「剣心先生、明日からよろしくお願いします!」



        いちばん年長の門下生が頭を下げ、他の少年たちも「お願いします!」それに倣う。
        すこし照れくさげな面持ちで、剣心は「うん、よろしく頼むでござる」と応える。
        頭を上げた彼らは一様に笑顔で、明日からの「剣心先生の稽古」が楽しみでならない様子が見てとれた。

        「じゃあみんな、気をつけて帰るのよー」
        薫の声にはーいと元気に返事をして、門下生たちは青空の下へと飛び出した。梅雨が明けたばかりの空にはくっきりとした輪郭で白い雲が湧き立ち、
        季節が夏へと動き出したことを教えてくれる。


        道場の庭に射しこむ陽光のまぶしさとは裏腹に、薫の声はなぜか普段より精彩を欠いていたが、明日からの稽古に心弾ませる少年たちは、それには気
        づかなかった。








        
優しいあの子







        「頼むってなんだよ、頼むって。教えるのは剣心のほうだろ?」
        「おろ、そうは言っても拙者、弥彦以外に稽古をつけたことはないゆえ、教えるのに関しては初心者でござるから」
        「頼りねぇなー、もっとどーんと構えてろよ。剣心の稽古ってだけであいつら今から浮かれてるんだから、何も問題ないって!」
        最近とみに背が伸びた弥彦に肘で小突かれ、剣心は苦笑する。


        いよいよ来月、薫ははじめての出産を迎える。
        ここまでの経過は順調だったが、臨月が近づくと、当然お腹の膨らみはかなり目立ってくる。薫としてはぎりぎりまで普段どおりの生活を送るつもりだった
        が、ここにきて門下生たちに「稽古中になにかあったらと思うと怖いですぅぅ」と訴えられ、それに呼応するように剣心からも「今が大事な時なのだから、頼
        むから無茶はしないでくれ」と泣きつかれ―――かくして明日から、薫は「産休」に入ることとなった。

        そうなると困るのは道場のことだが、そこは剣心が代稽古を買って出てくれた。流派が異なるのでできることに限りはあるだろうが、今の門下生はここ一年
        で入門した少年たちが大半だから、基礎を教えるぶんには何とかなるだろう。それに剣心が自ら申し出てくれたこと自体が、薫はとても嬉しかった。
        そして本日、稽古の終わりに「明日からは剣心が代稽古をつとめます」と告知すると、門下生たちは皆驚き、次いで歓声をあげて喜んだ。
        その反応にも薫は、ああよかったこのぶんだと産休中に門下を去る者はいなさそうだと、胸を撫でおろした。



        そう、明日からわたしが休むからといって、不安になることなど何もない。
        明日からも、何も問題ないと、そう思ったのだが―――





        「まぁ、このあたりで剣術やってる奴にとっちゃ憧れの的なんだから、ああいう反応になって当然だよな」
        「だから、教えるとなれば話は別なわけで、あまり期待されても・・・・・・とはいえ、神谷活心流の名を汚すわけにはいかんでござるからな。拙者も頑張る
        でござるよ」
        「お、いいじゃんしっかり気合い入ってるじゃん!」

        門下生たちを見送った剣心と弥彦は、道場から庭の方へと足を運びつつそんな会話を交わしていたが、ふたりの後について歩く薫は、ずっと無言のまま
        だった。
        そして、縁側にさしかかったところで―――力尽き崩れ落ちるように、がくりとその場にしゃがみこんだ。


        背後のただならぬ気配に振り向いた剣心は、顔色を変えて妻のもとに駆け寄る。
        「薫殿?!どうしたのでござる?!どこか痛いのでござるか?!それとも気分が・・・・・・」
        「・・・・・・明日」
        「え?」
        「明日からわたし、ほんとうに・・・・・・もう道場には入れないのね・・・・・・」


        弱々しい、絶望的な声。
        しかしどうやら気分が悪いとか体調がすぐれないとかそういう事とは違うようで、剣心と弥彦は顔を見合わせた。
        「薫殿、道場に入れないとか、そういうわけではないでござるよ?むしろ、薫殿には拙者がちゃんと代理をつとめているのか、監督してもらわないと」
        「でも・・・・・・それでもしばらくは、今までみたいに竹刀には触れないのよね・・・・・・」

        わかっている。薫自身も、今はお腹の子どものために、自分にできることは何でもしたいと考えているし、今は何より身体をいたわらなくてはならないとわ
        かっている。わかってはいるのだが、しかし―――



        「わたしから剣術をとったら、何が残るっていうの・・・・・・!」



        肩をふるわせて、この世の終わりと言わんばかりに、悲痛な声を振り絞る。
        うずくまって嘆く師匠を見下ろしていた弥彦は、ぼそりと「たしかに、あんまり残るものがねーな」とつぶやいた。

        すかさず薫は妊婦らしからぬ速さで立ち上がり、無礼な弟子に殴りかかろうとしたが、「無茶はいかんでござるよー!」と悲鳴をあげた剣心に抱きとめら
        れる。
        その隙に、弥彦は素早く「じゃあ、お疲れさんー!」と逃げ去った。








        ★








        「ほんとに、何も残らないのよね・・・・・・・」



        抱きかかえられるようにして縁側に座らされた薫は、剣心が持ってきてくれた麦湯を口にしながら、ため息をつく。

        「おろ、何がでござる?」
        「わたしから、剣術をとったら」



        「今は赤ちゃんを優先させたい」と考えているのは、間違いなく薫の本心だ。ここで無理をして何かあったら絶対に後悔するし、「無事に元気な赤ちゃんを
        剣心に抱かせてあげたい」というのが、何をさておいても今の薫の願いなのだ。
        けれど、そうは思っていても、子供の頃からずっと日常の一部だった剣術からしばし離れなくてはならないのは、辛い。

        子供の頃からずっと剣術はともにあって、ただただ剣術が好きだった。男性たちと対等に竹刀を交えられることも、女の身ながら道場を継いだことも誇り
        に思っていた。それに、剣心に出逢えたのだって、この流派を継いだことが始まりで―――剣術があってこその、わたしだったのに。


        剣心は、しょんぼりとしおれた薫の隣に腰をおろし、注意深くいたわるように、丸まった背中を撫でた。
        「そんな・・・・・・たしかに剣術は薫殿の大事な一部でござろうが、たとえそれを除いたとしても、まだまだ沢山のものが薫殿にはあるでござろう?」
        必死に気遣って、元気づけようとしてくれるのがありがたくて、薫はうつむいた顔をすこしだけ上げる。
        「たとえば・・・・・・何が?」
        それは、特に答えを期待して尋ねたわけではなかった。励まそうとしてくれることが嬉しくて、話の流れに乗って口にした一言だった。
        しかし剣心は、


        「優しいところとか、面倒見がいいところとか、明るくて元気で朗らかなところとか、笑うときの顔が可愛くて笑い声が綺麗で、見ているこちらも嬉しくなってし
        まうようなところとか、喋り方がはきはきしていて気持ちいいところとか、他の誰のために怒ったり悲しんだりしてくれるところとか、どんなことにも一所懸命
        で芯が強くて頑張り屋なところとか、それから・・・・・・」
        「わ、わかった!わかったから剣心!ありがとうもう大丈夫だから!」


        立て板に水の勢いで、すらすらと「薫殿に残ったいいところ」を並べ連ねる剣心を、薫はあわてて制止する。
        「まだまだあるでござるが・・・・・・・」
        「い、いいの大丈夫、もう充分だから」
        「そんなふうに照れるときの様子がかわいいところとか」
        「ほんとに!もう元気になったからー!!!」
        真っ赤になった薫は湯呑みに残った麦湯をぐびぐびと飲み干して、ぷはぁと大きく息をつく。つい先程のため息とは違う、満たされたような様子で。

        「・・・・・・嬉しいなぁ」
        そう漏らした声が本当に嬉しそうだったので、ああよかった本当に元気になったんだと安堵しつつ、剣心は「何がでござる?」と尋ねた。



        「いちばん最初に、『優しいところ』って言ってくれたから」
        「・・・・・・え?」
        「わたしのこと、優しいなんて言ってくれるの、剣心くらいよ。ありがとう」


        そう言って薫は微笑んだが、剣心はその反応に、困ったように眉根を寄せる。
        「いや、だって・・・・・・本当のことでござるよ?」
        まっすぐ目を見て、噛んで含めるように念を押すと、薫はうふふと笑ってもう一度「うん、ありがとう」と言った。



        元気になってくれたのは嬉しいが、いちばん最初に「優しい」と言ったのは、特別君に気を遣ったわけではないのに―――と。
        十全に届いていないようで、剣心はそれがすこしだけもどかしかった。

        本当にそう思っているから、いちばん先に口をついて出ただけなのに。
        君は本当に―――本当に、優しいのに。



        活発で朗らかで、竹刀を取ったら男まさりで。
        よく笑ってよく怒ってよく泣いて、活き活きとした生命力に満ちていて。
        それらは間違いなく君の魅力で特質で、君をよく知る者ならば、迷わず君の長所として挙げるだろう。俺もそう思っていたし、今だってそう思っている。
        けれど、活発で朗らかであることは、君という花が一番外側にまとった花弁であって―――さらに内側には、もっと豊かで、揺るがない優しさがある。


        人の過去にはこだわらないと言ってくれた君。
        俺をはじめとした、行きがたに迷う者たちを受け入れてくれて、信じてくれて。この道場を、孤独だった皆が集う場所にしてくれた君。

        ずっと言えずにいた過去を打ち明けたとき、傷ついた筈なのに。憤って愛想を尽かしても当然だったのに。それなのに、あの時笑ってくれた君。
        きっと傷ついただろうに動揺しただろうに、それを乗り越えて、俺に笑いかけてくれた君。


        初めて出逢った頃から、君が優しい娘だということは、わかっていたけれど。
        君と一緒の時間を過ごしていくうちに、いくつもの出来事を重ねていくうちに、気づいたんだ。わかったんだ。




        ほんとうに「優しい」というのは、君のようなひとのことを指すのだと。




        「でもきっと、今の台詞を弥彦に聞かれたら『優しい?どこが?』とか言われちゃうわよ?まぁ、わたしもいつもあの子のことどつき回してるから、そう言わ
        れても仕方ないんだけれど・・・・・・」

        嬉しすぎる言葉をもらえたことが面映ゆいのか、照れ隠しのように軽口を叩く薫。その肩に腕を回し、そっと頬に口づける。
        ―――言葉では到底伝えきれないこの想いが、ぬくもりを通して届けばいいのに。
        そう思いながら、不意打ちに驚いて黙る薫のおとがいに指を寄せ、今度は唇に触れた。




        ―――優しい、とは。
        穏やかで静かなたたずまいとか物腰の柔らかさとか、そういうことだけではなくて。
        あらゆることを抱きとめて許して包みこんでくれる、そんな魂のことをいうのではないだろうか。

        俺はそれを、君と出逢って、知ることができたんだ。
        そして君の優しさは、君の強さだ。




        君の優しさと強さに救われて―――俺は今、ここにいるんだ。




        「・・・・・・剣心、明日から道場、よろしくね」

        長い接吻の後、剣心の肩に寄りかかった薫はそう言った。
        踏ん切りがついたような清々しい声にほっとしつつも、剣心は「頑張るでござるが、ほんとに監督頼むでござる」と真面目な声で返す。

        教えるのは初心者だからと気弱な事も言っていたけれど。きっと、明日以降も道場にわたしの居場所を作ってくれようとしているんだろうな。
        そんな事を考えつつ、薫は道着の上から大きくなったお腹に触れた。


        「剣心に似たら、優しい子になるんだろうな」
        その手を包むように、剣心は自分の手を重ねる。
        「薫殿に似たほうが、優しい子になるでござるよ」
        そこは譲れないとばかりに断言する良人に、薫は口許をほころばせる。




        君が、海よりも深く空よりも限りない優しさで、俺を包んでくれたこと。
        華奢な身体で、新しい命を紡いでくれたこと。
        君がくれた幸福は、俺には過ぎたものかもしれないけれど―――だからこそ、約束しよう。



        君の優しさに恥じない、君とともにこれからの人生を歩むのに、ふさわしい自分でいることを。








        夏空の下、心の中でそう誓って。
        笑った形の唇に、剣心はもう一度自分のそれを重ねた。















        了。







                                                                                        2023.07.24




        モドル。