梅の花咲く頃





      1  薫







        すてきな装いのひとだな、と薫は思った。





        赤べこで向かいの席に座ったその女性は、藍色の着物を身につけていた。
        帯は青みを帯びた赤で、牡丹の花が白く染め抜かれている。


        年の頃は、剣心と同じくらいだろうか。同年代の男性と一緒に鍋をつついており、様子をみるに夫婦のようだった。
        時折目を合わせては静かな声で会話を交わし、ふたり揃って柔らかく微笑む。夫婦は長く連れ添っているうちにどんどん似てくるというが、このふたりもよ
        く似た表情で笑っていた。
        上品な顔立ちの美しい女性で、落ち着いた色合いの着物がよく似合っていた。彼らのほうが先に食事を終えて席を立つのを、薫は思わず目で追った。混
        みあった店内で、良人とおぼしき男性がごく自然に女性を庇うように前に立って歩く。遠ざかってゆくお太鼓の牡丹の花を眺めながら、薫は「後ろ姿も綺麗
        だな」と思った。


        「―――薫殿?」


        束の間見惚れていたら、箸が止まっていた。剣心に声をかけられ、はっとする。
        「どうかしたのでござるか?冷めるでござるよ?」
        「あ・・・・・・うん、大丈夫、なんでもないの」
        ふるふると首を横に振ってそう答える。はずみで髪に結んだリボンがふわりと揺れたのを感じて、ああ、そうかと薫は心の中で呟いた。


        今日のリボンは、お気に入りの藍色のリボン。


        一度駄目にしてしまったのを剣心が同じ色のを買ってくれて、前より更にお気に入りになった。
        あの女性の着物の色は、このリボンとそっくりな色で―――だからあんなに気になってしまったのだろう。





        「おおきに、後程伺いますよって・・・・・・」
        ふと、耳に飛び込んだ妙の声に、店の入り口の方を見やる。
        誰かを見送っていたらしい妙は深いお辞儀から直ると、くるりと踵を返して一直線に剣心と薫のいる席にやってきた。


        「ね、薫ちゃん、羽鳥屋さんって知ってる?」
        「え?うん、知ってるけど・・・・・・この前、火事に遭ったっていう・・・・・・?」

        羽鳥屋は赤べこからそう遠くない場所にある呉服屋である。京都に本店があり反物の他に古着も扱っており、薫も何度か足を運んだことのある店だ。
        しかし、先月町内で火が出て何軒かが焼けた。不幸中の幸いで死者は出なかったが、羽鳥屋も被害に遭い、店を開ける状態ではないと聞いていた。
        「でも、蔵は全部無事やったから、じきに建て直して営業は再開するんやって。よかったわぁ・・・・・・うちの店の制服、いつも羽鳥屋さんにお願いしとるし」
        そう言って妙は、着物の袖をつまんで見せる。先程挨拶をしていたのは羽鳥屋からの使いで、火事見舞いの礼に訪れたらしい。


        「それで、もひとつ嬉しい知らせを持ってきてくれたんよ。今日から羽鳥屋さん、売り出しが始まるんやって」
        「おろ?しかし、蔵の商品は無事でも、店は焼けてしまったのでござろう?」
        「ええ、だからとりあえずは仮店を普請して・・・・・・」

        当座がしのげるだけの仮の店舗を建てて、そこで焼け残った商品の大売出しを行い、それから本店舗の普請にとりかかるらしい。
        羽鳥屋から使いは、赤べこの営業時間内は買い物に出られない妙のために、「お好みに合いそうなものを幾つかよけておきますので、時間ができたら覗
        きにきてみてください」と伝えにきたのだった。


        「薫ちゃんも行ってみたらどう?古着も反物も、どれもみんな半額やって」
        着物が半額、という言葉に反応しない女性は、まず少ないだろう。薫はきらーんと目を輝かせると、ほとんど反射的に「行くー!行きたいっ!」と答えた。そ
        して、店の中で大きな声をあげてしまったことに気づき、ぱっと頬に血を上らせる。
        そんな彼女の姿に、剣心は思わず頬をゆるめつつ「では、この後寄っていこうか」と言った。薫は赤い顔のままこくこくと頷き、妙のほうを向き「教えてくれ
        てありがとう!」と礼を言う。


        揃って食事を再開したふたりを、妙はにこにこ笑って眺めていた。








        ★








        「大賑わいでござるなぁ」
        羽鳥屋の前にできた列に並びながら、剣心は感嘆の声をあげる。
        大売出しの報を聞いて駆けつけたのは、当然剣心と薫だけではなかった。小さな仮店には既に入りきらないくらいの客が押しかけ、店に入るのは順番待
        ちの状態である。羽鳥屋は古着でも良い品しか扱わないため、商品の値段はそれなりである。それがいずれも半額だというのだから、ここぞとばかりに客
        が集まるのも当然だろう。


        「弥彦、反応薄かったわねぇ」
        赤べこで、賄いを食べ終えて表に出てきた弥彦に「あんたの分も、いいのがあったら買ってくるからね」と声をかけたのだが、返事は「ああ、ありがとな」と
        さらりとしたものだった。薫としては、店の手伝いがなかったら弥彦も連れてきて自分で選ばせたかったのだが―――
        「まぁ、弥彦くらいの男の子供は、着るものにそう頓着しないでござるからな」

        そう言われて、薫は列の後ろを見やった。
        大人にしても、着るものに目の色を変えるのはやはり大多数が女性なわけで、ここに集まっている大半も女性客である。

        「・・・・・・剣心も、無理に付き合わなくてよかったのよ?」
        控え目な声でそう言うと、剣心はきょとんとしたように瞬きをして、そして笑って首を横に振った。
        「いや、無理などしてはおらぬよ。こういう賑やかな様子を眺めているのは、楽しいでござる」
        特に気を遣ったふうでもない剣心に、薫はああそうかと納得する。


        このひとは―――「楽しそうな人々の様子」を眺めるのが好きなのだ。
        そもそもこのひとは、市井の人々の幸せを、よりよい世の中を願って、この国を変えようとしたのだから。流浪人になったのだから。


        「・・・・・・優しいなぁ」
        小さく口の中で呟くと、剣心が「おろ?なんでござる?」と首を傾げた。
        薫は「なんでもない」と目許を笑わせながら、首を横に振った。







        程なくして、剣心と薫のふたりは仮店の中に入ることができた。
        蔵おろしということで、こじんまりとした店内には足の踏み場も無いほどに呉服物が並んでおり、主に女性の客が一心不乱に反物や古着をあさっている。
        ふたりはまず男物に焦点をしぼり、剣心と弥彦の春物を一着ずつ選んだ。ここで剣心が「拙者は待っているでござるから、あとは薫殿がゆっくり選べばい
        いでござるよ」と言ってくれたので、薫はその厚意に甘えることにした。

        子供の頃から男性の中に混じって剣術三昧の日々を送ってきたとはいえ、薫も年頃の娘である。当然、呉服物を選ぶとなれば、心が浮き立つものだ。「こ
        れからの季節に着られるものを」と思い、何着かを手にとってかわるがわる胸元に当てて見ていたら―――近くにいた羽鳥屋の番頭から声をかけられた。


        「今日は、落ち着いた色合いのものをお探しですか?」


        僅かに上方の訛りを含んだ声でそう訊かれて、薫は「え?」と首を傾げる。
        そして、自分がどれにしようかと迷っている着物たちに改めて目を落としてみると―――それらは松葉色や煤竹色といった、深みのある、落ち着いた色調
        のものばかりだった。どうやら、無意識にこういった色ばかりを選んでいたらしい。

        「他にお探しのものがありましたら、出して参りますよ」
        「・・・・・・あ、それじゃあ」
        薫は自分の髪を飾るリボンを指でつまんで、「こんな感じの、藍色の着物はありますか?」と尋ねてみた。
        番頭は「ございますよ」と笑顔で頷きつつ―――しかし、薫の顔と、現在身につけている着物とを交互に見やり、首をかしげた。
        「しかし、失礼ですが、お客様でしたらもっと華やかな物でもお似合いかと思うのですが・・・・・・」


        薫が、今着ているものとは大きく雰囲気が異なる着物ばかりを選んでいることを、不思議に思ったのだろう。
        今日の着物は明るい珊瑚色の丸絣の紬で、ところどころに飴玉のような水玉模様が散っている。帯は淡い薄月色で、そこに結んだ瑠璃紺の帯締めが差
        し色になっていた。いかにも娘らしい、若々しい装いである。

        「あの、たまには、ちょっと大人らしいものを着てみたいと思って・・・・・・」
        「かしこまりました、お持ちいたしますので、少々お待ちください」
        番頭に礼を言って、薫は小さく息をついた。



        明るい、華やかな色や柄の着物は大好きだ。今日着ている紬だって、気に入っている。
        けれど、先程赤べこで見かけた、あの女性―――彼女の装いがあんまり素敵だったから。だから、薫が「わたしもあんなふうになりたい」と思ってしまうの
        は、ごく自然な流れだった。

        それに、彼女と連れの男性が持つ空気にも憧れた。
        多分、年齢は三十前後。おそらくは夫婦だろう。穏やかに微笑みを交わす様子を見ているだけで、傍目にも仲睦まじいことが伝わってきた。



        彼らを眺めているうちに、ふと思った。
        わたしと剣心は―――周りからはどんなふうに見えているのかしら、と。



        ―――以前、妙さんから「そちらのお兄さんは恋人?」と訊かれたときは、思わず否定してしまったけれど。あれは、男の人と一緒にいてそんな風に言わ
        れたのが初めてで、だからびっくりしたからで―――でも、今になって否定したことを「もったいなかった」と思っている。

        こんな感情を抱くのははじめてでどうしたらよいのか自分でもわからないけれど、きっと、これは「好き」という感情だ。
        そしてそれは、日に日に胸の中で育ちつつある。


        わたしと剣心のことを、「恋人同士」に見てくれるひとも、いるのかな。「夫婦」は、流石に無理かしら。
        わたしくらいの年齢でお嫁に行く子は勿論いるけれど―――わたしと剣心じゃ、つりあわない、かしら。

        だって、彼は見た目こそあんな感じだけれど、わたしよりひとまわり年上なんだし。
        やっぱり、彼が身にまとう空気は、わたしよりずっと大人のそれだと感じることもあるし。


        そんなことを考えてしまったものだから、無意識のうちに、背伸びをした雰囲気の着物を求めてしまったのだろう。
        せめて、着るものをもっと大人びたものにしてみたら。ほんの少しでも、上辺だけでもいいから、彼につりあうように見えたりしないかしら―――と。



        「お待たせいたしました、こちらはいかがでしょうか」



        番頭の声が頭の上から降ってきて、薫ははっとして顔を上げた。
        彼が手にしていたのは、濃い藍色に唐草の地模様が細かく入った紬だった。


        「・・・・・・すてき・・・・・・!」


        夜空を切り取って仕立てたような色。
        素敵な色だったけれど、こんな色の着物に「挑戦」したことはなくて、素敵だからこそ薫は少しばかり怯んだ。
        しかし、番頭に「どうぞ、袖を通してみてくださいませ」と勧められて、思いきって今着ている着物の上から羽織ってみる。


        「・・・・・・あ」
        姿見に映る自分を見て、薫は小さく声を漏らした。
        そこにあったのは、今まで見たことのない、自分の姿だった。

        ともすれば暗い印象になりかねない濃い藍色は、薫の色白の肌にきれいに映えて、くっきりとした顔立ちにも相性がよい。きりりと粋なこの着物につられ
        るように、なんとなく、身にまとっていたら背筋が伸びるような感じがする。



        これはこれで、ひょっとして・・・・・・



        「ああ、よくお似合いですなぁ。お客様でしたら、ここに白などの明るい帯を合わせますと、更に引き立ちますよ」
        番頭の言葉に、薫はこくこくと頷いた。少し、背伸びをしていることは承知で羽織ってみた着物だが、悪くない。



        むしろ―――似合っていると、自分でも思った。



        「あの・・・・・・ちょっと、連れに見てもらってもいいでしょうか・・・・・・?」
        勿論どうぞと促され、薫はきょろきょろと首を動かし剣心の姿を探した。呉服物を選ぶ大勢の女性たちの頭越しに、その様子を興味深げに眺めている彼の
        顔を見つけた薫は、客たちと古着や反物の間を縫ってそちらへと向かった。















        2 へ続く。