夏。
「あーあ、まさか降るとは思わなかったなぁ」
「通り雨だ、じきに止むでござろう」
軒を叩く雨音に負けないよう、自然、交わす言葉の音量はいつもより大きくなる。
突然の雨に降られた剣心と薫は、近くの軒先に駆け込んだ。
雨の幕が京の街並みを、紗をかけたようにぼんやりとくすませる。
ひと月以上を過ごしてようやく目に馴染んできた風景が、今はまるで幻の街のように見えて、薫は不思議な気分になった。
「剣心、身体は平気?」
「勿論でござるよ、これくらいでへばっていたら、東京に帰れないでござろう」
帰る、という言葉がするりと彼の口から出てきたのが嬉しくて、薫は目を細めた。
志々雄真実との戦いの後、満身創痍の剣心はしばらく療養生活を余儀なくされた。そしてようやく起きて歩けるまでに快復してきたところで「身体を慣ら
したいから、ちょっと街を歩きたい」と言いだした。それでは誰が同行するか、という話は満場一致で「薫さんでしょう」と決定した。
皆から「どうぞごゆっくりー」とひやかしの声を浴びせられ背中を押された薫は、あわあわと「医者の恵さんもついていたほうが・・・・・・」と提案したが、「お
馬鹿、あなたわたしに馬に蹴られて死ねと言うの?」と、にべもなく断られた。
そんなわけで、京都の街をそぞろ歩いていたふたりだったが―――そろそろ戻ろうかという夕刻になって、このにわか雨である。
雨は、まだ止む気配はない。
薫は、ちらりと隣に立つ剣心の横顔を盗み見た。
彼の視線が、正面を向いていることを確認して、そっと一歩。
ほんの一歩ぶんだけ、剣心の方へ近づいてみる。
剣心は、当然その気配に気がついた。
そして、彼も同様に―――薫の方に、横に一歩、近づく。
これは、薫にとっては予想外だった。
互いに一歩近づいたせいで、ぐんと縮まった距離。それどころか、触れてしまっている肩と肩。
慌てて一歩横に退く。すると、追いかけるように剣心が一歩近づく。
また一歩、横に逃げると―――
「薫殿、濡れてしまうでござるよ」
つん、と着物の袖を引かれた。
確かにこれ以上逃げると、軒下から身体が出てしまう。
薫は観念して、剣心のいる側へ一歩戻った。
くっついた肩と肩。そこだけ、体温が高くなってしまったような、照れくさい、くすぐったい感覚。
「少し、おさまってきたようでござるな」
「そうね・・・・・・雲が途切れてきたみたい」
もう少し、長く降っていて欲しいような。羞ずかしいから、やっぱり早く止んで欲しいような。薫は複雑な思いで空を見上げる。
「白べこに着く頃には、日が落ちちゃっているかもね」
「そうでござるなぁ」
とりとめもなく話をしながら、雨のあがるのを待つ。
肩が触れ合っているのにも、少し慣れてきた。
寄り添うように、僅かに体重をかけてみると、剣心からも同じ反応が返ってきた。
「薫殿」
「なぁに?」
「今日は、一緒に来てくれてありがとう」
「どういたしまして・・・・・・でも、お天気がちょっと惜しかったかしら」
「いや、これはこれで楽しいでござるよ」
「雨宿りが?」
「ああ」
「そうね、わたしもそう思う」
やがて、雨があがった。
名残惜しいようなほっとしたような気分で軒先から出ると、夕闇迫る空に宵の明星が見えた。
雨雲が消えて、西の空は橙の絵具を滲ませたように鮮やかで、東の半分は深い蒼。
「綺麗ねぇ」
「うん、雨上がりならではでござるな」
立ち止まったまま、ふたりは澄んだ空をしばらく眺めて―――おもむろに剣心が提案した。
「薫殿、帰りはあちらの道にしようか」
「え、来たときと違わない?」
「違うでござるな」
「でも、それって」
「ちょっと、まわり道して行こう」
「え・・・・・・」
「疲れたでござるか?」
「いえ、むしろそれ、わたしが剣心を心配すべきなんだけれど」
「疲れていないなら、ちょっとだけ」
先程と同じように、つん、と着物の袖を引かれた。
初めてだった。そんな、甘えるように言われたのは。
「・・・・・・うん、じゃあ、ちょっとだけ、ね」
ふたり、顔を見合わせて笑う。
雨宿りも遠回りも、つまりはふたり一緒だから、こんなに楽しいのだと。
口には出さないけれど、ふたりともちゃんと気づいていた。
ゆっくり、ゆっくりと歩を進める雨上がり。
ひとつふたつと増えてゆく星を数えながら、帰ろう。
冬の終わりへ。