はじまりは、猫だった。





        明け方、二匹の猫の夢を見た。
        一匹は黒猫、もう一匹は白猫。黒猫のほうが、白猫よりひとまわり身体が大きくて、毛並みは二匹ともつやつやで。
        仲睦まじく身体を寄せ合って、とことこ軽やかな足取りで歩く様子が微笑ましくて、ああまるで俺たちみたいだなぁと思ったところで目が覚めた。


        目蓋をあけると、すぐ隣には君がいる。
        その幸福に頬をほころばせつつ、まるい額にそっと口づけた。








      Wherever you are  1







        「あら、何かしらこんな朝から」


        玄関のほうから聞こえた「おはようございます、ごめんください」という声に、薫は首を傾げて菜箸を置く。聞き覚えのある、女性の声だった。訪ねてきたの
        はおそらく、近所の若い主婦だろう。
        「はーい!」と元気に返事をしてから、「ここお願いね」と言い添えて薫は台所を後にする。
        最近は、朝食はこうしてふたりで支度をすることが多い。少し前に、弥彦が道場を出て長屋に移り、ふたり暮らしが始まった。食べ盛りの彼がいなくなった
        ぶん、量を作りすぎてしまわないよう気をつけている。今朝は、昨日作った煮物の残ったのと漬物で、簡単に済ませるつもりだ。

        味噌汁の実にする蕪に包丁を入れていた剣心は、ふと先程の夢を思い出す。
        寄り添って歩いていた二匹の猫。なんとなく思い返してみると、黒猫のほうにどうも見覚えがあるような気がした。はて、近所にあんな黒い猫を飼っている
        家があっただろうか―――そんなことを考えていたら、何やら玄関のほうで賑やかな気配を感じた。


        「・・・・・・?」


        大きな声が聞こえたようだが、気のせいだろうか。
        剣心は首を傾げつつ、蕪と包丁をまな板の上に置いた。









        玄関に射し込む冬の低い朝日に、剣心は反射的に目を細める。
        そこにいるのは薫と、訪ねてきた客人―――のはずだったがそうではなく、立っているのは薫ひとりである。


        いや、そうではなく。
        柔らかな陽光のなか佇む彼女の腕には、どういう訳か小さな赤ん坊がひとり、抱かれていた。


        一瞬、剣心は言葉を失う。
        白い陽のひかりに包まれるように立つ薫は、囁くような小さな声で、赤ん坊に何か話しかけている。
        頬に浮かぶ笑みはとても優しくて、常の彼女よりも穏やかな表情で―――そして、とても綺麗で。思わず、見惚れてしまった。



        「あら、剣心」
        気づいた薫が、彼のほうを向く。一拍の間を置いて、我に返った剣心は「何があったのでござるか?」と訊いてみる。
        「むこうの角まで、手ぬぐいが飛ばされていたんですって。それを届けてくれたのよ」
        昨日は風が強かった。そういえば洗濯をしたはずの手ぬぐいが一枚足りなくなっていたようだったが、干していたのが風に飛ばされていたらしい。それを
        近所の主婦が「薫ちゃんのじゃないかしら?」と届けてくれたそうだ。

        しかしながら、今薫が手にしているのは―――正確には「抱っこしている」のは、手ぬぐいではなく赤ん坊である。
        「実はね、赤ちゃんとお兄ちゃんとを連れて、届けにきてくれたんだけど・・・・・・」


        薫と、その年若い主婦とは仲が良い。仲が良い女性ふたりが顔を合わせたならば、ついあれやこれやとお喋りが始まるのは当然の流れと言えよう。彼女
        たちが立ち話を始めたのを、上の子は手持ちぶさたな様子で眺めていたが―――その時、道場の門の前を、一匹の猫が横切った。
        子供は目を輝かせて、猫を追いかけて駆け出した。母親は「あ、こらっ!」と言ってその子を追いかけようとしたが、腕にはまだ首のすわっていない赤ん坊
        がいる。と、いうわけで、薫はほぼ反射的に手を差し出した。母親は信頼をもって下の子を薫に預けた。


        その騒がしい気配に気づいた剣心が台所からやってきて―――そうして、今に至るらしい。



        「で、お兄ちゃんを追いかけていったお母さんが戻ってくるまでの間、抱っこさせてもらっているのよ」
        むしろ、そのことが嬉しくてたまらないというように、薫は赤ん坊を抱っこしながらにこにこと笑う。
        屈託のない笑顔につられて、剣心も頬を緩ませながら赤ん坊の顔を覗きこむ。

        「そうでござったか・・・・・・いや、びっくりしたでござるよ」
        「びっくり?何に?」
        「うん、拙者はいつの間に父親になったのかと思っ・・・・・・て・・・・・・」



        口がすべった、と思ったときはもう遅かった。
        頬に血がのぼってゆくのを自覚しながら、剣心は視線を赤ん坊から薫の方へと上げる。やはりというかなんというか、彼女の顔も真っ赤になっていた。



        「えっと・・・・・・わたしも、まだ・・・・・・お母さんになったおぼえは、ない、わ・・・・・・」
        「あ・・・・・・うん、そうでござる、よな」

        互いに視線を合わせられぬままごにょごにょとそんな会話を交わしていたら、上の子を捕まえた母親が戻ってきた。
        「どうもすみませんでしたー!あら剣心さん、おはようございます」
        母親は薫に礼を言いつつ赤ん坊を受け取ると、肝心の用であった手ぬぐいを彼女に渡した。
        いかにも薫が好みそうな、桜の柄が入った手ぬぐいだった。








        ★








        また、やってしまった。


        赤ん坊と一緒にいる姿があまりにも彼女に似合っていたから。あまりにも自然なものだったから。
        だからつい、自分たちの間に子供が産まれたときのことを想像してしまい、それがぼろっと口からこぼれてしまった。

        ふたり揃って顔を茹で蛸のようにしているのを見て、近所の主婦は不思議そうに首をかしげつつ子供たちを連れて帰っていった。剣心と薫は互いに大照れ
        に照れながら、ひとまず朝食の支度に戻り、今はさしむかいで朝餉を口にしている。
        剣心は箸を進めながら、頭の中では「またやってしまった」の呟きを繰り返していた。


        これで、何度目だろうか。
        「京都に、一緒に来てほしい」と乞うた夜。その願いとはまた別に、「ついてきてほしい」と彼女に言った。つまるところ、一緒に人生を歩んで欲しくて、口に
        した言葉だった。
        その、京都では。互いに互いの未来を「あなたにあげる」と誓いあった。これからの未来を、共有していこうと約束した。
        つい先日には、買い物帰りにたまたま花嫁行列に行き会って、それをきっかけに薫の「憧れの婚礼」についてお喋りをした。しかし、気がつくとそれは「自
        分たちの婚礼」についての話になっていた。



        ―――そんな「小さな求婚」を、これまでにもう何度重ねてきたことだろうか。



        無論、それらは軽い気持ちでの発言ではない。
        むしろ、常に真剣に考えているからこそ、うっかりこぼれてしまった台詞だ。


        とっくの昔に、俺は心に決めている。彼女と一緒に、この先の人生を歩むことを。
        だからこそ、俺は彼女の手を取ったんだ。第一、そんなことすら心に誓えないのなら、彼女の傍にいる資格も触れる資格もありはしないのだから。

        俺はずっと、薫と一緒にいたい。
        夫婦になって、いつかは父親と母親になって。そうやってこの先ずっと、長い時間を共に生きてゆきたい。
        薫も、きっと同じ気持ちでいてくれているだろう。京都で誓った「未来をあげる」という言葉だって、彼女から先に贈られたものだったのだし。



        けれど―――



        「剣心、おかわりは?」
        空になった茶碗を持ったままあれこれぐるぐる考えていると、薫からそう尋ねられた。
        「ああ、ありがとう。じゃあ、半分だけ」
        「はい、半分ね」
        薫は受け取った茶碗にご飯をよそうと、飯櫃の残りを眺めて「わたしも食べちゃおうかしら」と呟いた。
        「ね、太ってもいい?」
        真面目な顔で訊いてきた薫に、剣心は笑って「それくらいじゃ太らないでござろう」と返す。
        「そうよね、今日は出稽古でたくさん動くし、大丈夫ってことにしておこうっと」

        ―――ちょっとくらい太ったって可愛いよ、と。
        ほんとうはそう言いたかった。なのに、照れくささに邪魔をされた。
        そんなふうに、肝心なことはいつも言い出せないまま、後回しに後回しになってしまう。
        そんなだから、いくつも小さな求婚を重ねながらも―――いまだにきちんと「夫婦になろう」と言えずにいる。

        「これ、美味しくてつい食べ過ぎちゃうのよねぇ」
        そう言いながら、梅漬けの紫蘇の葉を細かく刻んだのを混ぜたご飯を、薫はほんとうにおいしそうに口に運ぶ。剣心はその表情を「可愛いなぁ」と思いつ
        つ、目の前の彼女が婚礼の晴着をまとっている姿を想像してみる。
        それは、このうえなく幸せな想像。きみは天女のように綺麗で、晴れやかな笑顔を俺にむけてくれていて、そしてきっと幸福な涙を目に浮かべることだろ
        う。



        そうだ、できれば―――はじめて出逢った季節に、冬の終わり頃に祝言を挙げたい。
        まったくの偶然で、君と出逢えたあの夜。

        あの日から、抜刀斎だった頃とも流浪人だった頃とも、まったく違う日々が始まって。君に逢ってからさらに出会いは広がって、再会があって。長い間探し
        ていた答えを見つけて、これからを生きてゆくための道標を得て。そして、今がある。
        今にして思えば、君と出逢ったあの日こそが、新しい人生を歩みだした最初の日だった。



        「ごちそうさまでした」
        薫の声に、我に返る。気がつくと彼女は食事を終えており、自分が手にしている茶碗も空になっていた。
        「・・・・・・ごちそうさまでござる」
        上の空で食べていたことを反省しながら、剣心は箸を置く。
        「お茶は?」
        「うん、いただくでござるよ」


        いつもながらの朝の光景。
        いつもどおりに始まった、今日。

        けれど、あの日も。俺たちが出逢ったあの日だって、俺は旅の空で君はこの家で、いつもどおりの朝をむかえていたはずだ。
        その夜に、人生を変える出逢いがあるだなんて、予想だにせずに。



        だから、今日も―――今日だって、新たな門出のための、特別な日になってもいい筈だ。



        「あの、薫・・・・・・」
        「はい、どうぞ」
        ぐっ、と肚に力をこめて身を乗り出すと、すっ、と薫が湯呑みを差し出した。
        「・・・・・・ありがとうでござる・・・・・・」
        意を決して口にしようとして、喉まで出かかった言葉を、剣心は飲みこむ。そして、かわりに礼を言う。

        ―――いや、落ち着け自分。
        いくらなんでも、朝食の後にお茶を飲みながらというのは無いだろう。

        「今日は、出稽古でござったろうか」
        「ええ、午後からなの。弥彦も行けるって言ってたから、お昼にうちに寄るよう言っておいたわ」
        「では、昼食は三人でござるな」
        うん、そうだ。今というのはあまりに突然すぎる。
        もう少し、時を見計らって。でも、今日中には必ず。絶対に、君に告げよう。





        今日、俺は君に求婚する―――そう、決めた。





        気合を入れるかのように、剣心は湯呑みをあおって焙じ茶を一気に喉に流し込む。
        薫は目を白黒させながら、「熱くないの?」と気遣わしげに尋ねた。















        2 へ続く。