2 薫










        「剣心!」



        薫の呼びかけに、剣心は着物の方に落としていた目線を上げた。そして、藍の紬を羽織った彼女を見て、驚いたように目を大きくする。
        「これにしようと思うんだけど・・・・・・ね、どうかしら?」
        今の驚いた表情は、決して悪い反応ではないはずだ。そう思いながら、薫は少しの緊張をもって尋ねてみる。
        剣心は束の間、しげしげと薫の立ち姿を見つめて―――そして我に返ったかのようにぱちぱちと瞬きを繰り返した。

        「・・・・・・うん、似合っているでござるな」
        そうであってほしい、と望んでいた答えを貰えて、薫の顔がぱっと明るくなる。けれども―――それは一瞬のことだった。
        剣心はその後に「しかし・・・・・・」と付け加え、言いにくそうに眉を寄せる。



        「しかし・・・・・・薫殿には、少々その着物は大人っぽいのではなかろうか・・・・・・?」



        上昇した気持ちは、あっという間に急降下の憂き目にあった。
        わたしにとって、この着物は大人すぎる。そういう意味のことを剣心は言った。つまり―――
        「それって・・・・・・わたしが、子供だから―――似合わないってこと?」

        こういうときに、あからさまに不機嫌というか尖ったというか、ひらたく言うと怒った声になってしまうところが、つまりは「子供」なのだろう。そう、頭で解っ
        てはいるのだが、どうにも抑えることができなかった。自分の眉が険しい形を描いていることも自覚できるのだが、これも制御することができない。


        「いやっ!違うでござるよほんとに似合っているでござるよ?!しかし、なんというか、その・・・・・・」
        ぴしっと表情を固めてしまった薫に向かって、剣心は慌てて弁解を始める。そこに、ふたたび番頭がやってきて助け舟を出した。
        「お連れ様の言うとおりでございますよ。そちらも充分お似合いですが、お客様でしたらもっと華やかなもののほうが・・・・・お客様のお年頃でしか着られな
        い色柄もありますから、あまり大人しいものを選ばれては勿体のうございますよ」

        番頭の濃やかな言葉に、剣心はうんうんと繰り返し頷く。
        ふたりが言っていることは理解できる。わたしくらいの年齢でしか着られない色や柄というのが確かにあるのだから、結局は年相応のものを着るのが、一
        番自然で一番似合うはずなのだ。


        その理屈はわかるし、ふたりが親切心からそう言ってくれているのも理解できる。だから、素直にうけとめるべきだとわかってはいるのだが―――でも。
        ひそめた眉間から力が抜けて、そのかわり、悲しげに口許が歪む。なんだろう、まるで「やっぱり、つりあわないよ」と言われてしまったみたいで、悲しかっ
        た。

        わたしと剣心の間には、ひとまわりの年の差だけの距離があって、それは着るものを変えても取り繕うことは出来やしない。
        まだまだ幼稚で未熟なわたしは、どんなに大人びた装いをして剣心の横に立ったとしても、あの夫婦みたいな雰囲気にはなれないんだ。
        わたしじゃ似合わないんだ。剣心の横に立つのは、わたしみたいな小娘じゃ―――


        「・・・・・・これ」
        思わず知らず下を向いてしまっていた薫の視界に、剣心の声とともに、濃い葡萄色が映りこんだ。
        「・・・・・・え?」
        「さっき、そこで見つけたんだが」



        彼の手にあるのは、畳まれた羽織である。
        深い、赤紫の地のところどころに、円みを帯びた花柄が散っている。それは、梅の花模様だった。



        「おや、これは良いものを見つけられましたなぁ」
        薫が言葉を失っていると、番頭が横から口を挟んできた。
        「これなら、お客様が先程からお探しになっている色合いにも近いのではないですか?品のある、落ち着いたよい色ですよ」

        鮮やかな紅赤に、少しの紫を混ぜて、ぎゅっと凝縮したような色。きっと薫にはまだ早い「大人っぽい」に分類される色であろうが、そこに描かれた丸っこい
        梅の花が、娘らしい可愛らしさを添えてくれている。
        薫は、促されるまま藍色の着物を脱いで番頭に手渡して、剣心の手から梅の羽織を受け取った。畳まれたそれを広げて、背中に沿わせるようにしなが
        ら、袖を通す。




        珊瑚色の着物の上から、それを羽織って襟元を整えた薫を見て―――剣心は、ふっと頬を緩ませた。
        薫は手近にあった姿見に自分の姿を映して、それを見て、剣心とよく似た表情で微笑んだ。









        ★








        「これ・・・・・・よく見つけられたわよね、剣心」



        羽織の胸のあたりを指し示しながら、薫は感心したように言った。
        着ているのは、剣心が選んでくれた羽織である。濃い葡萄色は薫の珊瑚色の丸絣にしっくり馴染んだので、買い求めた後そのまま着て帰ることにした。


        「男物のところはそうでもなかったけれど、女物のところは凄い混雑だったじゃない。しかも、女のひとばっかりで」
        「いや・・・・・・それがそうでもなかったんでござるよ。皆、拙者が近づくと離れてしまったので」
        「え?どうして?」
        「まぁ、これの所為でござろうな」

        そう言って、剣心は腰の逆刃刀を示して見せた。薫は一拍おいて「あっ・・・・・・」と頷く。先日の剣客警官の騒ぎの際、警察署長に「安全である」と判断され
        て剣心の帯刀は警察に公認される形となった。とはいえ、この街の住民の皆がそれを知っている訳ではない。買い物中に、刀を差した男がぬっと横に現
        れたら、思わず距離をとるのは無理もない反応だろう。

        「けれど、それにしても失礼じゃない?剣心は全然怖いひとじゃないのに!腰の刀だけで判断しないでほしいわ」
        自分が不当に扱われたように憤慨する薫に、剣心は笑って首を横に振る。
        「いつものことだから、気にしていないでござるよ。それに、おかげでこの羽織を見つけられたわけだし」
        おどけたように言う剣心に、薫も眉間の険しさをゆるめて頷いた。


        「でも・・・・・・ほんとにびっくり。わたしがこういう色を欲しがっていたの、どうしてわかったの?」
        「そりゃ、薫殿が選んでいる様子を見ていれば、なんとなく」
        待っている間手持ち無沙汰にしていた剣心は、着物を選んでいる薫の姿を離れたところから眺めていたらしい。そんな事にはまったく気づかずにいた薫
        は、剣心の言に頬を赤くした。一心不乱に呉服物を漁っている姿は、あんまり格好のいいものではない。けれど、どんな着物が欲しかったのかあっさり「見
        透かされた」ことは、なんとなくくすぐったくて、少し嬉しくもあった。こんなふうに感じるのは、相手が剣心だからなのだろうが。

        「こう・・・・・・落ち着いた感じの色のを探しているのかなと思って。それで、ちょっと覗いてみたら、この羽織があったものだから・・・・・・しかし、失敗したでご
        ざるかな」
        「え?どうして?わたしこれ凄く好きよ?」
        上品な葡萄色は、無地のままだとそれこそ薫には「大人っぽくて」着こなせなかったかもしれない。けれど、丸い輪郭で描かれた薄紅色の梅の花模様
        が、可愛らしさを加えてくれるお陰で―――結果として、羽織は華やかな顔立ちの薫にとてもよく似合うものだった。


        「でも、すぐに着られなくなるでござろう?どうせなら羽織ではなく、これからの季節に着られるような着物のほうが良かったのではござらんか?」
        言われてみれば、確かに。
        季節は春に向かっているのだから、じきに羽織は不要な気候となるだろう。きっとあと数回袖を通したら、次の季節まで箪笥の中で出番を待つことになる
        ことだろうが―――

        「そうかもしれないけれど・・・・・・でも、この色なら、これから何年も着ることができるもの。それに、次に着られるのを待っている期間だって楽しいものだし、
        だから」
        薫は、そう言いながら、羽織の袖口を指でつまむようにして、自分の頬に押し当てた。



        「・・・・・・選んでくれて、ありがとう」



        改めて言うのが、なんだか照れくさくて、少し俯きながら口にする。
        「いや・・・・・・別に、拙者は選んだだけで、ふたりで買ったものでござるし」
        気にするようなことではござらんよ、と。剣心はごく自然に、さらりと笑顔で受け答える。

        確かに、この度は弥彦の分を含めた三人の着物を、ふたりで支払っているわけだし。剣心にしてみれば、たまたまよい色の羽織が目に留まったから、単
        純にそれを選んだだけなのだろうけど。
        けれど―――薫はそれ以上は何も言わず、ただ笑って頷いた。




        わたしの中で、日々育ちつつある、「好き」という感情。
        けれど、きっと彼にとってわたしはほんの子供で、ただの居候先の家主で、そういった感情を抱く相手としては対象外なのだろう。

        だから、早く大人にならなくちゃ。
        いくら日数を重ねても、剣心との年齢の差が縮まることは決してない。でも、彼より幼いわたしには、そのぶん彼より「成長の余地」があるはずだ。
        もっと大人になって女らしくなって、綺麗になれるように、剣心に少しでも追いつけるように―――がんばらなくちゃ。

        そんなことをしたとしても、彼がわたしを見てくれるとは限らない。わたしに夢中になってくれるなんて、それこそ夢のまた夢かもしれないけれど。
        でも、わたしの中に芽生えてしまった、この「好き」という感情の所為で、そう願わずにはいられない。
        あなたの横を歩くのが誰より似合う、わたしになりたい―――と。




        「・・・・・・大切に着るね」




        薫は、祈りを捧げるような小さな声で、そっと呟く。
        来る季節に、次にまた梅の花が咲く頃に、この羽織がもっと似合うような女性になっていますように。
        そして、その時には剣心がちゃんと隣にいてくれますようにと、願いながら。












        3 へ続く。