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        「〜もう!びっくりするじゃないのっ!」



        振り向いた薫が、怒った声で拳を突き出す。肩先を小突かれて、剣心は「あはは、すまない」と笑ってみせた。
        内心では既に緊張しているのだが、それを気取られないよう、出来る限り普通に振る舞うように、注意しながら。

        「弥彦は?」
        「出稽古先の子達と遊びに行っちゃったわ。もう陽が短いんだから長屋には早く帰るように言っておいたけれど・・・・・・きっとお構いなしでしょうね」
        「この寒いのに、元気でござるなぁ」
        「子供は風の子だもの」
        薫の言葉に頷きながら、剣心はこっそり「よし」と拳を握りしめる。出稽古のあとは弥彦が一緒のことも多くて、それはそれで賑やかで和気藹々とした帰り
        道となるのだが、今日はふたりきりが望ましい。剣心は少々の申し訳なさを感じつつ、この場にいない弥彦に、「遊びに行ってくれてありがとう」と心の中
        で礼を言う。


        「買い物、終わったの?」
        薫の質問に、「もう一軒でござるよ、ほら」と剣心は道の先を指差して示す。そこでは、ふたりが贔屓にしている小さな「店」が営業中だった。
        「柚子があったら、買おうかと思って」
        「何に使うの?」
        「鱈の酒蒸しに添えるんでござるよ」
        「わ、おいしそう!え、でも、鱈は・・・・・・?」

        「買い物帰りのはずなのに、何故手ぶらなのだろう」と、薫は怪訝そうな顔をしたが、剣心は聞こえなかったふりをして「店主」に「こんにちは、柚子はある
        でござるかな」と尋ねた。道端に茣蓙を広げて野菜を売っているのは、健康的に陽に焼けた農婦である。
        彼女は週に何度か自分の畑で収穫した野菜を売りに来ており、この近辺の主婦たちに人気の「出店」となっている。剣心たちも、前川道場からの帰りに
        立ち寄ることが何度もあった。

        剣心は柚子を一玉買い求め、それを袂に仕舞う。農婦は代金を受け取りながら、「もう今年は今日が最後になるかねぇ。今年も一年ありがとうございまし
        た!」と、少し早めの暮れの挨拶をした。
        「こちらこそ、ありがとうでござる」
        「また来年も、よろしくお願いしますね!」
        農婦はふたりに笑顔を返すと、「今日はお得意さんにこれ配ってたの。よかったらどうぞ」と言って小さな包みを差し出した。薫が受け取って開いてみると、
        中に入っていたのは、大きな干し柿である。甘いものに目がない薫が、ぱっと顔を輝かせた。


        「わぁ美味しそう!いいんですか?いただいちゃって」
        「いいのいいの、あんたたち夫婦にはご贔屓にしてもらってるんだから!」
        薫の頬が、瞬時にぼわっと赤くなる。どうやら、農婦はずっと自分たちのことを「夫婦」だと思っていたらしい。

        薫にしてみれば、正直に言うとそれは嬉しい勘違いである。嬉しいのだが恥ずかしさのほうが先に立って、ぶんぶんと顔の前で手を振りながら「や、やだ
        っ!わたしたちまだ夫婦とかじゃないんですよっ!」と慌てて訂正する。
        しかし剣心は―――今朝からずっと「今日、薫に求婚するぞ」と気合を入れていた剣心の頭の中は、まさに結婚とか夫婦とか祝言とかそういった事柄でい
        っぱいだった。そんな飽和状態のところに、農婦のこの一言である。なので―――



        「うん、祝言は年が明けてからのつもりでござるから」
        ―――と。
        ほとんど反射的に答えてしまった。



        これに驚いたのは薫である。
        目をまんまるにして、言葉を失ったまま、薫は隣にいる剣心の顔をまじまじと覗きこんだ。

        「あらあら、それは年が明けるのが楽しみだこと!ちょっと早いけれど、おめでとう!」
        農婦は白い歯を見せて明るく笑い、ふたりを祝福する。
        ますます血がのぼった薫の頬は、今や薄暮に変わりはじめた冬の日の夕焼け空より鮮やかに染まっていた。









        ★








        また、やってしまった。



        せっかく何度も求婚の台詞を練習したというのに、それをすっ飛ばしての「祝言」の話題である。
        どうして、こと求婚に関することになると、こうなってしまうのだろうか。

        自己嫌悪に頭を抱えたくなっている剣心の横を歩く薫は、どこか夢見心地な様子で、ぼんやりした瞳で足を動かしていたが―――やがて、ぼそりと
        「・・・・・・あんな事考えてたの?」と尋ねた。


        「え?」
        「祝言・・・・・・年が明けたら、って」
        「あ、それは・・・・・・うん、まぁ、わりと前から」


        冬の日暮れはあっという間で、帰路につくふたつの背中を後ろから追いかけるように、空は夕闇に覆われてゆく。
        気恥ずかしさとばつの悪さとで、剣心はなかなか薫の顔を見られずにいたのだが、黄昏のなかで窺う彼女の表情には、確かな喜びの色があった。その事
        に、ほっとする。

        「そんな大事なこと、考えていたなら、まず本人に言いなさいよね」
        「すまない・・・・・・怒ったでござるか?」
        「・・・・・・」
        「薫殿?」
        「怒るわけ、ないじゃない・・・・・・びっくりして、嬉しくて、気絶しちゃうかと思ったわ」
        薫は顔を上げ、まっすぐに剣心の目を見て―――潤んだ瞳で、笑った。



        ああ、そうか、と。
        計画どおりに進められないことへの自己嫌悪に、のたうちまわりたい気分だった剣心は―――その笑顔に目が覚める思いになる。

        今日、求婚しよう。そして彼女を喜ばせよう。そう考えていた。
        その想いに嘘はないが、どんな台詞にしようかと言葉を選んだりしているうちに、肝心なことを失念するところだった。


        薫だって、待っていてくれた筈なんだ。
        彼女だって、俺と歩む未来を望んでいて、今までの「小さな求婚」に頷いてくれていたんだ。

        ずっと待っていたのだから―――先程の、俺にしてみれば「うっかり」の発言だって、彼女にしてみれば、未来が「年明け」という形を表した、嬉しいひとこ
        とだったんだ。



        「とっても嬉しい。ありがとう、剣心」
        「あ、いや・・・・・・こちらこそ、でござる」
        急に、照れくささがこみ上げてきて、剣心は自分の頬が熱くなってくるのを自覚した。赤くなってゆく彼の頬を見て、「さっきはあんなにさらりと言ってのけた
        くせに」と、薫はなんだか可笑しくなる。
        「それにしても、あんなところであんなふうに言うなんて、心臓に悪いったらありゃしないわ」
        「あー・・・・・・すまない、ずっといつか切り出そうと悩んでいたものだから、これはいい機会だと思って、つい・・・・・・」

        しどろもどろで誤魔化そうとする剣心を、薫はくすくす笑いながら「ずっとって、いつから?」と追及してくる。結構前から考えていたし今日なんて朝からずっ
        とそのことで頭の中がいっぱいでした―――などとは言えるわけもなく、剣心はおろおろと目を泳がせる。
        「いや、ずっとは・・・・・・ずっとでござるよ」
        「気になるなぁ、それ」
        「えーと、だから、それは・・・・・・あ」
        そのとき、落ち着きなく動かしていた目線が、小さな影をとらえた。


        「薫殿、あそこ」
        剣心は、道の先を指差す。そこには、夜の暗さに紛れるようにしながら佇む―――黒猫が一匹。

        「・・・・・・福猫!」
        薫は駆け寄って、道端にしゃがみこむ。
        薫の背中を眺めながら、剣心は「ああ、そうだった」と小さく口の中で呟いた。
        今朝、夢に見た二匹の猫。黒猫のほうに見覚えがあったように思ったが―――そうか、あれは「福猫」だったのか。


        以前も、あの農婦のもとで買い物をした帰りに、薫と話題にしたことがある野良猫。
        足の裏まで真っ黒な、縁起のよい「福猫」だと、この近辺の住民に親しまれていた猫。
        しばらく姿を見せなくて、何処か別の土地を旅しているのだろうと、そんな話もしていたのだが―――

        「ちゃんと、帰ってきたんでござるなぁ」
        剣心が近づいて屈みこむと、薫は振り向いて柔らかく笑った。
        「それだけじゃないみたい。ほら」
        「おろ?」
        そばに歩み寄った剣心は、目を丸くする。つややかな黒い毛並みの、大きな身体の陰になって見えなかったのだが、福猫の傍らにはもう一匹、猫がい
        た。



        剣心は、口許を緩める。
        福猫よりひとまわり小さな、白い猫。
        夢に出てきた、そして先程、庭で求婚の練習につきあってくれた―――あの、猫だった。



        「お嫁さんを、連れてきたのね」
        おかえりなさいと薫が頭を撫でてやると、福猫は人懐っこく喉を鳴らして、みゃあ、と答えた。

        その、微笑ましいやりとりに目を細めながら、剣心は「ありがとう」と心の中で呟く。
        背中を押してくれて、ありがとう、と。



        「・・・・・・もう、どこへも行かないでござるよ」
        薫が顔あげると、剣心の肩越しに昇ったばかりの月が見えた。
        「猫が?それとも・・・・・・剣心が?」
        「猫も、拙者も」



        剣心は、薫に向かって手を差し出す。
        そっと、小さな手のひらが重ねられる。

        この手を、ずっと離さないでいよう。
        生涯をかけて、君を守るために。これからの道のりを、一緒に歩いてゆくために。



        「薫殿」
        「なぁに?」
        立ち上がった薫の瞳を、剣心はじっと見つめる。



        心から愛するひと。
        心から愛しいひと。

        今、君に約束をしよう。
        これからずっと、ふたり一緒に生きてゆくことを。





        「拙者の、妻になってくれ」





        薫の目が、驚きに大きくみはられる。
        ふたりの誓いを、琥珀色の月と二匹の猫が、そっと見守っていた。














        Wherever you are  了。

             おまけ へ続く。