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        夢の中、暗くて狭い箱の中にいた。


        真っ暗で何も見えない、箱の中。
        身体を自由に動かせないのが、もどかしい。

        ここは暖かく居心地がよいけれど、動けないのは不満だ。
        ここは安心できる場所だとわかっているけれど、それでも―――







        ★







        「・・・・・・何なのかしら、あの夢」



        竹刀袋を肩に担いだ薫は、大通りを歩きながらひとりごちる。
        数日前から、毎晩同じ夢を見ている。真っ暗な箱の中に入っていて出られない、そんな夢だ。

        閉じ込められている夢なんて不吉な暗示のようであるが、何故か、そういう嫌な感じはしない。
        不思議な夢だとは感じても、悪夢という感じはしなかった。


        ただ、その場所が何処であるのかが気になった。
        確かに、よく知っている場所だと思うのだが―――


        「そういえば、同じ頃だわ」
        薫の小さな呟きは、賑やかなざわめきに溶けて消える。
        剣心の様子が何か変だ。そう気がついたのと同時に、あの夢を見るようになった。

        漠然と不安を抱いているから、あんな夢を見るのかしら。
        でも、それならそれで、もっと嫌な夢を見そうなものだけれど―――



        そんな事を考えながら歩いていると、人混みの中よく知る後ろ姿を見つけた。夢のことはぱっと頭の中から消えて、薫の唇が笑みの形になる。
        今日は剣心も街中に出てきているから、出稽古が終わった後、待ち合わせてふたりで帰る約束だった。まだ早い時間だから、どこかに寄り道するのも
        悪くないだろう。ひとまずは、剣心の挙動不審についても考えるのは休止することにして、彼に声をかけようとした、が。

        「けんし・・・・・・」
        声を途中で飲み込んで、横顔が見える距離で、足を止める。
        剣心は、薫がすぐ近くに駆け寄ってきたことに気づいていない。気づかないまま、彼はじいっと何かを見つめていた。
        薫は、剣心の視線の行方を追ってみる。その先にあったのは―――その先にいたのは、ひとりの女性。


        黒髪をつややかに結い上げた、薫より年上であろう、美しい女性だった。
        表情は優しげで、もの静かな雰囲気の、淑やかな―――


        「・・・・・・おろ? 薫殿?」
        薫は剣心に声をかけず、そのかわり肩がぶつかりそうな近い距離まで接近して、彼をずんずんと追い越した。剣心は追い越されてから数拍間をおいて
        から、大股に歩いてゆく薫の背中が自分の前にあることに漸く気づく。

        「ちょ、ちょっと薫殿、どうしたんでござる? どうして先に・・・・・・」
        「あのひと、剣心の知り合い?」
        「へ?」
        慌てて追いかけてきた剣心に、薫は足を止めないまま、いつもより早足で歩を進めながら訊いた。
        「わたしがすぐ近くにいることにも気づかないくらい、ずいぶん真剣に見つめていたみたいだけれど」
        「な」
        薫は、剣心の顔を見ずに、まっすぐ前を向いたまま言った。正面から顔を見なくても、剣心が狼狽えたのは気配でわかった。


        「いや! 薫殿誤解でござるよ、あの御婦人は知り合いでもなんでもなくて」
        「に、しては熱っぽい視線を送っていたようだけれど」
        「いやいやいや! そんなことないでござるよ! ただちょっと見ていただけで!」
        「あー、見ていたことは認めるんだ」
        「えーと、だから、見ていたといっても、それは・・・・・・」
        「・・・・・・やっぱり、ああいう感じの人がいいの?」
        「え? あの、薫殿それはどういう意味で・・・・・・」
        「・・・・・・知らないっ!」

        弁解の声を振り切るようにして、薫は更に歩く速度をあげる。
        袴の裾をばさばさと捌きながら、もう小走りといっていいくらいのスピードだ。



        普段なら、このくらいの事でここまでむきになったりはしない。
        しかし、ここ最近剣心の様子がおかしいことや、昨日の弥彦の台詞、そして「どうして剣心はこんなわたしを選んだのかしら」「わたしよりも彼に似合って
        いるのは、きっと・・・・・・」などという後ろ向きの感情が、思考を悪い方向へ悪い方向へと後押しする。
        剣心が、自分に気づかないほどあの綺麗な女性に目を奪われていたのが腹立たしい。そして、そのことに腹を立てている自分自身にも、薫は愛想が尽
        きる気分だった。


        ああもう、これくらいのことで嫉妬して、みっともなく苛立ったりして、わたしってどうしてこうなんだろう。どうしてもっと大人になれないんだろう。
        自分で自分に呆れているくらいだもの、きっと剣心はもっと―――



        そこで、内心の暗い呟きは中断させられた。がし、と肩をつかまれて、薫ははっと我に返る。       
        追いついた剣心は無理矢理に薫の歩みにブレーキをかけ、肩に乗せていた竹刀と防具の入った袋をひょいと取り上げた。


        「・・・・・・え?」


        肩が急に軽くなった、と思った途端、剣心が薫の空いた手をぎゅっと握った。
        そのまま、引っぱるようにして歩きだす。



        「や、やだちょっと剣心! 何するのっ!」
        薫の声には答えず、剣心は無言で歩を進める。握った手の力は強く、とてもじゃないが振りほどけそうにない。
        一気に顔が熱くなる。手をつないで歩くのはよくあることだけれど、流石にここまで大勢の人で溢れかえる、真っ昼間の街の真ん中の大通りで、というの
        は恥ずかしい。薫はすれ違う人々からの遠慮ない視線をいくつも感じ、俯いたまま顔を上げられなくなる。

        「・・・・・・剣心、離して」
        「離さない」
        「・・・・・・っ、恥ずかしいから、離してってば! みんな見てるじゃないっ!」
        「薫殿が、誤解を解いてくれるまで、離さない」
        困っているような、少し怒っているような、そんな声。薫は、ほんの少しだけ顔を上げた。
        引っぱられるようにして歩きながら、斜め後ろから彼の顔を見る。その頬が僅かに赤くなっているのがわかる。
        それはそうだ、こんな場所で堂々とこんなことをして、恥ずかしいのは剣心だって同じ筈だ。

        「・・・・・・どういう意味よ」
        「だから、誤解しているでござるよ。薫殿の思っているような意味で見ていたわけではないでござるから。絶対違うから」
        ―――誤解。
        つまりは「別に見とれていたわけではない」と言いたいのだろうが、じゃあいっそ「見てなんかいない」と適当な嘘でもつけばいいのに。
        薫は、剣心の不器用な正直さに、少しだけ眉間から険しさを消した。だけど。

        「・・・・・・それでも、嫌だもん」
        剣心は、足を止めて振り返った。薫はまだ赤い頬のまま、上目づかいに彼のことを見る。



        「わたしがそばにいるときくらい・・・・・・わたしの事見ててくれなきゃ、嫌なんだもん」



        それは、素直な気持ちだった。素直に、わがままを口にした。
        子供じみた我侭だと承知のうえで、でも言わずにはいられなかったのは、不安だったからだ。

        だって、どうしても、考えずにいるなんて無理なんだもの。
        剣心の隣にいるのが似合っているのは―――わたしよりも、巴さんなんじゃないかしら、って。
        ほんとは、ずっとずっとそう思っていたんだもの。あなたから、彼女の話を聞いたときから、ずっと。


        それでも、わたしは今、あなたのことが大好きだから。あなたが、わたしの手をとってくれたから。
        それを信じて、あなたと一緒の人生を歩き始めたのだけれど―――でも、それでも時折わたしの中で、不安は頭をもたげてその存在を主張する。ちょう
        ど、今のように。

        あなたの目がこちらを向いていてくれないと、その不安に押しつぶされそうになる。もっともっと、黒い気持ちでいっぱいになってしまう。
        だから―――お願いだから、今はわたしを見ていてほしい。



        と、まじまじと薫の顔を見ていた剣心が、不意に深いため息をついた。
        ああ、もっと呆れられちゃった、仕方ないよねほんと子供みたいだもの―――と、薫はまたしても自己嫌悪の泥沼に飲み込まれそうになったが、剣心の
        口から発せられたのは、まるで正反対の言葉だった。



        「・・・・・・まったく、どうしてそう可愛いことを言うでござるかなぁ・・・・・・薫殿は」



        呟くような声だったが、それは周囲のざわめきに消される事なく、しっかりと薫の耳に届いた。
        思いがけない台詞に、薫は虚をつかれて言葉を失う。それと同時に、自分の中を占拠していた黒雲のような重い気持ちが、ふっと軽くなったのを感じ
        た。ただ一言の台詞が、こんなにも嬉しく暖かく響く。そんな自分の単純さに、薫は我ながら呆れる思いだった。

        でも、それは仕方がないのだろう。
        結局わたしはどうしようもなく、このひとのことが好きなんだもの。
        だから、ほんの少しの変化で不安をかきたてられたり、たったひとことで泣き出しそうなくらい嬉しくなったりするのは―――きっと、仕方がないことな
        んだろう。



        薫は、僅かに腕から力を抜いた。
        引っぱられながら歩くのをやめて、剣心の隣に添うようにして、いつものように歩調をあわせる。


        「・・・・・・ねぇ、剣心」
        「おろ?」
        「嫌だったけど、わたしの誤解だったってことは、わかったから。信じるから」
        「・・・・・・うん、ありがとうでござる」
        「だから、これ離して? 剣心だって恥ずかしいでしょ」
        剣心は、繋いだままの手にちらりと目を走らせて、きつく握っていた指をゆるめた。しかし、今度はその指を薫のそれに絡めるようにして、更にしっかりと
        繋ぎ直す。

        「いや、せっかくだから、このままで」
        「・・・・・・っ、馬鹿っ!」


        抗議の声も意に介さず、剣心は握った手を離そうとはしなかった。
        痛くはないけれど、それでも、振りほどけないくらいに力のこもった指に、薫は諦めて彼の手を握り返す。

        大きくて暖かい、剣心の手。重苦しかった気持ちは、さっきまでに比べるとだいぶ楽になった。
        わがままを、受けとめてくれた剣心。それなら、いっそ思い切ってと、薫はもう一歩踏み込むことを決意する。






        「・・・・・・ねぇ、剣心」
        「おろ?」
        「剣心は、どうして・・・・・・わたしと一緒になったの?」
















        3 に続く。