夢の中、暗くて狭い箱の中にいた。
真っ暗で、何も見えない。
だけど、どうしてだろう。自分が小さな箱に入れられていることはわかっていた。
そして、何故かそこは居心地がよかった。
何故か、安心できる場所だった。
どうしてかはわからないけど―――そこは自分の「よく知っている場所」であると。その事は、よくわかっていた。
蝶の見る夢
1
―――かこん。
帯締めを解く。帯が身体の線に沿って、畳の上に落ちる。
―――かこん。
花の柄が入った着物を脱ぐ。胸にきっちりきつく晒しを巻く。
―――かこん。
白い胴着を羽織り、腰紐を、こちらもきっちりと結ぶ。
―――。
帯を結んで、袴に足を通す。
「・・・・・・やだ、またかしら」
袴の紐を結びながら、薫は呟いた。
着替えをしながらなんとなく聴いていた、乾いた小気味よい音。それは途中までは一定の速さで繰り返されていたのだが、それがだんだんと、音と音と
の間隔が長くなり、やがては聞こえなくなってしまった。
普段着から剣の胴着に着替えた薫は、部屋を出て、音のしていたほう―――庭へと向かう。
案の定、庭には先程まで薪割りをしていたであろう剣心の姿があった。
鉈を手にして、片膝を地面について、「薪割りをしていた」というよりは、「薪割りの途中に手を止めてそのまま固まってしまった」という姿勢である。
「・・・・・・剣心?」
薫が声をかけると、はっとしたように剣心は顔を上げて振り向いた。
「おろ、薫殿。どうかしたのでござるか?」
「わたしはどうもしないんだけれど・・・・・・剣心、大丈夫?」
「え?」
「変な感じに音が止まっちゃったから、気になって・・・・・・薪割りの途中にぼーっとしたら、危ないわよ」
剣心は、薫にそう言われてはじめて、自分の手が止まっていたことに気づいたようだった。はっとしたように鉈を置いて、散らばっている薪を集め始める。
「いや、すまない・・・・・・少し考え事をしていて。今日はここまでにしておくでござるよ」
「考え事って?」
さらりと訊いてみると、剣心はじっと薫の目を見つめた。
そして、何かを答えようと口を開きかけて―――いちど閉じて、それから「たいしたことじゃないでござる」と笑った。
途中で、「何か」を口にするのを止めたのは、明らかだった。
薫は「またか」と思って、心の中で首を傾げる。
ここ数日の彼は―――なんだろう、度々こんな感じなのである。
★
「・・・・・・最近、何か剣心、変じゃない?」
稽古の後、井戸端で豪快に顔を洗って汗を流す弥彦に、薫はやや声を潜めつつ尋ねた。
「変って? 何が?」
顔だけでは物足りないのか、ついでに屈んで頭にも桶から水をかぶりながら、弥彦が尋ね返す。
「ああもう、こっちに水飛ばさないでよ・・・・・・んー、なんか、隠し事でもしてるような感じ、しない?」
「隠し事?」
「言いたいことがあるんだけど言えない、みたいな・・・・・・何か考え込んでいることが多いっていうか・・・・・・うまく言えないんだけど、なんか変なのよ」
「なんだそりゃ。俺は気づかなかったけどな」
ぶるぶると濡れた子犬のように頭を振って水滴を飛ばす弥彦に、薫は「だから、こっちに飛ばさないでってば!」と手ぬぐいを押しつけた。
「なんか、端々で感じるのよね。喋っているときの視線とかがちょっと違う感じがしたり。ぼーっと考え込んで、何か言いかけて途中でやめたり、とか」
「そんな細かい違い、俺がわかるわけねーだろ。それじゃあ訊いてみりゃいいじゃん。何か言いたいことあるのか、って」
「訊いてみたわよ。でも、何でもない、たいしたことないって、かわされちゃうんだもん」
「じゃあ、何でもないんだろ」
「んんんー、でも、やっぱり何か違う感じがするのよねぇ」
釈然としない顔で薫が首をひねる。濡れた頭と顔を拭いながら、弥彦は「薫がそう感じるのなら本当に何か隠しているのかもな」、と思った。
自分の目からは剣心はごく普段どおりに見えるが、こと夫のこととなると、薫の勘は鋭い。
「そうだなぁ、男が妻にする隠し事っていえば、浮気だろうけど」
弥彦は自分の師匠からふっと殺気が発せられるのを感じて、素早く防御の体勢をとる。「子供が何生意気言ってるの!」と怒りの鉄拳が飛んでくる前
に、「ま、剣心に限っては、それは絶対にねーな」と弥彦は前言を撤回した。
「お前がいるのに、剣心がそんな事するわけない」
きっぱりと、真剣な顔で断言する弥彦に、薫はふにゃーと表情を崩して振り上げかけた拳を下ろした。
「や、やだ弥彦、あんた随分いいこと言うじゃない」
「だって、お前みてーな色々と難のある女を嫁にするような物好きだぞ? そんな悪趣味な奴の好みに合う女が、お前以外にそうそういる訳が・・・・・・」
実のところ、弥彦はかなり真面目に自分の考えを述べたつもりだったのだが、全部言い終わる前に薫の拳が頭に降ってきて、強制的に黙らされた。
★
「あーもう! 弥彦の大馬鹿者っ!」
薫にみっちり灸を据えられた弥彦は、「そーゆーところが難ありって言ってんだ! ブス!」と言い捨てて道場を後にした。最後の一言に対する報復を出
来ずに、逃がしてしまったのがなんとも口惜しい。
まだ怒りの静まらない薫は、ひとり縁側に座り、小さく呟いた。
「・・・・・・そんなの、言われなくてもわかってるわよ」
そう、自分の事なのだから、そんなこと改めて言われなくてもわかっている。
何せ、子供の頃からずっとお転婆だとか男勝りとか言われ続けて育ってきたのだ。自覚くらいある。
持って生まれた気性もあるだろうけれど、幼い頃から男の子と一緒になって剣術三昧の毎日を過ごしてきたのだ。女の子としては多少規格外な娘が出
来上がったのは致し方あるまい。
いくら女らしくないとか可愛げがないとか言われても、今更どうすることもできないと諦めているし、そんな自分の性質を引け目に感じているわけでもな
い。そりゃ、反省することは度々あるけれど。
しかし、薫は今回ばかりは弥彦の台詞を聞き流すことはできなかった。
弥彦は剣心のことを悪趣味と評した。けれど―――
別に、剣心はわたしのお転婆で男勝りなところが特別好みだからという理由で、わたしを選んでくれたわけでもないだろう。だって。
「巴さんは、そうじゃなかったもんね。きっと」
彼が、生涯を共にするはずだった女性。
薫は、巴のことを知らない。でも、剣心の昔語りから察するに、自分のようなお転婆で男勝りな女性とは到底思えない。
彼の話から窺える巴は、もの静かで女らしい、大人びた美しい女性だ。きっと自分とは、まったく似ていない。
薫は、つまさきを縁側に乗せて、紺袴の膝を抱え込んだ。
「どうして、わたしだったんだろ・・・・・・」
どうして、巴さんとは似ても似つかないわたしのことを、剣心は好きになったんだろう。
・・・・・・わかっている。そんなのはまったく意味のない疑問だ。
だって、わたしも「どうして剣心のことが好きなのか」と問われたら、答えるのに困るもの。
彼の好きなところはいっぱいいっぱいあるけれど、きっとそんなのは、どれも後付けみたいなものだ。
気がついたら、どうしようもなく好きになっていた、ただそれだけ。きっと、理由なんてない。
だから、一緒に過ごしているうちに、剣心もそんなふうにわたしのことを好きになってくれたのかなぁ、なんて思っていたのだけれど、でも。
それでも、時折ふと考えてしまう。
剣心の隣にいるのが似合っているのは、わたしよりも、彼女のほうなのではないのだろうか、と。
それこそ、意味のない想像だと、わかってはいるのだけれど―――
2 に続く。