罪の言葉を口にしようとしたが、剣心は聞かないとばかりに唇を塞いで薫の台詞を遮る。
「意地悪を言うから、仕返しでござるよ」
唇の上で囁く剣心の声音のほうが、余程意地の悪い響きを含んでいた。
どんな仕返しをされるのかは明白だったので、薫は「でも、剣路が」と戸惑う声で訴えたが、あっさり「うん、よく寝ているでござるな」とかわされた。
首を動かして横に敷かれた布団のほうを見やると、剣路は天下泰平といった風情ですやすや眠っている。そうなるともう、薫に拒む理由は無くなる。
「・・・・・・泣かせてあげる」
耳元で囁かれて、背筋にぞくりと慄えが走った。
腕をのばして、薫は剣心にすがりつく。
外では、しんしんと雪が降り続いていた。
★
泣いていない、と言ったのは、嘘だ。
きっと薫もその事に気づいていたのだろうが、強がりに付き合って身を任せてくれたのだろう。
いつものことながら、自分はこの年下の妻にどれだけ甘えているのだろうか、と剣心は苦笑した。
寄り添って眠る薫の顔をのぞきこむ。閉じた目蓋に残る涙をそっと指で拭うと、濡れた睫毛がかすかに震えた。
昼間、ひとはこんな時にも涙が出るものなのか、と不思議に思った。
透き通る水色の空の下、降り注ぐ風花の中で笑う君。
風に踊る雪を捕まえようとしているのか、ちいさな手を空へと伸ばす剣路。
冷たい北風にふたりとも頬を紅潮させて、ああ、生きている色だと思った。
大好きなひとと、そのひとが紡いでくれた新しい命が、自分の子供が、笑っている。
光の中、柔らかな雪をきらきらと身にまとわせて。
それは「幸福」の他に言い表す言葉が思い浮かばない光景で―――気がつくと、目に涙が滲んでいた。
実際のところ、自分は確かに、前より「泣き虫」になってしまったのかもしれない。
今日のような何気ない場面を見ても涙がこぼれそうになってしまったし、薫から妊娠を告げられたときも剣路が生まれたその日も男泣きに泣いた。
それに―――薫は知らないことだろうけれど、はじめて彼女を抱いた夜も泣けてきてしまって困った。
あの夜、敷布に沈めた白い身体が震えていた。痛みに耐えながら、切れ切れに漏らすか細い泣き声が愛おしかった。
心地よい熱を孕む肢体を抱きしめると、薫は「なんだか、夢みたい」と涙に濡れた瞳で笑った。それは今まで見てきたなかで最高に綺麗な笑顔だった。
「重くないの?」と心配しながらも、腕を枕にやがて彼女は眠りに落ちた。
腕に感じる心地よい重さと、さらさらと流れる髪の感触。触れ合ったところから伝わる体温、汗、鼓動。
彼女の身体には瑞々しいいのちの力が満ちていて、それを感じているうちに堪えきれず喉の奥から声が漏れて―――あとはもう、止まらなかった。
堰を切ったように、溢れだした感情。そして、涙。
あれは、歓びの涙だった。
君が、生きている。
生きている君が、腕の中にいる。
君と抱き合って愛し合ってひとつになれたことに、心が身体が歓喜に軋んで痛いくらいで、涙が止まらなくなった。
「夢みたい」だなんて、そんなのこっちの台詞だと思った。
君が生きていたことで俺がどのくらい救われたのか、君は知っているの―――? と。
「ん・・・・・・」
薫が、小さく身じろぎをした。
乱れた髪を指で梳きながら撫でつけてやると、安心したように息をついて身体をすり寄せてくる。ここのところすっかり顔つきが「お母さん」になってきたなと
思っていたが、こうして無心に眠る姿はまるで稚い少女のようで、それがなんとなく新鮮で、剣心は薫の額に口づけを落とした。
顔を寄せると、彼女の呼吸を感じる。それに重なって、もうひとつ聞こえる小さな寝息。傍らで眠る、剣路のものだ。
夜の底をゆっくりと満たしてゆく、暖かなふたつの気配。こんな夜を過ごすようになるなんて、それこそ昔は夢にも思っていなかった。
独りだった頃は、夜はただ朝を待って越えるだけの時間であって、それ以外の意味を持たなかった。
それが、ふたりになってからは大切なひとを抱きしめるための時間になって。
今はこうして三人になって、穏やかな安らぎを実感するためのひとときになって―――
「・・・・・・まいったなぁ・・・・・・」
剣心は、またしても目の奥がじわりと熱くなってきたのを持て余しながら、小さな声で呟いた。
雪の、所為かもしれない。
きっと今も降っているであろう雪が、夜をいつもより静かなものにしているから。
だから、なんということもない普段の幸せまでもがこんなにも深く心に染み入って、こんなにも泣きたくなってしまうのだろう。
「泣き虫、と言われても仕方ないでござるな・・・・・・」
でも、それでも構わないかな、と思う。
かつて愛したひとがこと切れた雪の日、冷たくなってゆく骸を抱いて泣いた。
君を永遠に喪ったと思ったあの時、このまま泣き疲れて自分も死んでしまったらいいのにと、本気で思った。
けれど、今あふれそうになっているこの涙は、まったく違う種類の涙なのだから。
喜び、感謝、そして幸福感。
君と出逢うまでは―――こんな涙は知らなかった。
「・・・・・・ありがとう」
額に唇を押しつけるようにして囁いた一言が耳に届いたのか、薫の目蓋が僅かにふるえる。
零の距離をもっともっと縮めたくて細い身体を掻き抱くと、眠る薫が小さく微笑んだように見えた。
同じ笑みを彼女に返して、剣心はそっと目を閉じる。
君は、沢山のものを俺に与えてくれたね。
惜しみなく注いでくれる、まっすぐな愛情。
ともに歩いてく、遥かに続く未来。
かけがえのない、小さな命。
そして―――この涙。
知らなかったよ。
喜びに流す涙があるなんてことを。
了。
2013.12.30
モドル。