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        君と夫婦になりたい、と。そう考えるようになったのは、もうずいぶん前からだ。
        以前は、叶う確率の低い夢として憧れた未来だった。けれど、やがてそれは現実味を帯びた願いに変わった。
        過去に決着をつけて、君に好きだと想いを告げて。心で誓い合って、身体で愛しあって。君も俺と共に歩む人生を、望んでくれている。

        だから、君も俺も、「きっとそうなるんだろうな」と。
        いつか祝言を挙げて正式に夫婦になるんだろうな、と。改めて互いに確認もしないまま、そう思ってきた―――けれど。



        それじゃ駄目なんだ、と。剣心が思い立ったのが、今朝のこと。
        そして現在、彼は庭で竹箒を相手に、ぶつぶつと口の中で「練習」を繰り返していた。










        今日、薫に求婚をしようと決めた。そうなると、「何といって申し込むか」が課題になる。


        どうかずっと、死ぬまで一緒にいてください、とか。
        二度とさよならなんて言わないと約束するよ、とか。

        ―――いやいやだめだ、もっと直接心に届くような言葉を贈りたいんだ。薫が絶対に「はい」と言ってくれるような。願わくば、その言葉を受けて、君が心か
        ら喜んでくれるような、そんな言葉を捧げなくては。
        これまでに散々「小さな求婚」をしてしまったけれど、それら以上に君の心に特別に残る言葉で、君に告げたいんだ。


        庭掃除もそこそこに、剣心は箒を薫に見立てて、候補となる文言を練っては呟き練っては呟きを繰り返す。
        彼女の心に、いちばん響く言葉はなんだろう。どんな言葉で、薫は笑顔になってくれるのだろうか。
        それを考えるのに集中していた剣心は―――その言葉を贈るべき相手に、その様子を見られていることに全然気づいていなかった。


        「・・・・・・剣心?」
        「はいぃっ!!!」


        ごく近い距離で声をかけられて、剣心は弾かれたようにびしっと背筋を正し、大きな声で返事をした。
        声をかけた側の薫は驚いて目をまんまるにして―――次の瞬間、ころころと笑い出した。花が咲いたような笑顔を目にして、箒を手に直立していた剣心は
        ほっと肩から力を抜く。
        「・・・・・・びっくりしたでござるよ、突然声をかけられたものだから」
        「び・・・・・・びっくりしたのはこっちよ・・・・・・なぁに、今の返事?わたしの声、そんなに怖かった?」
        かしこまった、しかし大きな声での「はいっ」は、まるで叱られている最中の子供の返事のようだった。自分よりずっと年上の男性である剣心の、そんな返
        事が可笑しくて、薫はなかなか笑いを納められない。
        「怖かったんじゃなくて、びっくりしたんでござるよ。ちょっと考え事をしていたから」
        「考え事って、何を?」
        「・・・・・・何だと思う?」
        剣心は、箒を地面の上に置く。そして笑みにほころぶ薫の頬に手をあてた。
        「わたしのことだったら、嬉しいな」

        頬を包む手のぬくもりが、照れくさいけれど、でも心地よくて。薫は笑顔のまま目を細める。
        ああ、この笑顔が好きだなぁと思う。こんなふうに、いつもいつまでも、俺が君のことを笑顔にできたなら。それはとても幸せなことだろうなぁと思う。
        「正解でござるよ」
        「・・・・・・ほんとに?」
        「ああ、本当に」
        桜色に頬を染めた薫が、うっとりと剣心を見つめる。



        ―――これは、かなりいい雰囲気なのではないだろうか。
        今この瞬間がまさに、求婚する好機ではないだろうか。



        「・・・・・・薫殿」
        名前を呼んで、瞳の奥を覗きこむ。君の目に、俺の姿が映っている。
        凝っと、熱っぽく見つめながら身を乗り出す。
        ―――が、次の言葉がなかなか出てこない。

        「薫、殿・・・・・・」
        震えそうになる唇で、もう一度呼ぶと―――薫は、扇形の長い睫毛を、そっと閉じた。



        ―――いい雰囲気にしすぎてしまった。



        いや、俺がまごついてなかなか口を開けなかったのが悪いのだが、でも。
        愛しい恋人が可憐に目を閉じているのを前にして、何もせずにいられる訳がなく。剣心は一瞬の躊躇もなく、薫を抱き寄せて唇を重ねた。
        甘美な感触に、ひとまず求婚のことは頭から消えとんで、薫を感じることに夢中になる。
        どうして、ただ口づけているだけで、こんなに気持ちいいのだろうかと、いつものことながら不思議に思う。この満ち足りた感覚が、それだけ君のことが大好
        きだという証拠なのだろうか。だとしたら、それはなんて幸せなことなんだろう。

        深く口づけながら、剣心は薫の髪に触れる。指で探ってリボンをほどくと、戸惑いの声が漏れた。
        「剣心・・・・・・だめ・・・・・・」
        困惑する気配が伝わってきたが、構わずに彼女の髪に指を差し入れ、掻き乱す。「ねぇ、これ以上は・・・・・・」と身を捩って訴えるのを、強く抱きしめて黙ら
        せようとしたが―――


        「ちわーっす!!!」
        玄関のほうで、弥彦の元気な声が響いた。


        「お、ろ・・・・・・?」
        「ほらぁ、今日は弥彦が来るって言ってたでしょう?」
        ・・・・・・そういえば、そうだった。上の空になりながらの朝食の席で、確かにそんな話をした記憶があるが、今の今まですっぽり頭から抜け落ちていた。
        「髪、結い直さなくちゃ」
        そう言って、ぷうっと膨れてみせるのが困ったことにまた可愛くて、剣心は「いや、すまなかった」と詫びつつ白い頬にちゅっと口づける。薫は悪戯っ子を諌
        めるように、「めっ」と剣心をひと睨みしてから、ふっと照れくさそうな笑みを残して、身を翻す。
        「直してくるわね」
        「うん、行ってらっしゃい」
        薫が髪を結っている間、弥彦の相手をしなくては。と、剣心は玄関へと向かう。
        とりあえず、求婚の機会は持ち越しとなった。








        ★








        その後、剣心と薫は三人分の食事を用意し、弥彦も一緒に昼食を囲んだ。
        午後になって、薫は道着に着替えて、弥彦を伴って出稽古に出かけた。

        「拙者も後で買い出しに出るでござるよ」
        「じゃあ、途中から一緒に帰りましょうよ。ぶなの木のところで落ち合いましょ」
        前川道場からの帰り道の途中にあるぶなの木は、目印に丁度いい大木で、ふたりはこれを時折待ち合わせの場所にしていた。剣心が了承すると、薫は
        「ちゃんとあったかくして来てね」と言い添える。今日は穏やかな日和だが、季節は既に冬を迎えている。夕方にはそれなりに気温も下がることだろう。そ
        れにも「承知したでござるよ」と頷いた。

        薫と弥彦を送り出して、剣心は「さて」と息をつく。
        普段ならここで薪割りにでも手をつけるところだが、今日はやめておいたほうが良いかもしれない。考え事のほうに集中してしまい手元が留守になってし
        まうのは目に見えている。明日に回して、今は「今日の目標」のほうに全力を注ぐべきだろう。



        剣心は、どっかりと縁側に腰をおろす。
        薫も弥彦もいない今は、予行演習にもってこいの時間といえよう。

        庭の、誰もいない空間をじっと見つめる。
        そこに、薫が立っている姿を想像してみる。いつもの、可愛らしい笑顔を浮かべた、だいすきなひとの姿を。


        「・・・・・・・・・」


        またしても言葉が出てこない。
        先程は本人を前にして躊躇してしまったが、本人がいないのはこれはこれでまたやりづらいというか、いやそれはただの言い訳で単に俺に勇気が足りな
        いだけで―――
        と、口を開閉させつつ無駄に空気の塊を吐き出していた剣心は、ふいに、自分ではない誰かの気配を感じ取り―――おや、と瞬きをする。



        気がつくと、庭に小さな客がいた。





        それは人ではなく――― 一匹の、白い猫だった。














        3 へ続く。