この冬はじめての雪が降ったその時、ふたりで街を歩いていた。
        舞い落ちる雪のひとひらひとひらを目で追いながら歩いていると、酒屋の前に差しかかった。

        「寄っていこうか」と、剣心が言った。
        「そう言うと思った」と、薫が笑った。



        ふたりとも、頭に浮かんでいたのは同じ人物の顔だった。








        
雪の夜ばなし






        薫の繊手が、桐箱の中からふたつの酒器を取り出す。
        なんともいえぬ暖かみのある、生成に近い白い地の器。ふたつの酒器は夫婦になっており、微妙に大きさが異なっている。
        剣心は薫からやや大きい方を受け取った。てのひらで包み込むと、すべすべした質感が心地よく肌に馴染む。

        「あの無骨な手で、よくこんな物を作れるでござるなぁ」
        感心しているのだか憎まれ口を叩いているのか判然としない口調に、薫は思わず苦笑する。



        対になった酒器は、剣心の師匠である比古清十郎が作ったものだった。








        ★








        「遅くなったが、祝い物だ」
        そう言って、比古から酒器を渡されたのは今年の盆のことだった。



        夫婦になって初めて迎えた夏、剣心と薫はふたりで京都を訪れた。
        目的は巴の墓参りで、滞在するのは勿論葵屋である。その際、剣心曰く「不本意ながら」比古の住まいにも挨拶に行くことになった。剣心としてはこの度
        は顔を出さずに済ませるつもりだったのだが、不測の事態によりそうも行かなくなった。なんとなれば、お近が比古に「盆に緋村さん夫婦がお墓参りに来
        る」と伝えてしまったのである。

        どうやら彼女は一年前の夏に葵屋が志々雄一派の襲撃を受けたとき、駆けつけた比古に惚れてしまったらしい。操の弁によると「あれ以来ずっと懸想して
        いるみたいで、機会を作っては文を送ったり庵に押しかけたりしているみたいなんだけど・・・・・・」ということで、しかし手応えは暖簾に腕押しらしい。ともか
        く、剣心たちが京都に来るという知らせは、お近にしては「格好の話題」だったのだろう。いそいそと比古にそれを伝えてしまった。


        そうなると―――京都に来ていると知られている以上無視を決め込むことは出来なくなり、剣心は滞在中、薫を伴って比古の庵に足を運んだのだった。







        祝い物だと言って、剣心と薫の前に置かれたふたつの酒器。つまりは、結婚の祝いの品らしい。
        剣心は器と師匠の顔を交互に見比べてから、馬鹿丁寧に「お気持ちだけ頂戴します」と断った。


        「・・・・・・いい度胸じゃねぇか、俺が手ずから作った品を断るのか」
        「だから、気持ちはいただくと言っているじゃないですか、ありがとうございます」
        「お前、割れ物だから持って帰るのが面倒くさいとか思ってるな」
        「それもありますが、師匠から何か貰うとなれば後から高くつきそうで怖いんですよ」
        薫がこの師弟のやりとりをじっくり耳にするのは、これが初めてと言ってもよい。ぽかんとした様子で口喧嘩に近い会話を眺めていると、不意に比古は彼
        女の方に顔を向けた。

        「で、お内儀はどうなんだ」
        「え? わ、わたし?」
        「そりゃそうだろう、こいつは二人ぶんあるんだから、ちゃんと両者の意見を聞かないとな」
        突然話を振られて薫は慌てたが、じいっとこちらを見据えてくる比古の視線を受け止めて―――ああ、成程と納得した。


        「ありがとうございます、いただきます」
        薫はまっすぐに比古を見ながら答えた。


        これに泡を食ったのは剣心である。「薫殿、何を言って・・・・・・」と焦って腰を浮かす良人を、薫は笑って制した。
        「剣心、気持ちはいただくって言ったでしょう? それなら、この器は比古さんの気持ちがこもった物だもの。だから、わたしは器もちゃんといただきたいわ」
        まったくの正論に、剣心はぐっと言葉に詰まる。それを見て、比古は可笑しげに口の端を上げた。

        「よし、じゃあ折衷案だ、嫁の分だけ持って帰ってお前の分は置いていけ。俺がお前の代わりに使ってや・・・・・・」
        「ありがたく頂戴します」


        最後まで言わせずに、勢いよく比古の言葉を遮った剣心に、薫は思わず笑ってしまった。
        こうして、祝いの酒器は東京へと持ち帰られたのだった。








        ★








        「なんだか、あの時は薫殿と師匠が示し合わせていたみたいで、面白くなかったでござるよ」
        「もう、そんなこと出来るわけないでしょう?わたしだって比古さんに会ったのは久しぶりだったんだし、打ち合わせとかしていた訳でもないんだし」

        とはいえ、あの時薫は比古の視線を受けて、咄嗟にあのように答えを返した。別に示し合わせたわけではないが―――ああ言えば最終的に剣心が折れ
        るだろう、と。なんとなくあの視線に教えられたような気はしている。


        「・・・・・・でも、なんだかんだ言って最後には貰うつもりでいたくせに」
        剣心には聞こえないように、小さな声で呟く。


        手ずから器を作ったと言っていた比古。ちゃんと、ふたつの器が収まる大きさの桐箱も誂えてあって、当然それらは昨日今日で用意できる物ではなかっ
        た。と、いうことは、比古は前々からあの器を拵えていたということだ。おそらくは、弟子が祝言を挙げたことを知って―――いつか剣心と薫がたずねてきた
        ときに渡せるように、と。
        そして、剣心がその事に気づかない訳がない。そんな風に師匠が用意してくれた祝いの品を、口ではどう言おうとも彼が無下にできる訳がないのだ。

        「使ってこそが器の本領だからな。有り難がる余り仕舞いこんで、埃まみれにしたりするなよ」
        薫は、そんな比古の言葉を思い出す。剣心もそれを覚えていたから、今日はこの器で晩酌をする気になったのだろう。
        「確かに・・・・・・この色には雪が似合うでござるな」
        酒器を弄びながらひとりごちる剣心に、薫はつい頬を緩ませる。比古は、「年中使えるように作ったが、特に雪には映えるからな、雪見酒にはうってつけだ
        ぞ」とも言っていた。









        桐箱から出した器に、剣心はなみなみと、薫は控え目に酒を注いだ。


        「田舎というか・・・・・・殆ど山の中でござったからな。冬になると、それなりに雪も積もるんでござるよ」
        一杯目が残り僅かになるころ、滑りのよくなった口で、剣心の雪と酒にまつわる思い出話が始まった。比古に拾われた後の、まだ子供の時分の話だ。

        「積もった雪を掬って、平たい大鉢にたっぷり盛って。その中に、深めの茶碗を埋めて・・・・・・今思うと、あれは抹茶茶碗だったのかな」
        「そのお茶碗に、お酒を入れるの?」
        「ああ、そうしたら周りの雪が、酒をいい塩梅に冷やしてくれる・・・・・・と言うんでござるよ」
        雪が積もると、比古は時折そうやって冷やした酒を楽しんでいたらしい。薫は首を傾げて「でも、真冬の話でしょう?そんなに冷たいお酒を飲んで、寒くない
        のかしら?」と素朴な疑問を口にする。
        「うん、だから囲炉裏にがんがん火をくべて、部屋を暖かくして・・・・・・真冬にそうやって飲むのが、最高に贅沢だとか言っていたな。子供心にも『酔狂な』と
        思ったものだが」

        冷やした酒を、柄杓ですくって杯に注ぐと仄かな竹の香が酒にうつって、それがまた旨いなどとも言っていた。剣心は比古の言葉を思い出しながら、彼が
        作った器をしげしげと眺める。何故、陶芸の道に進んだのかを尋ねたとき、比古はある意味「適当」な返答で流していた。けれど―――


        「・・・・・・案外、自分の作った器で酒を飲みたくなったとか、そんな理由だったのかもしれぬな」


        呟くように言った剣心に、薫は「今度訪ねたときに、そうやって訊いてみたら?」と。何が楽しいのか、にこにこしながらそう返す。
        「そんな頻繁に会いたくないでござるよ。この二年で何度も顔を合わせたのでござるから、あと数年は無沙汰をしても罰はあたるまい」
        「男のひとはお父さんと距離を取りたがるって言うけれど、剣心もそうなのね」
        悪戯っぽく笑う薫に、剣心は目を丸くする。
        「師匠は、拙者の父親ではないでござるよ」
        「でも、育ての親みたいなものでしょう?」

        そう言われると、実際そのようなものなので反論できない。両親を一度に亡くして人買いに売り飛ばされそうになり、更には夜盗の襲撃を受けたところを救
        ってくれたのは比古で、そこから数年は彼のもとで剣を学びながら成長したのだから。確かに育ての親と言えなくもないが、こんなふうに正面から断言さ
        れるのははじめてで―――剣心はどんな顔をしたらよいのか判らず、とりあえず手元の器の酒をぐいと一気に飲み干した。薫はそれ以上は追及せずに、
        剣心の器に酒を注ぎ足すと、すっと立ち上がる。


        「まだ、降っているのかしらね」
        そう言って雨戸に手を掛け、横に引く。ふっ、と室内に冷気が流れ込んだ。

        「・・・・・・綺麗ねぇ」
        闇夜に、雪ははらはらと舞っていた。
        夜風に乗って降る雪は、散りゆく桜の花弁を思わせる。薫は雨戸を開けたままその傍らに膝をついて、小さな頤を少し上に向け、空を仰いだ。


        風が、薫の前髪を微かに揺らす。
        剣心は雪が踊る様とそれを見つめる薫の姿とを眺めながら、またひとくち、酒を口にする。



        春は夜桜、夏には星。
        秋に満月、冬には雪。

        それさえあれば、酒は充分美味い。
        それでも不味いというなら、自分自身の何かが病んでいるからだと―――むかし、師匠が言っていた。


        あれは、彼が無類の酒好きだからこその台詞だろうが、きっと酒の味に限ったことではないのだ。
        心が健やかでなければ、何を口にしても美味いとは感じないだろうし、何を目にしても美しいとは思えないのだろう。そういう意味では、長いこと自分は病
        を抱えたまま生きていたのかもしれない。

        けれど、この冬はじめての雪と、誰よりも大切なひとを目に映しながら飲む酒は、この上ない甘露だった。
        そして、群青の夜と白い雪を背景にした薫の横顔は、とても美しかった。



        くしゃん、と薫がひとつくしゃみをする。
        「駄目だわー、これじゃ風流とは程遠いわね」
        そう言って笑うと、雨戸を閉める。剣心は傍らに戻ってきた薫の手をとって引き寄せると、体温を分け与えるようにぎゅっと抱きしめた。

        「・・・・・・次に、比古さんに会いに行くのは、いつになるかしらね」
        暖かな感触に、心地よさそうに息を漏らしながら、薫は呟く。
        「そんな、度々訪ねていっては煙たがられるのが落ちでござるよ・・・・・・と、いうか薫殿、そんなに師匠に会いたいのでござるか?」
        語尾が微妙に尖ったのは、ちょっとした嫉妬心が湧き起こったからだ。しかし、それに対しての薫の台詞は予想外のものだった。
        「それもあるけど・・・・・・わたし、剣心が比古さんと話しているのを見るのが好きなのよ」
        「え?」
        「だって、剣心口調からして普段と違うでしょ? それこそ、お父さんと子供が話しているみたいで、新鮮なの」
        「だから、師匠は別に拙者の親では・・・・・・」
        「それにね、比古さんから子供の頃の剣心の話とか、もっと聞いてみたいもの。小さかった頃のあなたのこと・・・・・・もっと知りたいわ」


        その、言葉に。
        剣心は七月に体験した、一週間の不可思議な出来事を思い出して胸がさざめいた。


        自分の記憶の中には残らなかった、子供の頃のかけがえのない出会い。
        それは、薫にとっては、まだ記憶に新しい思い出だ。

        俺が、別離の瞬間の記憶を失ってしまったぶん―――きっと君は、ふたりぶんの悲しみを胸に抱えてくれている。
        優しい君は、「悲しい想いをするのがわたしだけでよかった」と言ってくれたが、俺がその悲しみすら羨ましいと思っていることは内緒にしておく。



        嬉しいことも悲しいことも残らず全部―――君との思い出は、ちゃんと覚えていたかった。



        「・・・・・・拙者の昔の話なんて、面白くもなんともないでござるよ」
        わざと、やれやれと言う様にため息をつくと、薫は「じゃあ、立場が反対だったらどう?」と反論する。
        「剣心は子供の頃のわたしを、見たかったとか知りたいとか思わないの?」
        「それは、思うでござる」
        きっぱり断言すると、「可愛かったんでござろうなぁ」と言いながら薫のリボンを解いて、大きくわしわしと掻き乱した。薫は笑い声混じりの悲鳴をあげて、剣
        心の肩先に頭を擦り付ける。

        「子供ができれば、きっと似ているでござるよ」
        ふっと、手の動きが優しくなるのを感じて、薫は剣心の顔を見上げた。
        「男でも女でも・・・・・・どちらかに似た子なら、お互いの子供の頃を目にできるようなものでござろう?」
        「・・・・・・ええ、確かに、そうね」

        薫は柔らかく微笑むと、もう一度頭を倒して甘えるように剣心に体重を預ける。
        「いつか子供が生まれたら・・・・・・比古さんにも会わせに行かなくちゃね」
        夏に、比古のもとを辞するとき、彼は「あんまり頻繁に来られるのも気持ち悪い、訪ねてくるなら程々にしろ」と嘯いていた。師匠らしい言い草だと思った
        が、彼はこうも言ったのだ。



        「まぁ、子供でもできたら、顔を見せに来い」と―――



        近い将来、実際に自分たちが子供を連れて訪ねて行ったとしたら、師匠はどんな反応をするのだろうか。それはちょっと興味深いな、と剣心は思った。
        「お祖父さん、とか呼ばせてやったら、どんな顔をするでござるかな」
        さっきは父親ではないと即答したくせに、と。剣心の勝手な物言いが可笑しくて、薫は笑った。

        薫は腕を伸ばして徳利を取ると、剣心に肩を抱かれながら彼の器に酒を注ぎ足した。
        かたじけないとそれを受けながら、剣心は閉じた雨戸へと目を向ける。


        しんと静かな師走の宵、まだ雪は降り続いているのだろう。






        京都も、今頃雪景色なのだろうか。
        そんなことを思いながら、剣心は薫の髪に頬を寄せた。














        了。






                                                                                       2014.12.30








        モドル。