「・・・・・・大切に着るね」
大切になんてしなくていいよ。
むしろ―――出来ることなら捨ててしまってくれ。
次の春が来る、その前に。
★
ずいぶんと、落ち着いた色ばかり選ぶものだな、と。
薫とともに、羽鳥屋の仮店舗の大売出しに足を運んだ剣心は、あれこれと反物や古着を見比べている彼女を眺めながら、そう思った。
ああそうか、先程赤べこで、近くの席に座っていた夫婦とおぼしき二人連れ。あの御夫人の方が着ていた、藍色の着物。あれに似た系統のものを探して
いるのだろうか。
食事をしながら、薫がなんとなく彼らの方を気にしている事に、剣心は気づいていた。どうしたのだろうと思っていたのだが―――そうか、理由はあの着物
だったのか。
あの女性が着ていたのは、たしか藍色の着物だった。
今日、薫が髪に結っているリボンは、その着物とよく似た藍色。剣心が刃衛との闘いでだめにしたものを、買いなおして彼女に贈ったものだ。
自分の年頃よりも、大人びた着物に憧れる―――やはり彼女も「女の子」なのだな、と。剣心は微笑ましく感じて頬を緩めた。
店の中では様々な色彩を身にまとった女性たちが大勢ひしめきあっていたが、何故かその中で薫の姿だけは、くっきりと浮かび上がるかのように目に飛
び込んでくる。その事を不思議に感じつつ、剣心は「少し手伝ってやろうか」と思いついた。
掘り出し物を見つけようと躍起になっている女性客たちに近づいて、肩越しに彼女らの手元をのぞきこんだ。すると、背中に気配を感じて振り向いた女性
が、ぎょっとした様子で剣心から距離を取る。もうひとり、彼女の横にいた女性も同様の動きを見せた。
どうしたのだろう、と思ったが、原因はすぐに知れた。腰に差した逆刃刀の柄が、彼女たちの視界に入ったためだ。
突然、廃刀令を無視して帯刀した男が現れて傍らに立ったら、驚くだろうし剣呑と感じるのも当然だ。申し訳ないことをしたなと思いながらも、剣心は人だ
かりの中にぽっかり空いた隙間に身を納めて、さて、どんなものがあるのだろうかと目を凝らす。
仮普請の店には蔵おろしの安売り商品が、無造作に並んでいる、というより幾重にも積み上げられている。この一角にあるのは女物の羽織らしい。剣心
は物珍しげに何枚かの端を持ち上げて、それぞれの色を見比べる。
以前、リボンを買ったときは、薫が「前のと同じような感じの色がいい」と言ってくれたので、買い物はさほど迷わず済んだものだった。しかしこの度は、選
択肢が多すぎる。
彼女は落ち着いた、着ると大人びて見えるような物を探している筈だ。だったら渋めの色がいいのかな、と思い、次々と羽織をめくって「選考」してみる。
しかし―――なかなかこれだと思うものが見つからない。なんとなく「手伝おう」などと思い立ってはみたが、始めてみるとすぐに、これは難しい仕事だとい
うことがわかった。正直なところ、女性が着るものなんて生まれてこのかた選んだことがない。どんなものを選んだら喜んでくれるのだろうと考えながら羽
織の色を見比べて、それを彼女がまとっている様子を想像してみる。
落ち着いた趣味の。たとえば藍や紺鼠の羽織をはおった薫の姿。
きっとこれは―――似合っている。色白で目鼻立ちがはっきりした彼女なら、こういった色を身につけてもきっと綺麗に映えることだろう。でも―――
剣心は心の中で「これは駄目」「これも却下」などと呟きながら、山と積まれた羽織の色と模様とを確認してゆく。と、その手がふと止まった。
一番下から、その羽織を抜き取る。
ああ、これなら―――と思った途端、「剣心!」と薫の声が降ってきて、剣心は引っ張り出した羽織を反射的に背中の方に隠した。
声のした方へ顔を向けて、剣心は驚いて目を大きくする。
綺麗な女性が、そこにいた。
「これにしようと思うんだけど・・・・・・どうかしら?」
剣心は咄嗟に声が出せず、ただ無言で薫の立ち姿を見つめた。
彼女がまとっているのは、ひそやかに地に唐草模様が織り込まれた藍色の紬だった。
こんな、大人びた装いの薫を目にするのははじめてで、剣心は驚いた。
彼女自身も、こういった雰囲気の着物は着たことがないのだろう。少し、緊張した面持ちで。しかし、紬の雰囲気にあわせたかのように、常よりもどこか淑
やかな表情で。
そんな彼女の、いつもとは違った風情の美しさに―――剣心は、驚いた。
しかし、いつまでも呆然としているわけにもいかず、剣心はぱちぱちと瞬きを繰り返して軽く咳払いをする。
「・・・・・・うん、似合っているでござるな」
正直に口にした感想に、薫の顔がぱっと明るくなる。けれども―――その後に「しかし・・・・・・」と付け加えずにはいられなかった。
「しかし・・・・・・薫殿には、少々その着物は大人っぽいのではなかろうか・・・・・・?」
眉を寄せながら、言いづらい言葉を口にすると、案の定薫の表情がぴしりと強ばった。
「それって・・・・・・わたしが、子供だから―――似合わないってこと?」
明らかに、不機嫌というか尖ったというか、ひらたく言うと怒っている声だった。いや、こんな答えを返したら、気を悪くして当然だろう。むしろ、勝気な性分
の彼女が怒ってしまったとしても無理はない。
「いやっ!違うでござるよほんとに似合っているでござるよ?!しかし、なんというか、その・・・・・・」
「お連れ様の言うとおりでございますよ。そちらも充分お似合いですが、お客様でしたらもっと華やかなもののほうが・・・・・お客様のお年頃でしか着られな
い色柄もありますから、あまり大人しいものを選ばれては勿体のうございますよ」
剣心が弁解を始めると、そこに羽鳥屋の番頭がやってきて助け舟を出してくれた。現れた援軍に、剣心はうんうんと大きく頷く。
繰り返し首を動かす剣心の目に、薫が悲しげに顔を歪めるのが映った。
拗ねたような表情を見せるのが嫌なのだろう、顔を隠すかのように、そのまま俯いてしまう。
いや、違うんだそうじゃなくて。本当にその着物は君によく似あっていて、でも―――
「・・・・・・これ」
剣心は、心の中に渦巻く声を何とか押さえ込みつつ、かわりに薫の目の前に、背中に隠していた羽織を差し出した。
「・・・・・・え?」
「さっき、そこで見つけたんだが」
それは、深い葡萄色に染め上げられた羽織だった。
落ち着いた色合いだが、地のところどころには円みを帯びた梅の花模様が散っている。
「おや、これは良いものを見つけられましたなぁ」
薫が言葉を失っていると、番頭が横から口を挟んできた。
「これなら、お客様が先程からお探しになっている色合いにも近いのではないですか?品のある、落ち着いたよい色ですよ」
剣心が、羽織の山の一番下から「発掘」したそれは、鮮やかな紅赤に、少しの紫を混ぜて、ぎゅっと凝縮したような色の羽織だった。きっと薫にはまだ早
い「大人っぽい」に分類される色であろうが、そこに描かれた丸っこい梅の花が、娘らしい可愛らしさを添えてくれている。
薫は、番頭に促されるまま藍色の着物を脱ぎ、彼に手渡した。剣心が彼女に梅の羽織を手渡すと、薫は畳まれたそれを広げて、背中に沿わせるようにし
ながら、袖を通す。
珊瑚色の着物の上から、それを羽織って襟元を整えた薫を見て―――剣心は、ふっと頬を緩ませた。
上品な葡萄色は「大人っぽい」色といえるが、丸い輪郭で描かれた薄紅色の梅の花模様がそこに初々しい可愛らしさを加えて―――それは彼女に、とて
もよく似合っていた。
薫は手近にあった姿見に自分の姿を映し、そして、はにかみながら剣心に微笑みを向けた。
★
剣心が見つけた羽織を買い求めた薫は、それをそのまま羽織って帰ることにした。
濃い葡萄色は薫の珊瑚色の丸絣にしっくり馴染み、もうずっと前から彼女がこの羽織の持ち主であったかのように見えた。
家路につきながら、「これ、よく見つけられたわよね」と感心する薫に、剣心は「いや・・・・・・皆、拙者が近づくと離れてしまったので」と種明かしをする。逆刃
刀を目にした客が向こうから離れてくれた旨を説明すると、薫は我がことのように憤慨した。
「失礼じゃない?剣心は全然怖いひとじゃないのに!腰の刀だけで判断しないでほしいわ」
剣心にしてみると、そんな反応をされることはこれまでの旅暮らしで何度も経験してきたことだ。だから「いつものことだから、気にしていないでござるよ」
と笑って受け流したが、彼女が怒ってくれることが、なんだかとても嬉しかった。
「でも・・・・・・ほんとにびっくり。わたしがこういう色を欲しがっていたの、どうしてわかったの?」
「そりゃ、薫殿が選んでいる様子を見ていれば、なんとなく」
「やだっ!見ていたの?!」
夢中で着物を選んでいた薫は、視線にはまったく気づかなかったらしい。一方的に見られていたことが恥ずかしいのか、ぱっと頬に真っ赤に血をのぼらせ
た薫に、剣心は目を細める。
「こう・・・・・・落ち着いた感じの色のを探しているのかなと思って。それで、ちょっと覗いてみたら、この羽織があったものだから・・・・・・しかし、失敗したでご
ざるかな」
「え?どうして?わたしこれ凄く好きよ?」
「でも、すぐに着られなくなるでござろう?どうせなら羽織ではなく、これからの季節に着られるような着物のほうが良かったのではござらんか?」
季節は春に向かっており、じきに羽織は不要な気候となるだろう。きっとあと数回袖を通したら、次の季節まで箪笥の中で出番を待つことになる筈だ。どう
せ選ぶならそこまで気を回すべきだったのに―――と剣心は少し後悔したが、答える薫の声は明るかった。
「そうかもしれないけれど・・・・・・でも、この色なら、これから何年も着ることができるもの。それに、次に着られるのを待っている期間だって楽しいものだし、
だから」
薫は、そう言いながら、羽織の袖口を指でつまむようにして、自分の頬に押し当てる。
「・・・・・・選んでくれて、ありがとう」
まだ赤い頬のまま、照れくさそうに俯きながら口にする様子がとてもかわいくて―――剣心は、鼓動がひとつ大きく跳ねたのを、自覚する。
「いや・・・・・・別に、拙者は選んだだけで、ふたりで買ったものでござるし。そんな、気にするようなことではござらんよ」
どぎまぎしているのを気取られないように、つとめて自然な笑顔で受け答える。
薫はそれ以上は何も言わず、ただ笑って頷いた。
彼女に似合うものを、と思いながら、何枚もの羽織を見比べた。
あの紬のような藍色のものもあったし、他にも彼女が探しているような落ち着いた渋めの色合いのものは沢山あった。
そんな中から、葡萄色の羽織を選んだ決め手は、あの梅の花だった。
地の色が落ち着いていても、あの柄ならば可愛らしく―――つまりは年相応に着こなせるだろうから。
彼女に、大人びた着物など着てほしくなかった。
だって、そんなものを身につけられたら、改めて実感してしまうではないか。
彼女が、子供などではないことを。
日に日に大人へと変わりゆく、ひとりの女性であることを。
そして―――俺が、そんな彼女を愛おしいと感じはじめていることを。
大人っぽいものもちゃんと似合っているよ、でももう少し子供でいてくれよ―――と。
あの羽織を選んだことに、まさかそんな思惑があろうとは彼女は気づいていないだろうけれど。
もうしばらく、彼女には稚い少女のままでいてほしい。これ以上、俺の心が揺らぐことが無いように。
「・・・・・・大切に着るね」
薫は、ふいに小さく呟いた。
それは、剣心に聞かせるつもりでもなく漏らした声だったのだろう。
けれど、その小さな声は雑踏の喧騒を縫って耳に届き、彼の胸をちくりと刺した。
大切になんてしなくていいよ。
むしろ―――出来ることなら捨ててしまってくれ。
その羽織も、以前贈ったリボンも、次の春が来る、その前に。
来る季節に、きっと俺はもう君の前から姿を消していることだろう。いつ、そうなるのかはわからないけれど、いつまでもここにいて良い筈がない。
俺が去った後、やがて君は他の男と巡り会って、祝言をあげて夫婦になって子供を産んで、幸せな人生を送る筈だ。それこそが、君にとって最良の道だ。
でも―――やがて君が、俺以外の男の横を歩くとき、俺が選んだ羽織を着ていて欲しくない。そんなことになるなら、いっそ捨ててしまってほしい。
自分で選んでおきながらこんなことを考えるのは、ただの身勝手な我儘だと、わかってはいるけれど。
「・・・・・・やっぱり、失敗でござったかな」
「もー!そんなことないって言ってるでしょ?剣心気にしすぎよー!」
薫にばちんと背中を叩かれて、剣心は笑いながらわざとらしく咳きこんでみせる。
笑いながらも、胸を侵食するように広がってゆく苦い感情をもてあまし、剣心は口許を歪めた。
4 へ続く。