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        いつの間にか庭に入りこんでいたその猫は、剣心の正面あたりにちょこんと座り、じいっと彼のことを見つめていた。




        「また、猫か・・・・・・」
        今朝方、仲睦まじく寄り添う二匹の猫の夢を見た。その後、訪ねてきた近所の子が追いかけていたのも猫だった。ひょっとすると、あの子供と追いかけっこ
        をしたのは、この猫だったのかもしれない。
        どこかの家の飼い猫だろうか、綺麗な毛並みの猫である。毛の色は白で、首に鈴などはつけていなかった。
        薫がこの場にいたら、相好を崩して手をのばすことだろうな、と思う。猫が大好きな彼女は猫と「遊ぶ」のも上手で、例えば道場で行き会った野良猫など
        も、彼女の手にかかればごろごろと喉を鳴らして頭を寄せてくるような具合だ。
        可愛い猫だな、と思いつつも剣心は手を伸ばして撫でたりはせずにいた。猫のほうも、警戒する様子も無いかわりに歩み寄ってくる気配も無い。

        今朝の夢を、思い出す。
        二匹の猫の姿を、なんだか俺たちみたいだなと思った、あの夢。
        俺が黒猫だとしたら、薫は―――


        「・・・・・・薫殿」


        ぽつりと、口の中で呟いてみた。猫は、逃げない。
        「薫殿」
        もう少し、声の音量を上げてみる。猫は逃げずに―――それどころか、返事をするように「にゃあ」と鳴いた。
        剣心はふわりと頬をほころばせる。
        「・・・・・・すまない、ちょっと練習につきあってくれぬか?」
        白猫は鳴かなかったが、やはり立ち去る様子もなく其処にいる。剣心はそれを受諾のしるしと解釈し、咳払いをして背筋を正した。


        「ずっと、死ぬまで一緒にいてほしい・・・・・・で、ござる」
        猫は、無反応だった。


        言葉を解するわけがないのだから、それが当然なわけだが―――つっかえ気味に言ったのがいけなかったのかな、と。剣心はもう一度、今度は流暢に
        「ずっと死ぬまで一緒にいてほしい」と言い直した。
        それでも、猫は反応を示さない。まん丸い目を見ながら剣心は、「死ぬ」という文言はあまりよろしくないかなと思い直す。だいたい死ぬまで一緒にいたい
        のは当然の事だとして、俺は死んで生まれ変わった後もまた薫と一緒にいたいのだし。


        「もう二度と、さよならなんて言わないと、約束するでござる」
        猫は、小さくあくびをした。


        ―――これも、あまり良くないか。まず、死ぬとかさよならとか負の要素を持ち出すこと自体いまいちかもしれない。どうして俺はこうも思想が後ろ向きなの
        か、と頭に手をやってがりがり掻きむしると、猫が「しゃーっ」と怒ったような声をあげた。
        「ああ・・・・・・すまない、怖がらせたでござるな」
        白猫は、「やり直せ」と言わんばかりに、ぴたんと尻尾で地面を叩いた。剣心はもう一度姿勢を正して、改めて、薫の顔を思い浮かべる。



        睫毛の長い、大きな瞳を。
        珊瑚色の、花びらのような唇を。
        触れたら柔らかな頬を、そこに浮かぶ微笑を―――

        ああ、そうだ。薫には笑顔がよく似合う。
        彼女が笑うと、そこに光が射すようで。その笑顔を見ていると、とても幸せな気分になって。
        だから、ずっと笑っていてほしくて。その笑顔を、ずっと俺が守っていきたくて。だから―――



        「・・・・・・拙者の、妻になってくれ」



        はい、という答えが聞こえたような気がして、剣心は我にかえる。
        しかしそれは聞き間違いで、目の前にいる猫が「にゃーん」と鳴いた声だった。



        「・・・・・合格、でござるか?」
        猫はもう一度短く「にゃあ」と鳴き、ちょこちょこと小さな足どりで剣心に歩み寄る。そして、すり、と足許に顔をすりよせた。
        剣心は、ふっと肩から力を抜いて、頬をゆるめた。

        身を屈めて、撫でてやろうとして手を伸ばす。しかしその時、何処からともなく「にゃー」と別の猫の鳴き声がした。
        白猫は、ぴくりと耳を震わせて、身を翻す。その声に返事をするようにひと鳴きすると、軽やかに地を蹴った。既に剣心のことなど眼中に無いようだった。
        「・・・・・・かたじけない」
        行き場をなくした手を引っ込めながら、剣心は走り去る猫にむかって礼を言う。白い毛並みは、あっという間に庭から姿を消した。
        もしかしたら、あの黒猫が迎えに来たのかな、と。剣心はそんな事を考えつつ、心に決めた「求婚の台詞」を二度三度と復唱した。
        短い台詞だからこそ、後の本番で言い損ねないように。








        ★








        その後剣心は、頃合を見計らって道場を出た。
        「あたたかくしてきてね」と薫に言われたとおり、彼女の亡父のものだった羽織をはおった。

        まずは夕飯の買い物である。ある程度の下拵えをして、味噌汁に入れる大根も千六本に刻んでおいた。あとはなにか主菜をと思い魚屋をのぞくと、いい
        のが入ったよと鱈を勧められた。今の気分的には鯛でも買いたいところだが、それはあまりに大仰だろう。鱈を酒蒸しにして柚子を添えて。今の時期なら
        余った分は翌日にまわしても問題ないだろう。明日は豆腐と一緒に鍋仕立てにするとよいかもしれない。
        頭の中で献立を考えつつ、剣心は鱈を買い求め、そして「いや待てよ」と気づく。


        もしも、この後薫と合流して。そこで今朝のような「いい雰囲気」になったならば、そのまま求婚を切り出すのもよいだろう。
        いつか薫から「一緒にずっといたい」と告白されたのも夕焼けの帰り道で、橙色の空がなんとも美しくて。ひととき、翌日に迫る闘いのことは頭から消えた。
        寄り添って歩く彼女のぬくもりを感じながら、互いの事だけを想いながら歩く、満ち足りたひとときだった。

        今日も、そんな流れにならないとは限らない。
        もし、そんな流れになった場合は―――笊に乗った魚を抱えながら求婚することになってしまう。
        魚を片手にでも、薫がそれに文句をつけることはないだろう。ないだろうが、しかし―――



        結果として剣心は、一度道場に走って戻ることになった。
        途中、たまたまその姿を見かけた警邏中の巡査ふたりが「今、緋村さんが血相変えて走っていったが、何か事件が起きていただろうか」「いや署長はそう
        いう話はしていなかったが」と首をかしげた。
        道場に戻り、鱈を台所に置いて、剣心はとんぼ返りで飛び出した。途中までは駆け足だったが、往路で急いだおかげで薫の稽古終わりの時間には間に
        合いそうである。そう思って、速度を落とす。
        駆け足を早歩きにして、やがて通常の歩幅と速さで足を運ぶうちに―――待ち合わせのぶなの木に到着する前より先に、見慣れた背中を見つけた。


        竹刀を担いだ、小さな背中と、歩く度にゆらゆら揺れる長い髪。
        剣心はその姿をみてほっとしたように頬を緩めてから、心の中でこっそり気合いを入れる。
        この帰り道に、その機会が訪れるかどうかはわからないけれど、でも―――







        「・・・・・・ひゃっ!」
        足音を立てないように近づいて肩を軽く叩くと、薫は驚いて小さく声をあげた。













        4 へ続く。