稽古をしなくちゃ身体がなまる―――と、思ったものの、考えてみれば、今わたしは剣心の身体に入ってるわけで。
でも、だからこそわたしは、剣心の部屋に向かった。
彼は部屋にいなかったけれど、刀掛けには逆刃刀があった。
手に、とってみる。
・・・・・・軽い。
いや、勿論刀なんだからそれなりにずっしりとした重さはあるんだけれど、それでもわたしがいつもの身体で持ったときに比べて、格段に軽く感じる。
なんかちょっと、感動してしまった。これが、男の人の身体、男の人の腕力なんだわ。
逆刃刀を拝借して、道場に向かう。
広い空間で、刀を腰にさして。見よう見まねで、姿勢を低くする。
鞘に手をかける。
あ、なんだか馴染む感じ。剣心の手だと、こんな感じなのね。
柄を握る。
鯉口を切り、抜刀する。
―――逆刃が、空を斬った。
う、うわわわわわ。
・・・・・・す、凄い!
凄い凄い凄い!今なんかぞくっとした!
適当にやってみた抜刀術だけれど・・・・・・なんというか、わたしが竹刀を振るのとは全然違う!
速さも、刀にこもる力も、わたしの身体じゃ絶対にできない―――
これが、飛天御剣流なんだ。これが、剣心のふるう剣なんだ。
どきどきしながら、逆刃刀を鞘に戻す(これは、残念ながら剣心みたいに格好良くはできなかった)。そして改めて、手のひらに目を落とした。
剣心の手、男のひとにしては小さいほうなのかもしれないけれど、わたしの手よりはずっと大きくて、頼もしい手。
手を繋いだり、頭を撫でてもらったりするたび、この手が大好きだなぁと何度も思った手。
今、自分がその手の持ち主になってみて、ますますこの手の頼もしさが実感できたような気がする。
大きいだけじゃなくて、力の入る具合が全然違う。骨も筋肉も、わたしのものとは全然つくりが違うのが、感覚的にわかる。
ううん、手に限ったことじゃなくて、それはこの身体全体に言えることで。
剣心は、男性としては小柄で細身だけれど、彼の身体に入っている今は、わかる―――感じられる。
骨を支える、鍛えられた筋肉。普段の、わたしの身体にはない厚み。
まるで、しなやかな甲冑をまとっているような頼もしさ。
・・・・・・これが、男のひとの―――剣心の身体。
ああ、このひとの腕にいつもわたしは守られているんだなぁと思うと、大変感慨深い。けれど、ちょっとうらやましくもある。
基本的な身体のつくりが、男と女じゃこれだけ違うわけなんだから・・・・・・うーん、やっぱり女性は武術で戦う上で、どうしようもなく不利ってことよね。
いや、だからこそ不利なぶん日々の研鑽が大事なんだけれど―――などと呟いていたら、がしゃんと、何か物が落ちるような音がした。
・・・・・・剣心?
どうしたのだろう、と思いながら、わたしは道場を飛び出した。
★
「・・・・・・やってしまったでござるよ・・・・・・」
庭には、沈痛な面持ちでうなだれる、わたしの姿をした剣心がいた。
着物の裾にはほんの少し土がついていて、地面には、これから洗うつもりだったのだろう洗濯物が散らばっている。何が起きたのか、一目でわかる状況
だ。
「やだ、転んじゃったのね。大丈夫?」
「大丈夫じゃないでござるよ!!!」
軽い調子で声をかけたら、悲痛な叫びが返ってきてびっくりした。目を白黒させているわたしに、剣心は暗い顔で右手を差し出して見せた。
転んだ際に、咄嗟に手をついたのだろう。てのひらの、親指の下あたりに、小さな擦り傷ができている。あ、ちょっと痛そう恵さんから貰った軟膏塗ってあげ
なきゃ―――
「・・・・・・すまないでござる・・・・・・」
謝られた意味がわからず、きょとんとする。
「薫殿の身体に、傷をつけてしまった」
・・・・・・ああ、そうか。入れ替わっているんだから、わたしが怪我をしたことになるのよね。でも、
「大丈夫よー、こんなかすり傷、すぐに治っちゃうでしょ気にしないで!」
本心からそう言ったのだけれど、剣心の表情はますます暗くなる。なんとなく、去年の五月を思い出した。うーん、剣心が京都に行っちゃった直後のわたし
って、こんな顔だったのかしら。そりゃ妙さんや燕ちゃんに心配かけるはずだわ、こんなこの世の終わりみたいな顔してたなら。
「ねぇ・・・・・・剣心、ほんとに、気にしないでよ」
そう繰り返しても、彼からの返事はない。それほどに、わたしの身体に傷をつくってしまったことに落ち込んでいるらしい。
ひとつ、ため息をついて、わたしは剣心を抱き寄せた。
普段こういうことをするときは、よいしょと腕を伸ばして抱え込むのだけれど、今は身体が逆である。
わたしと剣心、さほど体格差はないようでいて―――でもやっぱり、彼に比べるとわたしはこんなに小さくて細いんだなぁ、と。改めて実感した。
「・・・・・・薫殿」
「なぁに?」
「・・・・・・これ、逆のほうがいいでござる」
・・・・・・うん、その気持ちは痛いほどわかるんだけどね。
わたしだって、剣心にぎゅっとされて包んでもらうほうが、落ち着くわ。
★
剣心は、いつも彼がそうしているとおり、庭で洗濯をしようとしたらしい。
しかし、いつもと身体の感覚が違う所為で、洗濯物を抱えて庭に出たところで、歩幅のとり方を誤って均衡を崩し、すってーんと転んでしまったそうだ。
身体の感覚が異なるゆえの違和感は、わたしも実感しているところだし―――剣心にしてみれば、細っこい手足も窮屈な着物のきゅっと狭まった裾も、扱
いづらいことこの上ないのだろう。転んでしまったのも、無理はないと思う。
「・・・・・・女性というものは、凄いでござるな」
わたしの姿をした剣心が、わたしの声でしみじみと言う。
現在わたしは彼に代わって洗濯の真っ最中で、剣心は傍らでその様子を眺めているところだ。
「えー?凄いって、何が?」
「こんな華奢な身体で生きているのだから・・・・・・凄いでござるよ」
「なによそれー・・・・・・大袈裟でござるなぁ」
ちょっと剣心の語尾を真似て、おどけたように答えてみせる。だって実際、わたしだけじゃなく世の女性の皆さんはこんなふうな身体をもって、しっかり日々
を生きているわけなんだから。
「薫殿はそう言うが・・・・・・実際、この身体になってみて驚いたでござるよ。拙者が思っていたよりもずっと脆そうで・・・・・・動かすのが怖いくらいだ」
剣心がわたしの身体になって感じたのは、身体を覆う筋肉の薄さと柔らかさ、骨の細さ。
喉を通る空気の、呼吸の感じとかもか細くて、手首も足首も頼りなくて、下手に動かし方を誤ったら壊してしまうんじゃないか―――と。
とにかく、女性の身体の華奢な作りを体感している彼は、恐々わたしの身体を動かしているらしい。もしかして、それが却ってアダになって転んじゃったん
じゃないかしら―――とも思ったけれど、それを言ったら彼はますます落ち込むことだろうから、黙っていることにする。
「だから、わたしにとってはその身体が普通なんだってば・・・・・・まぁ、気持ちは解るけれど。わたしは逆に、男のひとって凄いなぁって思ったし」
現に今もこうして、洗濯をするのが楽なことといったら!
洗うのも絞るのも、洗濯って結構な重労働なのよね。大抵のお宅は女性が―――つまり奥さんが洗濯をしているわけだけれど、これって絶対に腕力のあ
る男性がした方が、効率のよい家事だと思うわ。
「いや・・・・・・それでもやっぱり、女性のほうが凄いでござるよ。薫殿だって、こんな脆そうなつくりなのにあれだけの剣を振るえて、道場の看板を背負って
いるのだから」
「背負えているのは、わたしだけの力じゃなくて・・・・・・剣心がいるから、やっていけてると思うんだけど」
褒められるのは単純に嬉しくて、頬がほころんでしまう。でも、現在こうして道場を続けていられるのは、間違いなく剣心がいるからだ。日常のいろんな面
で剣心の助けがあるからこそ、わたしは門下生たちにのびのびと剣を教えることができるんだもの。
そういう意味では、剣心に出逢う前のわたしは、ほんとに強がっていたんだと思う。
女だからって、馬鹿にされちゃダメだとか、舐められたくないとか、無意識のうちにそう考えて、身構えていた。
けれど―――そうやって力むのをやめてからは、なんだか色々楽になった。門下生が増え始めたのもそれからのことで―――うん、剣心と夫婦になって
からのことで。
「やっぱり、薫殿は強いでござるな」
「・・・・・・そう言われるのは嬉しいんだけれど、どこをどうしたらそういう結論になるわけ?」
「考え方が柔軟だからでござるよ。強くなければ、柔軟にはなれない」
「んー、そういうものなのかしら・・・・・・」
「そういう事も含めて・・・・・・こんな華奢な身体に、強い心を持っているのが、凄いでござるよ」
いい加減、恥ずかしいのが嬉しいを凌駕してきて、顔に血がのぼってきたのがわかる。面映さにむずむずして、洗濯物を揉む手の速度が上がる。
「・・・・・・いや、ちょっと待つでござる。考えてみると・・・・・・薫殿は、いずれ子供を産むんでござるよな?!」
「え?!って、どうしたの突然?! えーと、そりゃ、そのうち産むことになるんでしょうけれど・・・・・・」
先程の、玄関先での弥彦とのやりとりを思い出して、ますます頬が熱くなる。しかし剣心は、きっと近い未来訪れるであろうその出来事に対し、何故か顔
を青くしている。
「大丈夫なんでござるか?!こんな細い身体でそんなことをして、壊れたりしないんでござるか?!心配でござるよ!」
「だーかーらー!それは世の女性の皆さんがそうなんだってば!女性っていうのはそういうものなの!剣心だってお母さんがお腹を痛めて産んでくれたん
でしょう?!」
身体が入れ替わって、女性の身体の華奢な感覚を身を持って知った剣心は、そんな事までもが不安になってしまったらしい。いや、心配してくれるのはあ
りがたいし、お産が女性の一大事なのも確かなんだけれど―――
「いや、それにしても薫殿がこんな細い身体で痛い思いをするのは嫌でござるよ。代われるものなら拙者が代わりたいくらいだ」
いやいやいやちょっと待って。なんだかやたらと真剣な面持ちでぶつぶつ言い始めたけれど、入れ替わっている今の状況でその台詞は洒落にならないよ
うな気がするんですけど―――でも。
「わたしこそ嫌よ!剣心の赤ちゃんを産むのはわたしよ!誰にも譲れません!」
・・・・・・きっぱり大声で言い切ってから、なんだかとんでもなく恥ずかしい台詞を吐いてしまったような気がして、顔を覆いたくなった(でも洗濯中だから無理
だった)
だけど剣心は、わたしの宣言にいたく感銘を受けたらしい。驚いたように目を丸くして―――そして、桜色の着物の袖で、わたしの肩をふわりと包んだ。
「・・・・・・ありがとう」
「え、えっと・・・・・・別にわたしは、お礼を言われるようなことは・・・・・・」
「凄く、凄く嬉しいでござるよ」
耳をくすぐる声は、高い響きをもつ、わたしの声。
けれども一瞬、剣心の低くて優しい声で、そう囁かれたように感じた。
恥ずかしい発言だったけれど、今のは紛うことなき本心だった。
―――ああ、そうか。今のを、嬉しいと思ってくれるんだ。
早く、剣心の赤ちゃんがほしいな、と。
わたしは改めて、そう思った。
そして申し訳ないことだけれど、ぎゅっとしてもらうならやっぱり剣心の身体がいいなぁ、と。
改めて、そうも思った。
3 へ続く。