母さんが好んで着ていた浴衣は、紺の地に白い百合が咲いていた。
        あざやかに赤い帯が、ゆらゆらと背中で揺れて、金魚の尾びれのようだった。


        手を繋いだ先を見上げながら、いつかわたしもこの浴衣が着られるようになりたいな、と願っていた。



        そのとき、大人になったわたしのとなりには―――その手の先には、誰がいるのかしら。








     手と手のあいだに







        「やあ、これはこれは・・・・・・先日は、誠にありがとうございました」



        往来のなか、連れだって歩く剣心と薫に声をかけた相手は、挨拶もそこそこに深く腰を折ってお辞儀をした。あまりの丁重さに恐縮しながら、剣心は「あれ
        から、店のほうは・・・・・・?」と尋ねる。
        「おかげさまで、あちこち荒らされはしましたが、片付けはすっかり済みましたよ。娘たちにも変わりはありません」
        その返答に、ふたりは安堵して顔を見合わせた。


        声の主は、彩月堂の主人である。
        彼は薫と旧知の骨董屋の店主で、つい先日押し込み強盗に店を襲われるという奇禍にに見舞われたが、そこを救ったのが剣心と薫だった。

        「お人形、ありがとうございました。なんだか、却って気を遣っていただいてしまって・・・・・・」
        「いやいや、いいのですよ。ずっと想われていた方の家に行けて、あの子も喜んでいることでしょう」
        そう言って、店主は柔和な目を細めた。
        高価な品物の数々と、誘拐されかけた愛娘を取り戻してくれたお礼に、店主は「看板娘」として店先を飾っていた人形を薫に贈ったのである。薫が子供の
        頃からずっと「片想い」をしていたその人形は、今は彼女の部屋の一角に行儀良く座っている。
        「どうぞ、長く可愛がってくださいませ・・・・・・また、よかったら、いつでも店に遊びにいらしてください」
        店主の申し出に、剣心と薫は「ありがとうでござる」「ありがとうございます」と声を揃える。息の合った返答に、店主はほのぼのとした笑みを頬に浮かべ、
        そしてしみじみとした調子で言った。



        「それにしても・・・・・・そうして並んでいらっしゃると、ご夫婦のようですなぁ」



        剣心と薫はきょとんとして――― 一拍おいて言われた意味を理解して、たちまち真っ赤になる。
        揃って茹で蛸のようになって声を失っているふたりに、店主は慌てて「ああ、驚かせてしまいすみません、おふたりの着物を見ていたら、つい・・・・・・」と付
        け足した。

        「着物・・・・・・?」
        「ええ、おふたりのその着物・・・・・・以前、薫さんのご両親が着ていらしたものですよね?」
        店主の言葉に、剣心は隣にいる薫の顔を見た。
        薫は赤い顔のまま、目線を下に落として小さな声で「はい」と答える。


        「やはりそうでしたか・・・・・・いやいや、まるでお父上とお母上が、そこに立っていらっしゃるように見えましたよ」



        懐かしいですなぁ、と。店主はふたりの姿を眺めながら微笑んだ。








        ★








        彩月堂の主人と別れた後、剣心と薫は、しばらくの間無言のまま歩いた。
        「夫婦のようだ」と言われた照れくささがふたりを寡黙にさせていたが―――先に沈黙を破ったのは、剣心からだった。


        「薫殿の浴衣も、母上のものなんでござるな」
        浴衣「も」、と言ったのは、剣心が着ている麻の夏物も、薫の亡父の「お下がり」だからだ。京都から帰ってきて間もなく、皆で花火見物に繰り出したことが
        あったのだが、その際薫が剣心用にと仕立て直したものである。

        「わたしがまだ小さい頃・・・・・・母さんが着ていた浴衣なの。帯も、よくこの色を合わせていたんだ」
        少しうつむきがちに薫が答え、顔の横に垂らした黒髪が揺れた。紺色の地に、百合の花を白く染め抜いた浴衣は薫によく似合っており、赤い帯は愛らしい
        金魚を連想させた。
        彩月堂の主人は、骨董の目利きである。そんな商売柄もあって、かつて薫の両親が着ていた着物の色と柄も、はっきり記憶していたのだろう。


        ―――だとしても、それにしても、「夫婦」だなんて。
        店主の言葉をうっかり頭の中で反芻してしまった薫は、再び頬を赤く染める。


        「い・・・・・・いきなりあんなふうに言うなんて、びっくりしちゃうわよねぇ。でもきっと、別に深い意味はなくて、単に父さんと母さんのことを思い出して、懐かし
        くてついあんな言い方を・・・・・・」
        「・・・・・・薫殿も?」
        気恥ずかしさを紛らわせるため薫はあれこれ言葉を並べ立てたが、剣心の声がそれを遮る。問いかけの口調に、薫は「え?」と顔を上げて、彼を見た。
        「ご両親がこの着物を着ていたとき、薫殿も、一緒にいたのでござるか?」

        剣心の問いに、ふっと、薫の表情が変わる。
        どこか遠くを見つめるかのように、瞳が揺れて。懐かしさと、ほんの少し切なさが混じったその表情に―――ああ、きっと今、ご両親のことを思い出してい
        るんだろうな、と。剣心は思った。


        「・・・・・・うん。母さんがこの浴衣を着て、父さんがその着物を着て・・・・・・そして、三人で手を繋いで歩いたの。よく、覚えてるわ」
        こう、わたしが真ん中に入ってね、と。薫は子供がそうするように、大きく手を動かしてみせる。可愛らしいその仕草に、剣心は目許をゆるめた。
        「わたしはまた小さかったけれど、その頃から、母さんのこの浴衣が大好きだったのよね。だから、いつかわたしも大きくなったら着てみたいなって、思っ
        ていたの」


        両親と、手を繋いで歩いたのは、うんと小さい頃の記憶だ。
        もう少し大きくなった頃、でも今よりは背丈が足りなかった頃、母さんに「そろそろわたしもこれを着てみたい」とお願いしたことがあった。

        けれども、その頃はまだ、この浴衣はわたしには着丈も袖丈も長すぎて、何より、紺地に百合の意匠は、子供のわたしにはいまいち似合っていなくて。
        鏡の前で、浴衣を羽織らせてもらったわたしは唇をとがらせて。そんなわたしに、母さんは「あと数年の辛抱よ、そうしたら似合うようになるわ」と笑って。


        でも、ようやく似合うようになった、そのほんの少し前に―――母さんは、彼岸のひととなってしまった。


        思い出は懐かしく幸せなものだったが、それとともに普段は胸の奥に仕舞われている寂しさにも触れてしまい、薫の表情に、僅かに影がおりる。
        ―――と、指先を、なにかが掠めて、薫は視線をそちらに向けた。

        剣心の手が、中途半端に宙に浮いている。
        目線を上げて彼の顔を見ると、なんというか「しまった」「しくじった」という表情をしていた。


        これは、何があったんだろう。
        この姿勢と表情と、そして指を掠めたものは、恐らくは彼の手だろう。
        これらから察するに、「手を握ろうとしたのだけれど失敗した」ように思えるのだが。いや、でもまさかそんなこと―――

        薫は自分の想像を「まさか」と打ち消したが、剣心は些かばつの悪い顔をしながら、改めて手を差しのべた。
        「・・・・・・なに?」
        明らかに、彼の行為は「手を繋ごう」という意思表示であったが、突然すぎて薫は混乱した。混乱して、思わず間の抜けた疑問符が口から飛び出してしま
        い―――剣心はしびれを切らしたかのように足を止め、そのまま薫の手を捕まえた。


        「け、剣心っ?!」


        ぎゅっ、と。取り落とさないようにと、力をこめて握られて、薫の顔にまたもや血がのぼる。そんな彼女の動揺には構わず剣心は再び歩き出し、薫はされる
        がままに足を動かした。
        頬も熱いが、握られた手も熱い。「こんなんじゃてのひらに汗をかいてしまうんじゃないかしら」と心配したが、熱いのは自分の手だけではなかった。
        手を引きながら、ほんの少し前を歩く、剣心の顔を見る。この角度からではよく見えないが、彼の頬も紅潮しているようだった。
        薫は、ひとつ大きく息を吸う。一歩大きく踏み出して、剣心の横に並ぶ。背中に垂らした黒髪と赤い帯が、弾んで揺れた。

        「・・・・・・どうしたの?」
        突然、手を繋ごうとしたのには、何か理由があるのではないかと思って訊いてみる。剣心は、ちらりと目を動かして薫の顔を見やると、「こうすると、もっと
        懐かしいかなと思って」と、答えた。
        「え?」
        「父上と母上は、この着物を着て手を繋いでいたのでござろう?だから、こうすると・・・・・・」

        薫は、目を大きくする。
        彼にいては珍しく不明瞭に語尾を濁したが、意図は充分に理解できた。



        きっと剣心は、懐かしさとともにわたしの胸をよぎった寂しさに、気づいたのだろう。
        だから、その寂しさが紛れるように―――懐かしさがその感情を上回るように、手を繋いだ。

        遠い日の、父さんと母さんの姿をなぞらえて、幸せな思い出が胸に満ちるように。



        「・・・・・・父さんと母さんの間には、わたしがいたんだけれど・・・・・・」
        水を差すのは承知の上で、そう言ってみる。剣心は、痛いところを突かれたというふうにうっと言葉に詰まったが、すぐに「いや、きっと薫殿が産まれる前
        にもこうしていた筈でござるよ」と断言する。
        「この浴衣を着て?」
        「そう、この着物を着て」

        真面目くさって言うのが可笑しくて、薫は笑った。それを見て、剣心も笑う。
        その笑顔に、ふっと亡父の笑顔が重なって見えた。この、麻の着物を身につけた、懐かしい父の笑顔が。


        「・・・・・・ありがと、剣心」
        彼の心遣いが嬉しくてそう言うと、「いや、こちらこそでござる」と返された。
        薫としては、特に礼を言われる理由が見あたらなかったのだが―――ひょっとすると、これは「手を繋いでくれてありがとう」という意味だろうか。

        口の中で、薫は小さく「こちらこそ」と呟いた。
        彼からこうして手を取られたのが、薫もとてもとても嬉しかったから。




        夏の高い陽が傾きはじめ、乾いた地面に影が長く伸びる帰り道。
        父さんと母さんも、こんなふうに手を繋いで歩いた日があったのかしら。

        剣心と並んで歩きながら、薫はそんなことを考えて―――ついでに、いつかわたしたちの手と手の間に、もうひとり小さな手が増える日は来るのかしら、
        などと考えてしまって。それはちょっとあまりにも夢を見すぎじゃないかしらと赤面しつつ反省した。



        「どうかしたのでござるか?」
        剣心は目ざとく、薫のまたもや赤くなった頬に気づいて首を傾げる。
        「なんでもないっ」と答えた薫が、ぶんっと大きく子供のように手を動かす。繋いだ手を引っ張られて、剣心が「おろろ」と笑った。









        子供の頃に憧れた、紺の地に白い百合が咲いていた母さんの浴衣。
        ようやくこの浴衣が様になるようになったわたしの背中には、あざやかな赤い帯がゆらゆらと揺れている。

        そして、今隣にいるのは、大好きなひと。
        手を繋いだ先にいるあなたを見つめながら、次の夏もその次の夏も、いつもまでもこうして一緒に並んで歩けますように―――と。
        そう、願った。












        了。






                                                                                     2017.09.09






        モドル。