夢の中、暗くて狭い箱の中にいた。
真っ暗で何も見えない箱におさめられて、暖かく、居心地のよい場所にいる。
この場所はとても好きだ。
どきどきと胸の奥が心地よくときめいて、幸せな気持ちになれる場所。
でも、今は動きを阻むこの箱がもどかしい。
これでは腕を伸ばせない。
あなたを抱きしめることができない。
せっかくの羽根をはばたかせることもできなくて―――
「・・・・・・羽根?」
目覚めとともに、薫は呟いた。
今朝もまた、あの夢だ。またしても同じ夢を見てしまったことについては今更驚かないが、羽根ってなんのことだろう。
手足を自由に動かせないというのはまだわかるけれど・・・・・・羽根?
そろそろ起きる時間の筈だが、目を細く開けても、まだ暗い。視界を塞がれているからだ。
薫は申し訳程度に寝間着を羽織った姿で、剣心の腕に抱かれていた。たとえ目蓋をしっかり開いたとしても、目に入るのは彼の裸の胸だけだろう。
「あ・・・・・・そうか、なぁんだ」
剣心の体温にくるまれながら、まどろみにたゆたっていた薫の頭に、唐突にひとつの答えが浮かぶ。
「・・・・・・ここだったんだ」
薫は、まだ起きる気配のない剣心の胸に、頬をすりよせた。
夢の中で感じていた場所の正解は、ここだ。
どきどきして、あたたかくて、幸せな気持ちになれる場所。それは剣心に抱かれた腕の中。
こうして彼の胸に身体を預けていると、守られていることを実感する。
そう、ここは世界で一番安心できる場所だ。
薫は夢の残滓を探るかのように、もう一度目を閉じた。
場所は、わかったけれど―――箱と、羽根って何のことだろう?
★
「・・・・・・薫殿?」
不意に、頭上から降ってきた声に、薫ははっとして顔を上げた。
「こんなところで居眠りしていると、風邪をひくでござるよ」
縁側にむかった障子を開け放ち、畳にぺたんと座ってぼんやりしていた薫の顔を、剣心は立ったまま身体を折り曲げるようにして覗き込む。
「・・・・・・寝てないもん、ちょっと考え事していただけだもん」
「おろ、それは失敬した」
そういって笑う剣心の明るい色の髪が、逆光に透けてきらきらと光る。薫は眩しさに瞬きをした。
実際のところ、「居眠りでもしてもう一度あの夢が見られないものかしら」と思っていたところだったが、それは口には出さないでおく。
「天気がよいから敷布を洗濯しようと思ったのだが、他に洗うもの、ないでござるか?」
問いながら、剣心は襷を懐から取り出して、袖が濡れないようにたくし上げようとする。
「ありがとう、それじゃ、あ・・・・・・」
ひらめきは、やはり唐突にだった。
薫はすっくと立ち上がり、じっと、剣心の目を見る。
「・・・・・・剣心」
「ん? 何でござる?」
「えっと、あのね、先に言っておくわね? わたしが今からすること、ひょっとしたら全然見当違いで、間違っているかもしれないんだけど・・・・・・」
「は?」
「ごめんっ!」
言うなり薫は、ばっ、と剣心に飛びかかった。
一応の前置きはあったとはいえ、突拍子もない行動に剣心は驚く。
「かっ、薫殿っ?!」
慌てる剣心には構わず、薫は彼の袷を広げて懐に手を突っ込む。はらりと、襷が畳の上に落ちた。
直感は、正解だった。薫は指先に触れた物を、そのまま掴むと手を抜いた。
「・・・・・・これ、は?」
白いてのひらにおさまったのは、細長くて小さな、桐の箱。
胸に―――懐に箱を隠し持っているのではないか、という読みは当たっていた。しかし、当たったとしてもその後どうするのかは考えていなかった薫は、
もの問い気な顔で剣心を見る。剣心は、袷を直しながら観念したかのような表情で「・・・・・・開けてみて」と、言った。
「え、でも・・・・・・いいの?」
「ああ、もともと薫殿に贈るつもりでござったから」
「わたしに?」
剣心は、微妙にそっぽをむきながら頷く。一瞬、薫は彼が怒っているのかと思ったが、そうではなく、むしろばつが悪そうな顔だ。
蓋に指をかけて、そっと開く。
と、箱の中に、青い蝶の姿が見えた。
「う、わぁ・・・・・・!」
薫は息を飲み、その美しい蝶に―――蝶の飾りがついたかんざしに触れた。
「剣心・・・・・・これ、どうしたの?」
「この間、ちょっと覗いてみた小間物屋で見つけたんでござるよ。薫殿の好きそうな色だなと思って」
薫は、かんざしを指で摘んで、蝶の羽根を陽の光に透かした。空の青さより鮮やかな明るい青色に、うっとりと目を細める。
「きれーい・・・・・・」
感に堪えないように漏らした声に、剣心はほっとしたように息をついた。
「・・・・・・この間、見つけたの?」
「ああ」
「じゃあ、ここ数日ずーっとこうやって懐に入れてたわけ?」
また頷く剣心に、薫は納得した。
居心地のよい場所は、彼の胸。
箱は、かんざしの収まった小さな桐の箱。
羽根をのばしたがっていたのは―――
しかし、まだ疑問は残る。
「ねぇ、どうして直ぐに渡してくれなかったの?」
「だって、薫殿、それを挿すような髪型、しないでござろう」
「え」
「思い立って買ったものの、よく考えてみると薫殿はこういうのは身につけないかもしれないと思って・・・・・・リボンのほうがよかったかとも思って」
言い訳のように続く剣心の言葉に、またひとつ薫は理解した。昨日、剣心が視線を送っていたあの綺麗な女性。彼女は髪を結い上げて、かんざしを挿し
ていた。と、いうことは。
「ああいう髪型なら、かんざしも挿せるでござろう? そう、思って・・・・・・」
「・・・・・・あはは、なぁんだ、そういう事だったの」
そわそわと挙動がおかしかったのは、渡すべきか渡さないべきか逡巡していたから。
あの女性を見ていた、というよりは、あの「髪型」を見て、薫の事を考えていた。
これで、すべての謎が明らかになった。
「剣心、ちょっと待っててくれる?」
「え?」
薫は蝶のかんざしを手に、くるりと剣心に背を向け、小走りに自室へとむかった。
鏡台の前に腰を下ろし、しゅる、と髪のリボンをほどき、櫛を取る。
「薫殿? いったい何を・・・・・・」
縁側で待っているのが落ち着かなかったのか、追いかけてきた剣心はためらいがちに声をかけながら薫の部屋をのぞいた。
そして―――後ろ姿の薫を見て、軽く目をみはる。
うなじの後ろで、束にした黒髪をくるくるっとひねり、そのまま上に持ち上げるようにして。頭の上のほうで、毛先を折りたたむようにして。
どういう工夫があるのか、薫は櫛と指先を使って剣心の見ている前であっというまに髪をまとめ上げ、仕上げというふうに蝶のかんざしをすっと挿し入れ
た。
「どう?」
「・・・・・・驚いたでござる」
素直すぎる感想に、薫は笑って「似合うとか、そーゆーのはないわけ?」とまぜかえした。剣心は慌てふためいて弁解する。
「いや! すまない、そうではなくて・・・・・・しかし、初めて、見たから、その・・・・・・」
「わたしだって一応女の子なんですから、このくらいの芸当はできるんですよー」
おどける薫に、しかし剣心は真面目な顔で頷いて、薫の背後に膝をついた。
いつもは背中で揺れている長い髪が、つややかな流れを作ってふわりとまとめ上げられて。蝶のかんざしは彼女の黒髪を飾ることが誇らしいかのように
きらめいていた。普段は垂らしたリボンの陰から見え隠れしているうなじが露わになって、その細さと白さについ目が吸い寄せられる。
剣心は、鏡の中の薫の顔を改めてのぞきこんだ。
ただ、髪型を変えただけだというのに、それだけで彼女の顔がずいぶん大人びて見えるのが、驚きだった。
「よかった・・・・・・似合っているでござるよ」
「うん」
薫は鏡に映る剣心にむかって、えへへと照れくさげに笑いかけた。
「剣心、これ、どうもありがとう・・・・・・凄く嬉しい」
「うん」
「大切に使うからね」
「うん。でも、ちょっと、失敗したかも」
「え?」
似合うと言ったばかりの口から飛び出した否定的な言葉に、薫は眉をひそめた。すると剣心はおもむろに薫を後ろから抱きしめ、白いうなじに唇を押し当
てる。
「ここ、色気がありすぎる。あまり人に見せたくないでござるよ」
「・・・・・・ばか」
薫はくすくす笑ったが、剣心は真剣な顔で「いや、冗談ではなく」と大真面目に答えた。薫は首をかたむけて、そっと剣心に頬をすり寄せる。
あの「挙動不審」の所為で、色々どうしようもないことを考えてしまったけれど。
封じ込めようとしている不安が存在を主張してきて、暗い思いに囚われてしまったけれど。
でも、結局そのおかげで、彼から大切な言葉をもらうことができた。
贈ってもらったのは、このかんざしだけではない。剣心から、確かな「答え」を受け取った。
それは―――最高に幸福な贈り物。
「しかし薫殿、どうしてわかったのでござるか?」
首筋に口づけを落としながら、ふと剣心は不思議そうに呟いた。
落ち着かないのが態度に表れていたのは、まぁ気づかれても仕方ないとしても、何故、懐に箱を隠していたことまで看過されたのだろうか。
剣心が疑問に思って尋ねると、薫は彼の体温に酔いしれながら、そっと瞳を閉じて答えた。
「蝶が、教えてくれたのよ」
蝶の見る夢 了。
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