4  やがて








        羽織の類いを仕舞っているのは、確か一番下の段。
        そして、あれはこの数年は着ていなかったから、きっとその、更に一番下にあるはず―――


        そう思いながら、出来るだけ音を立てないようにして、こっそり箪笥の引き手を引いた。
        はたして、目当ての羽織は予想通りの場所にあった。
        畳紙をひらいて、羽織に袖を通してみる。

        鏡で自分の姿を確認したが―――やっぱりちょっと大きいかしら。
        少しばかり、袖が長いような気がしないでも―――



        「大丈夫じゃないの?そのくらいなら許容範囲よ」



        突然声をかけられて、葡萄色の羽織の肩がびくっと大きく跳ねた。
        「お母さんー!もうっ、驚かせないでよー!」
        「あなたこそ、貸して欲しいなら勝手に箪笥を漁らないで、お母さんに一言声をかけなさい」
        薫は、ぴん、と娘の額を小さく指先で弾いてから、改めて彼女の立ち姿を検分する。

        「・・・・・・どうかな?ちょっと大きい?野暮ったく見える?」
        「んー、わたしが数えで十七のときに買ったから、あなたにはまだ大きくても当然ねぇ・・・・・・でも、ほんとにこのくらいなら大丈夫よ。着ていらっしゃいな」


        薫にそっくりな面差しが、ぱっと輝く。
        「ありがとう!」と娘に飛びつかれて、薫はあらあらと笑った。








        ★








        「はい、お父さんのおはぎ。お土産にね」
        「ありがとう、みんな喜ぶだろうなぁ」
        「今日は、何人くらい集まるの?」
        「十人は来ると思うけど・・・・・・あ、男の子ばっかりじゃなくて、ちゃんと女の子たちもいるからね。お兄ちゃんたちも途中で顔を出すかもって言ってたから、
        お父さんに心配しないでって伝えておいて」

        それはかなりの牽制だろうな、と薫は内心で苦笑する。
        普段からたびたび口喧嘩の絶えない兄妹ではあるが、それでもなんだかんだで兄たちにとっては「可愛い妹」なのであろう。彼女に悪い虫がつかないよ
        う、厳しすぎる目配りをするに違いない。

        「はいはい、伝えておくわね。まだ寒いんだから、冷えないように気をつけるのよ?」
        「大丈夫!これ着てるから!」
        羽織の袖をつまみながら、行ってきますと元気に叫んで出発した娘の背中を見送ると、入れ違いに剣心から声をかけられた。


        「おろ、うちの小町娘はもう出掛けたのでござるか?」
        「うん。おはぎ、喜んでいたわよ」
        台所の片付けを終えてきたらしい剣心は、するりと肩から襷を外す。薫がお疲れ様と笑うと、剣心もよく似た表情で微笑みを返した。








        「・・・・・・で、今日は『梅見』に行ったのでござるか」
        「ええ、梅の花を見に行くから、お花見ならぬ梅見ですって。他の道場の門下生たちと、後は女の子の友達も来ますって。あと、剣路たちも合流するかもっ
        て言ってたわ」
        その言葉に、やや強張っていた剣心の眉間から力が抜けた。待ち焦がれて生まれた娘だから、父親としては色々心配なのだろう。縁側で隣に腰掛ける
        良人の顔を見ながら、薫はくすりと笑った。

        「あの子、あの梅の羽織を着ていったのよ?梅を見るならこれがぴったりだから、って」
        「梅の、って・・・・・・拙者たちが会ったばかりの頃に買った、あの?」
        「さすがに、まだちょっと袖が長かったけれど。でも、それが却って可愛らしかったわ」
        「それは、懐かしいでござるなぁ・・・・・・」


        葡萄色の梅の羽織を、薫は大事に大事に長く着ていたが、ここ数年は「さすがに柄が若すぎるから」といって身につけていなかった。しかし、娘は母親の
        お気に入りの羽織のことをよく覚えており、「いつかお下がりに貰おう」と狙っていたらしい。

        ふたりの間に生まれた長女は、幼い頃から両親や兄たち、そして大勢の門下生が剣術に勤しむのを見て育ったため、特に強制したわけでもなかったが自
        ら竹刀を取るようになった。今では巷で「二代目剣術小町」と呼ばれており、本人も母親から継いだ呼称を気に入っているようだ。
        薫と同じく、男ばかりの環境で剣術三昧で育った娘だが、背伸びして母親の羽織をねだるような洒落心はちゃんと持ち合わせているらしい。そのことに、
        薫はちょっと安心した。




        「ずいぶん前の話だが・・・・・・よく覚えているでござるよ。あの羽織を買ったときのことは」
        「わたしもよ。剣心に選んでもらって、とっても嬉しかったから」

        湯呑みにお茶を注ぎながら、薫は頷く。天気は良いが風はやや冷たいので、熱々の湯で淹れる焙じ茶にした。その傍らには、剣心が作ったおはぎが皿に
        乗っている。
        「実を言うと、あれを選んで『失敗したな』と、当時は本気で後悔したでござるよ」
        「ああ、そういえばそんな事言ってたわね。でも、ちゃんと長ーく着られたでしょう?やっぱりあれで正解だったのよ」
        「うん・・・・・・そういう意味ではなくて」
        剣心は湯呑みを手に取った。鼻先をくすぐる香りとあたたかな湯気を感じて、小さくひとつ息をついてから、喋り出す。


        「あの頃の拙者は、いつかはここを出て行かなければと思っていたからな。拙者がいなくなったあと、あの羽織だけが薫殿の傍に残るのが嫌だったんでご
        ざるよ」
        「・・・・・・失敗って、それで?」
        「ああ、拙者がいなくなったあと、薫殿があれを着て他の男と歩いているところを想像したりして、それが凄く嫌で・・・・・・選んだことを本気で後悔した」
        「やだっ!馬鹿ねぇそんなこと考えてたの?!」
        薫はころころと剣心の「後悔」を笑い飛ばし―――笑った後に、「ほんと・・・・・・ばかね」と、優しい声音で呟いた。

        「うん、そのとおり、馬鹿でござったな」
        剣心は、まだ熱い焙じ茶をひとくち口にすると、湯呑みを下に置いた。
        薫は、ほんの少しだけ身体を動かして、剣心の肩に寄り添った。
        「・・・・・・立つ鳥あとを濁さず、というでござろう?去るときは、そんなふうに去りたかったのでござるよ。そのほうが、互いに辛くないだろう、と」



        いつか此処を去る身だと思っていた。
        何も残さないまま君のもとを去ることが、俺を迎え入れてくれた君への誠意だと信じていた。

        けれど、結局は藍色のリボンを残して、梅の羽織を残して。
        そのうえ、君の心に大きな傷を残して―――



        「思いっきりあとを濁していたわよ?あの『さよなら』は」
        「・・・・・・すまなかった。あの頃は、つくづく未熟でござった」
        剣心が情けない声で詫びて、そしてふたりは肩を寄せ合いながら、揃ってくすくすと笑いを漏らす。

        人生は長くて、あの、明治十一年に起きた事件や闘いも、その長い時間のなかのほんの一瞬の出来事といえよう。
        けれども、ふたりが出逢ったあの年は、やはり彼らにとって最も思い出深い年だ。



        物も思い出も、何も残さずに去るつもりだったのに、結局はこの地で人生が変わった。この場所が、新たな始まりの場所になった。
        この地で幾つも思い出を重ねて、新しい命が生まれて―――何も残さないどころか、こうして受け継がれてゆく。

        思い出も信念も、剣に託した想いも。
        生きてきた記憶も、すべては新しい世代に託されて、繋がってゆく。




        「あ、でも・・・・・・ちょっとだけ当たったかも。剣心の予想」
        「え?」
        「今にあの羽織を着て、他の男の子と並んで歩くのかもしれないわ・・・・・・わたしじゃなくて、あの子が」
        その言葉を聞くなり剣心は弾かれたように縁側から立ち上がり、薫はそんな良人の着物の袖をはっしと素早く掴んだ。

        「落ち着いてよ、別に今日そういう事になってるわけじゃないんだから」
        「いいいいやでも薫殿、今日だって他の門下の男子も一緒なわけでござろう?まさかとは思うがその中に意中の相手がいるとか」
        「そうねぇ・・・・・・はりきっておめかししていたから、誰か見せたい相手がいるのかも」
        「いやいやいやそういうのは早すぎるでござろうだってあの子はまだまだ子供で」
        「確かにそうだけど、でも・・・・・・あと数年もしたらあの子も、わたしがあなたに出逢った年齢になるんだし」
        剣心は何か反証を唱えようとしてぱくぱくと口を開閉させたが、結局適当な言葉は見つからなかったらしい。かくんと首を前に倒すと、薫に袖を引かれるの
        に従って再び縁側に腰掛ける。


        「もう・・・・・・そんなになるのでござるなぁ」
        感慨無量といった面持ちでしみじみと息をつく剣心を見ながら、薫は小さく首をかしげて微笑んだ。
        「そんなになるわよ。わたしなんか、もう人生の半分以上をあなたと一緒に過ごしているわけだし、子供たちが大きくなって当然だわ」
        「拙者は・・・・・・半分にはあともう少し必要でござるな」
        別に競うようなことでもなかろうに、早くそうなりたいといわんばかりに年数を計算する剣心が可笑しくて、薫はまた笑う。「慌てなくても、そんなのきっとあ
        っという間よ」と言って、皿の上のおはぎに手を伸ばした。

        「でも・・・・・・悔しいなぁ。何年経っても、剣心の作るおはぎには勝てないのよねぇ」
        しげしげとおはぎを眺めながら拗ねたように言う様に、出逢って間もない頃の十代の妻の表情が透けて見えて、剣心は目を細める。
        「薫殿だって、昔に比べるとずっと上手に作れるようになったではござらんか」
        「そう言ってもらえるのは嬉しいけれど・・・・・・いつまで経っても追いつけないのは悔しいわ」
        そう言いつつも、薫はおはぎを一口頬張って、「でも、やっぱり美味しい・・・・・・」とうっとり呟く。



        追いつこうとして一所懸命な君を見るのが好きだから、それでいいんだよ、と。
        素直に口に出したら、君はどんな顔をするだろうか。

        うんと昔は、もっと大人になろうとして必死で背伸びをする君の姿に心をかき乱されたものだけど―――今は、重ねてきたすべての瞬間が、あらゆる思い
        出や感情が、ただいとおしく感じられる。そしてそれは、これから先も、ずっとずっと続いてゆく。




        「明日・・・・・・拙者たちも行こうか。梅の花を見に」




        剣心の提案に、薫は「賛成!」と弾んだ声で答える。
        明日もきっといいお天気よ、と薫が笑うと、そこに今年はじめての鶯の鳴き声が重なった。







        またひとつ春を一緒に迎えられたことに感謝しながら、剣心は薫の肩をそっと抱いた。
















        梅の花咲く頃 了。

                ぷちおまけ?




                                                                                          2015.06.15






        モドル。