いつもどおりの、朝が来た。
自分の部屋の布団のなかで目覚めた剣心は、見慣れた天井を目にして「ああ、帰ってきたのだな」と思った。
ほんの数日前までは、落人群の地べたに座り込んで昼夜の変化すら意識できない壊れた日々を送っていた。その状態から立ち直ることはできたものの、
廃人同様の有様でいた反動でしばらくは診療所の寝台の世話になり、そこから目覚めるとすぐさま船で孤島に赴いて―――そして、拉致されていた薫を
取り返してこの家に戻ってきたのが、昨日のことである。
つまりは、久しぶりに神谷道場で迎えた朝だ。それを「いつもの朝」と感じて、「帰ってきた」とごく自然に思えた。
多分、こういうふうに感情が動くのは良い傾向なのだろう。心の中でつぶやくと同時に面はゆさがこみ上げてきて、剣心は口許をほころばせた。
ふと、廊下に人の気配を感じて、枕に預けた首をそちらに倒す。
「・・・・・・薫殿?」
おそらく彼女であろうと見当をつけて声をかけてみる。襖がするりと開き、「おはよう!」の明るい声が部屋に響いた。
朝、目が覚めて最初に会えるのが好きなひと。しかも輝くばかりの笑顔つきというのだから、なんと贅沢なことか―――しみじみと感慨に浸る剣心に、薫は
「あ、もしかしてまだ寝てた?」と慌てたように言う。
「いや、もう起きてたでござるよ。おはよう」
挨拶を返しながら身体を起こそうとすると、傍らに膝をついた薫が手を貸してくれた。負傷しているとはいえ、ひとりで動けないほど酷い傷でもなかったが、
その気持ちが嬉しくて素直に甘えることにする。
―――と、支えられながら至近距離で薫の顔を見た剣心は、おや、と思った。
そのまま、半ば反射的に、彼女の頬に指をのばす。
「・・・・・・え?!ちょ、ちょっと剣心っ?!何っ?!」
突然頬に触れられて、薫は驚きにびくっと震えて身をすくめる。
「あ、ああ、すまない。顔が赤いから、熱でもあるのかと思っ・・・・・・て・・・・・・」
驚かれるのも無理はない。
ふたりきりの部屋で、ぴったり寄り添ったこの姿勢で、手のひらで頬を包みこんで。
あと少し、ほんの少し距離を縮めれば、口づけを交わせそうなほどの近さで。
今更ながらそれに気づいて、剣心はもう一度「・・・・・・すまないでござる」と謝罪しつつ、指を引っ込める。
「あの、でも薫殿、本当に拙者今のに他意はなくて、だからその・・・・・・」
「う、ううんいいのいいの大丈夫!わたしもついびっくりしちゃって・・・・・・えーとね、熱があるわけじゃないから大丈夫だからっ!」
言い切る声は確かに元気いっぱいだったので、剣心はひとまず安心する。というか、今やふたりとも見事に真っ赤な顔になっていたが、これはうっかり接
近しすぎたことが原因である。
「えっと、顔が赤かったのは熱があるんじゃなくて・・・・・・さっきまで素振りをしてたからじゃないかしら」
「すぶり?」
「うん、久しぶりだったから、つい気合いが入っちゃって」
「え、でも・・・・・・この時間からでござるか?」
目を丸くする剣心に、薫は恥ずかしそうに首を縮こまらせつつ、頷いた。
薫にしても、久しぶりに我が家で迎えた朝だった。
ここしばらく、薫は孤島に軟禁状態という囚われの身だったが、幸いどこに怪我をすることもなく、身体的にも精神的にも傷ひとつ負わずに帰ってくること
ができた。しかし、あれだけの事件が解決した直後なのである。
「今日は操ちゃんもいるし、恵さんも燕ちゃんもこの時間から来てくれてるし、みんな『今朝くらいは休んでなさい』って言ってくれて・・・・・・」
朝食の支度は任せろと言われて、薫はありがたく厚意に甘えることにした。が、昨夜は遅くまで剣心と話し込んでしまったのにもかかわらず、今朝はいつ
もより早く目が覚めてしまった。おそらくは久しぶりに帰ってこられたという嬉しさが、無意識のうちに目覚めを促したのだろう。普段よりすっきりぱっちり覚
醒した薫は、さて、朝食は任せてしまったしどうしようと思い―――
「それで、この時間から道場へ?」
「だって、しばらくまともに稽古してなかったんだもの。あんまりさぼったら父さんに怒られちゃうわ。あ、でもこのこと操ちゃんたちには内緒ね!きっと呆れ
られるだろうから」
・・・・・・ああ、そうか。
先程自分も「いつもどおりの朝」と思ったけれど、彼女にとっては、それこそが「いつもの日常に帰ってきた」ということなんだろう。
子供の頃からそうしてきたように、いつもどおりに道場で竹刀を振るう。毎日繰り返してきた鍛錬を行うことで、薫は普段の生活に戻れたことを、より実感で
きたに違いない。
剣心は、薫にはじめて出逢った夜のことを思い返す。
若い女性の身で毎晩夜廻りをしていた薫は、流派の汚名をそそごうと躍起になっていた。危険をかえりみずに無茶をする彼女に「亡き父上殿も、娘の命を
代償にしてまで流儀を守ることを望んだりはしない」と説いたものだったが、今になって剣心は、薫の父親が彼女に「剣術」を遺したことに感謝したい気持ち
になった。
父ひとり子ひとりで生きてきた家族である。それが突然、父親が帰らぬひととなった。薫は気丈な娘とはいえ、肉親を失った悲しみと独りになった不安はい
かばかりだったろう。
そんな彼女の支えになったのが、剣術だったのだ。
跡取りとして、父親の遺した流派と道場をしっかり守っていかなくては。そう思うことで、薫は自分を奮い立たせたに違いない。
「父上殿は、薫殿に剣術を教えてよかったと―――そう、思っているでござろうな」
「・・・・・・そうかしら?」
「うん、きっと今の薫殿を見たら、たいそう喜ぶでござるよ」
薫はその言葉にくすぐったそうに微笑むと、「それなら、剣心のご両親だって喜んでいると思うわ」と返した。
「え?」
唐突に、自分の親についての話をふられ、剣心はきょとんとする。
「飛天御剣流の師匠は比古さんだけど、剣心のお父さんも、剣術に熱心なひとなんでしょう?」
「あ、いや、それは・・・・・・え?どうしてそう思うんでござる?」
何故ここで、自分の父親の話題が出てくるのだろうか。不思議に思い、首を傾げて問い返す。
「だって、子供に『剣の心』って名前をつけるくらいだもの、お父さんも剣に対して真摯なひとなんじゃないの?だから、剣心が人を守るための剣をふるって
いること、きっと誇りに思っているわよ」
「・・・・・・ああ、そうか。成程、そうでござるよな」
合点がいって、剣心は大きく頷いた。確かに、剣術に対して思い入れのある親でなければ、我が子の名前に「剣」の字を入れたりはしないだろう。薫がそう
考えたのは、むしろ当然のことだ。しかしながら、彼女は勘違いをしている。
「違うでござるよ。拙者の名前は、師匠がつけたものでござるから」
さらりと事実を口にしたが、今度は薫がきょとんとする。
意味が飲み込めず「え?それって・・・・・・」と首を傾げ、いくばくかの間の後―――驚きに大きく目を見開いた。
「ええっ?!比古さんって、剣心の実のお父さんなの?!」
更に斜め上の方向に勘違いされてしまい、「それも違うでござる!!!」と神速で強く否定する。
「剣心というのは、拙者が師匠に拾われたときに、新しくつけられた名前なんでござるよ」
ますます意味がわからず、薫は目をしばたたかせる。そういえば彼女のこの話をしたことはなかったと思い、剣心は順を追って説明をすることにした。す
なわち、実の両親を亡くしたところからだ。
幼いとき、父親と母親が虎狼痢で亡くなったこと。その後、人買いの手に渡ったこと。
野盗に襲われ九死に一生を得たこと。助けたのは、誰あろう比古だったこと。
それをきっかけに、比古のもとで修行の日々が始まって―――
そうして「心太」は「剣心」という新しい名前で呼ばれるようになって、現在に至る。
「師匠がつけた名前、というのはそういう経緯があったからで・・・・・・決して、師匠は実の父親などではないでござるよ」
剣心にしてみるとかなりぞっとしない勘違いだったので、そこはしっかり重ねて否定する。
だいたい、師匠が父親だなんて年齢的にも無理があるではないか。いや、ごくごく若いうちに作った子供だとしたら有り得る年齢差であろうか。しかしそう
なると余計にぞっとしない話なわけで―――そんなことをつらつらと考えてた剣心は、ふと、布団の傍らに座る薫の顔を見て、ぎょっとした。
つい先程の、おはようと言いながら襖を開けたときのきらきらした笑顔。
その笑顔がみるみるうちに曇って、悲しげな、暗く沈んだ表情へと変わる。
・・・・・・しまった。
これは、あの時と同じだ。
幕末の、巴にまつわる過去を告白したときと、そっくり同じ流れではないか。
今の昔話は、師匠に助けられて無事だったという結末ではあるが、それでも明るさや楽しさからはほど遠い内容だった。
そんな話を聞かされて、優しい彼女がどう感じるのか。少し考えればわかることだったのに―――
後悔の念がわきあがったが、一度口にした言葉を消し去ることはできない。剣心は自分の迂闊さを呪いながら、薫に向かって勢いよく頭を垂れた。
「・・・・・・ごめん!」
「・・・・・・ごめんなさい!」
謝罪の言葉は、綺麗にそろった二重奏となった。
「「・・・・・・え?」」
今度は、疑問符が重なる。
剣心が頭を上げると、薫も同じ動作をするところだった。ふたりは同時に謝罪をし、同時に頭を下げあっていたらしい。
「どうして、薫殿が謝るのでござる?」
「なんで剣心が謝るの?」
投げ合う質問もこれまた同じで、可笑しくなってふたりの口元がすこし緩む。「いやいや」「どうぞ」とひとしきり譲り合ったのち、「それじゃあ」と薫のほうから
謝罪の理由を口にする。
「だって、今わたし自分でもわかるくらい、ものすごく暗い顔しちゃったんだもの。剣心は昔の話をしてくれただけなのに、こんな反応するなんてあんまりだ
と思って・・・・・・ごめんね、朝からこんな景気の悪い顔を見せちゃって」
また恵さんに怒られちゃうわーと、おどけたように笑ってみせる薫に、しかし剣心は「いや!薫殿は何も悪くないでござるよ!」と躍起になって否定する。
「悪いのは拙者の方でござる。拙者にしてみれば何でもない話だったから、つい・・・・・・よくよく考えれば、朝飯前にするような話ではなかったでござる、す
まなかった」
「何でもない話って、そんな・・・・・・」
言うか言うまいか、少し躊躇ったのち、薫は思い切ったふうに口を開く。
「あのね、わたしが今、くらーい顔になっちゃったのは、剣心の話に驚いたこともあるんだけど・・・・・・それだけじゃないの。自己嫌悪で落ち込んじゃったか
らなのよ」
「自己嫌悪?」
「うん、だってわたし、剣心が今の話をしてくれたことを・・・・・・一瞬、嬉しいって思っちゃったんだもん」
「嬉しい・・・・・・でござるか?」
予想していなかった言葉に、剣心は目を白黒させる。
いったい今の話のどこで「嬉しい」と思えるのだろうか。それが単純に不思議で、つい聞き返してしまう。
「この話、弥彦とか左之助には、していないんでしょう?」
「うん、そうでござるな。今薫殿に話したのがはじめてでござるよ」
「そのことがね、嬉しかったの」
名付けの話をきっかけに、昔話を始めた剣心。
それは今まで、彼が誰にも話していない―――少なくとも仲間内には語っていない昔話だ。あの時、幕末にさかのぼる長い長い話を聞いた面々も、まだ
知らない過去の話である。
「剣心がみんなに話していない昔のことを、これからわたしだけに教えてくれるんだと思って・・・・・・それで、つい『嬉しいな』って思っちゃったのよ」
ふたりだけの秘密の話が始まると思い、甘やかな特別感に薫の胸は高鳴った。
しかし、いざ聞かされた昔話はときめきとは程遠い、思いがけず苛烈で悲しいものだった。
嬉しい気持ちはまたたく間に雲散霧消して―――かわりに頭をもたげたのは、自己嫌悪だった。
「剣心が昔、すごく大変な目に遭っていたことも知らないで、わたし、そんな浮かれたこと考えちゃったのよ・・・・・・ごめんなさい」
かくんと項垂れる薫に、剣心は慌てて再び首を横に振る。
「い、いやいやいや!そんな、薫殿が謝ることなんて全然ないでござるよ!今の名前になったいきさつは、別に秘密にしていたわけでもないし!」
「え・・・・・・そうなの?」
「ああ、ただ単に、これまで話す機会がなかっただけでござるよ」
剣心としては「あまりに辛い思い出だから話したくなかった」という訳では全然なくて―――それこそ先程のように名前の由来が話題にのぼることがあれ
ば、それをきっかけに普通に話していたことだろう。だから薫が自己嫌悪に陥る必要など、どこにもないのだ。
だいたい、彼女が落ち込んだ理由は自己嫌悪だけではないだろう。
薫は自覚していないかもしれないが、あの悲しげな表情は俺の過去に胸を痛めてくれたが故だ。そうやって当然のように誰かのために泣いたり怒ったり
笑ったりして、自分のことのように親身になって心を寄せて―――君はやっぱり優しい人だなぁと思う。そして、そんなところがとてもとても好きだなぁと再
確認して、胸の奥を甘く引っかかれたような気持ちになる。
でも、こんなふうに昔話が原因で君が悲しむ姿は、もう見たくない。
この街に来て新しい仲間が出来てからも、誰にも話していなかった俺の「秘密」。
それは、かつて一生を共にする筈だったひとを、この手で殺したことだった。
君が好きだからこそ、いつか君には打ち明けなくてはと思っていた。
でも臆病な俺は言い出すことがなかなかできなくて、結果として復讐の刃が迫る不穏な状況の中で、君はそれを知ることとなった。
君は健気に俺の昔語りを受けとめてくれたけれど。俺に幻滅することもなく、今も変わらず笑いかけてくれているけれど。
でも間違いなく、あの時、俺は君を傷つけた。俺の過去が―――君の笑顔を曇らせた。
もう、あの時のような思いを君にさせたくはない。
俺の過去が君を苦しませるのは、もう嫌だ。だから―――
「薫殿!!!」
「はいっ?!」
突然、大きな声で呼ばれて、薫は驚きつつも反射的に返事をする。
「拙者が子供の頃、師匠の弟子になってからの事でござるが、山の中に独りで放り出されたことがあったのでござるよ」
「・・・・・・え?」
急に話題が切り替わったことに、薫は目をぱちくりさせる。
剣心が語り出したのは、またしても昔話のようだ。
「頂上の祠に置いてある石を持って帰ってこいと命じられて・・・・・・足腰を鍛えるための、修行の一環でござるな。身体に慣らすためだと言われて刀を持た
されて、これが持ち慣れない子供には邪魔で重くて仕方なくて。それでも、日が落ちる前に下山しないと遭難してしまうから、必死で山の中を走ったでご
ざるよ」
「・・・・・・うん」
どうして今、そんな話を聞かせてくれるのだろうか。薫は不思議に思いながらも、真剣な面持ちと口調に引き込まれるようにして、剣心の語りに耳を傾ける。
「しかし、今ならどうという事はないが当時は食べ盛りの子供でござったから・・・・・・下山の途中、腹が減って腹が減って仕方なくなって、ああもうだめだ何
か食べなくては動けないと思って、我慢できなくてその辺に生えていたキノコを採って火をおこして焼いて食べたんでござるよ。これがなかなか美味しくて、
次々焼いてたらふく食べたのだが・・・・・・その後すぐに、大変なことになったでござる」
「え?!まさか、毒キノコだったの?!」
昔話とわかっていながら、薫は顔色を変える。剣心は彼女の目をじっと見つめながら頷くと、殊更に重々しい口調で、言った。
「よりによって、ワライタケだったんでござる」
薫は、大きな眼を更に大きく開いて―――そして口許を手で覆った。
ぶはっと吹き出しそうになったのをこらえるためである。
「いやもう、突然笑いがこみ上げてきて止まらなくなって、涙は出るわ腹は痛いわ顎は外れそうになるわ足に力は入らないわで酷い目にあったでござる。
どうにかこうにか這いずるようにして麓までたどり着いたでござるが、師匠には呆れられて散々馬鹿にされて・・・・・・こちらは本気で死ぬかと思ったのに、
血も涙もないとはこの男のことかと思ったでござる」
「だ、だめよ剣心、自分の師匠のことそんなふうに言ったら・・・・・・」
諫める声は震えていた。もちろん、泣いているわけではなく笑っている所為だ。
「ああ、確かにその後すぐに薬を調合してくれて、当時は『またしても命を救われた』と感謝したでござるよ。しかし先日再会したとき、あれは適当に作った
エセ薬だと白状されたんでござるよ?!まったく、ありがたがって損をしたでござる」
「ちょ、ごめん剣心、もう無理やめて・・・・・・お、お腹いたい・・・・・・」
身体を折り曲げて笑う薫を見て、剣心はほっと息をつく。
かなり力技ではあったが―――ひとまず、彼女が笑ってくれてよかった。
「先日、師匠からこの話を蒸し返されたときは、恥ずかしくて死ぬかと思ったでござるよ。拙者本人が忘れていた恥を逐一覚えているのだから、本当に人
が悪い」
「うーん、その気持ちはわかるかも・・・・・・子供の頃の恥ずかしい思い出を語られるのって、本人からしてみれば嫌なものよね」
「うん、だからこの話は、誰にもしてはいけないでござるよ」
薫は、笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭いつつ、「え?」と首をかしげる。
少しだけ、顔を近づけて。剣心は声をひそめて囁いた。
「拙者と薫殿の、ふたりだけの秘密でござる」
驚いたように、長い睫毛を上下させて―――そして薫は、ふわりと頬をほころばせる。
睫毛に残った涙が、笑顔を彩るようにきらきらと光るのが魔法のように綺麗で、剣心は見惚れた。
ああ、やはり君にはそういう表情がよく似合う。
そんなふうに、君にはずっと笑っていてほしい。
ずっと言えずにいた過去を打ち明けたあの日、君に幻滅されて愛想を尽かされても仕方ないと思った。
かつての伴侶を殺めるという罪を犯した俺には、それが相応の報いだろうと思った。
なのにその翌朝、君は笑顔で「おはよう」を言ってくれた。
俺の告白は君の心に傷を刻んだだろうに、今までと変わらぬ笑顔を向けてくれた。
あの時―――君の笑顔に、俺は救われたんだ。
「そっか・・・・・・わたしだけに教えてくれたのね?」
「うん、絶対に他の皆には内緒でござる」
できることならもっと甘く色気のある「ふたりだけの秘密」を共有したかったのだが、いかんせん、また告白すらできていない身なので致し方ない。
「わかったわ約束する!なんなら、指切りしたっていいわよ」と、元気よく小指を差し出した薫に、剣心は「昨夜と同じ流れでござるな」と笑って自分のそれ
を絡める。
いつか、俺も聞かせてもらおう―――小さかった頃の、君の話を。
君を慈しみ育ててくれた両親は、どんなひとたちだったのか。どんな願いをこめて、君に薫という名をつけたのか。そんなことを、いつか君から教えてもら
おう。
そうやって、思い出も未来も共有しながら、少しずつ互いのことを知ってゆくのは、きっと素敵なことだから。
指切りをしながらそんなことを考えていると、目の前の薫が、ふと何かを思いついたように小首を傾げた。
「ねぇ剣心」
「うん?」
「心太の『心』の字は、剣心の『心』なの?」
「ああ、そうでござるよ」
確認をとった薫は、正面からまっすぐ剣心の顔を見て「やっぱり、ご両親は喜んでいると思うわ」と自信たっぷりの口調で続けた。
「え?」
「あなたは、ひとの心を汲むことのできる優しいひとだもの。ちゃんとご両親のつけてくれた名前のとおりのひとになっているから・・・・・・絶対喜んでいるわよ」
まるで、少年の頃の面影を透かして見つめるかのように、剣心にむける薫の目が、柔らかに細められる。
微笑みのかたちにほころんだ唇から、幼子に語りかけるような、優しい声が紡がれる。
「いい名前ね・・・・・・心太」
それは、長いこと忘れかけていた、懐かしい響き。
二十年ぶりくらいではないだろうか―――その名前で呼ばれたのは。
流浪人として流れていた十年間は、滅多に名前を呼ばれることなどなくて。薫と出逢って久方ぶりに「剣心」と呼ばれたとき、なんだか無性に嬉しかったこ
とを思い出した。
今にして思うと、あれはただ呼ばれたからではなく「薫から呼ばれた」からこそ嬉しかったのだが―――あの時によく似た、あの時以上に暖かな感情が胸
に満ちてくる。
「え、やだ、どうしたの剣心?どこか痛いの?」
ぱたんと上半身を布団に倒した剣心に、薫は気遣わしげな声をかける。
「・・・・・・いや、昔の話をするのも、悪くないものなんだなぁ、と思って」
幸福感にふにゃあと緩んで赤くなった顔を隠すように、剣心はあさっての方を向いてぼそぼそと返事する。薫は安心したように笑って、「そうよ、むしろもっ
と話してほしいわ!」と明るく返した。
「ところで・・・・・・剣心、お腹すいてるんじゃない?」
「ああ、そういえば・・・・・・昨夜は結局あまり食べられなかったでござるからなぁ」
「朝ごはん、もうそろそろじゃないかしら。着替え、手伝うわよ」
ふと気づけば、台所のほうから漂ってくるのだろう、微かに味噌汁の匂いがする。
耳をすませば、起き出した面々が交わす声が潮騒のように聞こえてくる。
それは、いつもどおりの朝の始まりを告げる音と香りだ。剣心は「かたじけない」と答えつつ、再び身体を起こした。
好きなひとのことを、知りたいと思う。好きなひとに、自分のことを知ってほしいと思う。
それはどちらも、自然な欲求なのだろう。
そして、互いのことを知るたびに、想いは大きく豊かに育ってゆくはずだ。
だから―――時には昔の話を。
薫が肩に掛けてくれた着物に片袖を通しながら、剣心は幼い頃の彼女の姿を胸に思い浮かべ、こっそり口許をゆるめた。
了。
2020.12.29
モドル。