「帰ろう、剣心」と、彼女が言った。
その言葉は、とても素直に心の奥の深いところまで染み込んだ。
目を閉じて、すがりつく彼女の手にそっと触れてみた。
小さな、優しい手だった。
優しい傷痕 (キネマ版設定)
刃衛が自刃した後、剣心と薫は神谷道場へと帰った。
道場では弥彦と左之助が彼らの帰りを待っていたが、揃って血みどろのふたりの姿を見て、左之助は「ってゆーかお前ら何故診療所に寄ってこねーんだ」
と、安堵ではなく呆れた声をあげた。
そして弥彦がひとっ走りして恵を連れてきたのだが、やはり彼女も「どうしてその有様でまっすぐ帰ろうとか思えるわけ?!」と、労わるどころか一喝した。
恵は怒りながらもてきぱきと手当てをして「あなたは早く寝みなさい」と薫を自室に追いやり布団へと押し込んだ。剣心も薫も闘いの最中に刃衛から一太
刀ずつ浴びせられていたが、薫は連れ去られる前に手首も斬られている。実は、長時間放置しておいたこちらの傷の出血が馬鹿にならない量だったよう
で、薫の顔色を見た恵は「絵に描いたような貧血の顔だわね」という診断を下したのだった。
「まったく・・・・・・女の子なんだからもっと自分の身体を大事にしなさいよ。あんまり粗雑に扱うとご両親が草葉の陰で大泣きするわよ」
ふたりの手当てが終わったところで、恵の薫への「説教」がスタートし、薫の部屋に集まった一同はその様子を眺めていた。
「小さな傷が命取りになることだってあるんですからね? その手首、地味に危なかったわよ」
「ちゃんと診療所には行くつもりだったもん。でも、思ったより大丈夫みたいだったから、明日でもいいかなーって」
「どこを見たらそう思えるの?! 胸の脇の傷だって、皮膚一枚じゃなくて肉まですっぱり斬られてるのよ?! 一応剣術小町って呼ばれてるくらいなんだか
ら、あなたに何かあったらこの界隈の剣術青年たちがこぞって仏門に下りかねないのよ。そのへんもっと自覚なさい」
「それを言うなら、恵さんだって憧れのお姉様でしょ。綺麗な女医さん会いたさにわざと怪我して診療所に通う男の子だって沢山いるじゃない」
「青くさい小僧っ子たちに好かれても嬉しくもなんともないわね。ところで・・・・・・さっきも思ったけれどこちらの剣客さん、結構男前じゃないの」
流し目を送られて、剣心は思わず身を引いた。薫が床の中から「恵さーん、剣心はだめー」と情けない声をあげる。
「はいはい、わかってますよ。こういう冗談言われたくなかったら、ちゃんと大人しくして早く治しなさいな」
ぴん、と指の先で小さく薫の額を弾くと、恵は「じゃあ、わたしはこれで。お大事に」と立ち上がった。
彼女が辞するのと一緒に男たちも部屋を出たが―――剣心は、廊下に出た恵に低い声で一言尋ねた。
「傷は―――残るでござるか?」
恵は、振り向いて剣心を見た。その表情と声音で、自分のそれではなく薫の怪我について訊いているということは、すぐに察することができた。
「まぁ、多少は。でも、きちんと処置をしましたから、痕になったとしても比較的きれいな見た目に治る筈ですよ」
柔らかに、諭すように言われて、剣心は目礼した。
「・・・・・・かたじけない」
そう言って、剣心はそのまま薫の部屋へと戻る。
目の前で閉じた襖に、弥彦は「え? いいのか?」と首をかしげ、左之助はその頭にぽんと手を乗せる。
「まぁあれだな、ここからは子供は見ねぇほうがいいかもだな」
「え」
「ちょっと、野暮は言いたくないけれど流石にあの怪我でその展開はわたしが怒るわよ、ふたりして傷が開くでしょ。何のためにわたしがこんな時間に飛ん
できたと思ってるの」
「え、あの、それって」
「それについてはいずれ酒でも飲みながら解説してやるよ。っと、じゃあ女医さん、もう遅いから送ってくぜ」
「ありがと、お言葉に甘えさせていただくわ」
―――ここまでの会話は部屋の中にも筒抜けだった。
三人分の足音が遠ざかるのを確認してから、剣心は薫の枕頭に腰を下ろした。
「・・・・・・痛むでござるか?」
気遣わしげに訊かれて、薫は枕に乗せた頭を小さく左右に動かした。
「もう平気よ、剣心こそ、大丈夫?」
「拙者は全然。こんなの幕末の頃に比べれば、傷のうちに入らないでござるよ」
そう答えて剣心は笑ったが、その瞳に沈痛な色が浮かぶのを薫は見逃さなかった。
「ねぇ剣心」
「うん?」
「わたし、本当に大丈夫だからね」
「・・・・・・え?」
「だって、こんなところ人に見られるような場所じゃないもの。だったら、残ったとしても傷なんて無いのと同じだわ」
先程、恵に「傷は残るのか」と尋ねたのを、薫は聞いていた。
そして剣心の性格からして、それを気に病むだろうことも、簡単に予測できた。
だから薫は先手を打った。きっと彼は―――謝ってくるだろうから。
しかし剣心は、当然のようにこれに「反論」する。
「いや、だとしても、薫殿に傷を負わせてしまったのは事実で」
「負わせたって・・・・・・それ、おかしいわよ。これをやったのって、剣心じゃなくて刃衛じゃない」
「だが、そもそもは刃衛との闘いに拙者が薫殿を巻き込んでしまったから」
「あら、違うわよ。もともと刃衛が出てきたのって、うちと観柳との因縁がきっかけでしょう」
「それだって、拙者が賭博興行に割りこんだから―――」
「けど、そのおかげでわたしは、観柳に殺されそうだったところを剣心に助けてもらえて―――」
ふたりとも頑として譲らないため、話は堂々巡りになってしまう。言い合っているうちに剣心と薫はなんだか可笑しくなってきて、顔を見合わせて少し困った
ように笑った。そして剣心は、改めて薫にむかって、頭を垂れる。
「・・・・・・でもやっぱり、謝っておきたいでござるよ。刃衛がここまでするのを止められなくて、すまなかった」
「もう! だから剣心が謝ることじゃないんだってば」
むぅ、と眉間に力をこめて、薫は剣心の顔を睨んだ。
「だいたい、剣心だって斬られたんだから、わたしはいいから自分の事こそ気遣ってよね? わたしだって、剣心が怪我するの嫌なんだからね」
袷から覗く包帯の白い色を指して薫はそう言ったが、剣心は「男と女では、話が違うでござるよ」と首を横に振った。
「理屈ではなく、男としては女性に傷など負って欲しくはないんでござるよ。と、いうか・・・・・・」
ぱっと口をついて出そうになった次の言葉を、剣心は寸前で押しとどめる。しかし、薫のもの問いげな視線を感じて、結局、口にする。
「拙者は薫殿に・・・・・・怪我など、負ってほしくなかった」
それは、素直な感情だった。
これまでの長い旅のなか、誰かが傷つき、虐げられるの場面を見るのが嫌で、そんな人々を助けたくて剣を振るってきた。
けれど、薫に関しては―――それよりももっと強く思ってしまったのだ。この少女を、守りたいと。
彼女が刃衛に連れ去られたとき、なんとしてでも無事に取り戻さねばと、強く思った。「人斬り」だった頃の自分に戻ってしまうほどに、強く強く。
そして、彼女はこうして帰ってきたが―――刃衛が刀を振り下ろすのを止められなかった事が、悔しくてならなかった。
薫は横になったまま、うなだれる剣心の顔を見上げた。
そして、形のよい唇をほころばせて、柔らかく微笑んだ。
「・・・・・・やっぱり、よかった」
「え?」
「刺されたところ、見えないところでよかった」
どうして今、その話題に戻るのかが判らず、剣心は困惑したように眉を寄せる。
「だって、もし目につくような場所だったら、剣心わたしの傷を見るたびに落ち込んで後悔しちゃいそうなんだもの。だから、見えない場所でよかったわ」
その、薫の笑顔に、剣心は胸を突かれた。
たとえ道場主として剣をとって振るうことができるとしても、まだ、少女なのに。
ずっと賭博興行で戦ってはきたとはいえ、真剣の、白刃の下に身を晒したのは今夜が初めてだろうに。
なのに彼女は気丈にも、あの時、最後の一太刀を止めてくれた。そして今も、ずっと俺を気遣って心配して、笑いかけてくれる。
今夜の出来事が、怖くなかったはずはないのに。
刺された傷が、痛くなかったはずはないのに―――
「薫殿」
「はい?」
「・・・・・・ここにいても、いいでござるか?」
これもまた、話の流れからすると唐突な質問だった。薫は、剣心の問いの意味がわからず、不思議そうな顔になる。
「拙者は、この道場に・・・・・・この家にいても、いいのでござろうか」
脈絡なく訊くかたちになってしまったが、どうしても今、聞きたかったのだ。
流浪人になってはじめて、居たいと思える場所ができた。このまま、この少女の傍にいたいと思った。
そうだ、ここに来てから、いつしかそう考えるようになっていた。けれども、そんなことを望んではいけないとも思い、ずっとその感情は押し殺してきた。
でも―――急激に膨れ上がったその想いを、剣心はもう抑えることはできなかった。
「なに・・・・・・言ってるの?」
質問の意味を理解して、薫の目が驚いたように大きくなる。僅かに枕から顔を上げて、剣心の顔をじっと見る。その瞳が、ゆらりと揺れた。
「なんで、そんなこと言うの? 剣心、何処かに行っちゃうつもりだったの・・・・・・?」
ふわり、と。大きな瞳に涙があふれた。それはあっという間に粒になって、白い頬をすべり落ちる。
「どうして? わたし、さっき『帰ろう』って言ったばかりじゃない・・・・・・そんなの、居ていいに決まってるわよ、ここに、いてよ・・・・・・」
彼女が泣くのを見るのは、はじめてだった。
泣かせてしまった罪悪感とともに、その泣き顔を「きれいだな」とも思った。
布団に手をついて身を起こす薫に、剣心は反射的に手を差しのべる。僅かに傾いた身体を、そのまま引き寄せて抱きしめた。
触れ合った小さい肩は、かすかに震えていた。
・・・・・・なんだ。そうか、そうだったんだ。
気づいてみると単純なことだ。
俺は、この少女が好きなんだ。
だから―――こんなにも、彼女を守りたいと。ここにいたいと、そう、思ったんだ。
「・・・・・・すまない、薫殿」
ぎこちなく、薫の身体を掻き抱く。こんな想いで誰かに触れるのは、いったい何年ぶりだろうか。だいたい、こんな感情自体とっくの昔に忘れていた。
「すまない、おかしな事を訊いてしまって・・・・・・拙者は、どこにも行かないから」
薫の肩がぴくりと動いて、おずおずと顔が上げられる。
「・・・・・・ほんとに?」
貧血のせいで、普段より更に透き通るように白い頬を伝う涙を、剣心は指で拭う。
「薫殿さえよければ、このまま―――ここに、いさせて欲しい」
「だから・・・・・・さっきから、いいって言ってるのに」
泣き顔が、笑顔に変わる。つられて剣心も表情をやわらげる。
もっと、見たいと思った。
もっと彼女の色々な表情を見てみたい。もっと彼女のことを知りたい。そして―――もっと、自分のことを知ってほしい。
「・・・・・・薫殿」
「なぁに?」
「いつか、話せるときがきたら、聞いてくれるでござるか? その・・・・・・昔の、話を」
「流浪人に、なる前の頃の?」
「うん、それに、この傷の話も」
薫は、するりと手をのばし、剣心の頬に触れた。たおやかな花に触れるような優しい手つきで、十字の傷を包み込む。
「この傷も・・・・・・見るたびに思い出すことが、何かあるの?」
「今は、そうでもないでござるよ。なにしろ十年以上前のことだから。でも―――」
言いよどんだ剣心の顔に、暗い翳りが落ちる。それを察した薫はそれ以上は追及せず、「わかったわ、いつか、聞かせてね」と再び微笑みかける。
「じゃあ、わたしもいつか確認してもらおうかな」
「え?」
「ここの傷、綺麗に治ったかどうか」
そう言って胸の脇を指す薫に、剣心は思いきり狼狽えた。だって、それはどう考えても裸にならないと見えない場所で―――
「え、あの、でも薫殿それは―――」
剣心は真っ赤になって口ごもる。薫は彼のそんな珍しい姿を見て「冗談よー」ところころ笑った。
「恵さんの真似をしてみただけよ。あの人、こういう事言いそうじゃない?」
「それはそうかもしれぬが・・・・・・心臓に悪いでござるよ」
情けない声で答えて、剣心は薫の身体をそっと布団の上に横たえた。いつのまにか夜も更けた。いいかげん休ませないと彼女の身体に障るだろう。薫は
おとなしく従って枕に頭をあずけたが、眠る前にひとつ、剣心に頼みごとをした。
★
緩い呼吸のたびに、剥いた桃の実のような唇が小さく震える。
灯心を短くした小さいあかりに照らされた白い頬は、昼間、太陽のもとで目にするのとは違った質感のように見えた。
「寝つくまで、ここにいてね」という薫のお願いに従って、剣心は彼女の隣、布団の隅に肘をついて寝転がり、薫が眠りに落ちるのを待った。
年頃の娘の寝所に引き止められるというと何か誘われているようだが―――この場合はそうではなくて、幼子が暗闇を怖がってひとりになるのを嫌がるよ
うな頼み方だった。実際、先程の剣心の「ここにいてもいいか」という発言の所為で、彼が「いなくなる」ことを恐れて、そんなお願いをしたのかもしれない。
横になってからも、結局なんだかんだととりとめのないお喋りをしてしまった。剣心が「さっきのような冗談は他では言わないように」と注意をすると、薫は
神妙に「うん、わかった」と答えたが、その後に「剣心にしか言わないわ」と大真面目な顔で続けられたものだから、一本取られた気分になった。
しかし、やがて睡魔に襲われた薫の大きな瞳が目蓋に隠れ、唇から緩やかな寝息がこぼれはじめた。残された剣心は「あんまりまじまじ見るのも悪いか
な」と思いつつ、薫の寝顔から目を離せずにいた。
いつか、彼女にすべてを話そうと思った。
自分の過去や犯した罪を知ったら、薫は何を思うだろうか。
悲しむかもしれない。憤るかもしれない。二度と、笑顔を向けてはくれなくなるかもしれない。そう考えると、とても怖い。
いつか彼女は、「過去は詮索しない」と言った。それならば、この先も何も語らないまま一緒にいても、薫はそれを咎めはしないのかもしれない。むし
ろ、こんな血まみれの過去を含めて自分を知ってほしいと思うのは、ただの自分勝手な自己満足なのかもしれない。
けれど、薫に対しては誠実でありたかった。嘘偽りのない姿で、向き合いたいと思った。
それで彼女に愛想を尽かされたとしたら―――それは、仕方がないことだ。自分はそれだけの罪を重ねてきたのだから。
「あなたが変わらなくては、なにも変わらない」と言った薫。今、自分は変わるべき時なのだろう。
旅暮らしに別れを告げて、帰りたいと思う場所ができた。
ならば、この場所で新たな時を刻むためには、過去の自分と向き合って、いずれ決着をつけなくては。
けれど―――まず今は、ここに在る穏やかで優しい時間を味わおう。
きっとそれくらいの贅沢は、許される筈だと信じて。
そう思いながら、剣心は目を閉じた。
そして、すぐ隣にいる薫の寝息を聞きながら、ゆっくりと眠りの海へと身を投じた。
剣心が、十字傷にまつわる過去を打ち明けたのは、それから半年後のこと。
薫の傷跡が思った以上に酷く残らなかったことを「確認」できて安堵したのは、それから更に数ヵ月後のこと。
了。
2013.06.10
モドル。