たとえば、その細い指を握ってみたら、君はどんな顔をするのだろう。

        たとえば、手をつないで歩いてみたら、君はどんな表情で俺のことを見つめるのだろう。

        たとえば、そのまま引き寄せて肩を抱いて、可憐な唇に触れたとしたら、一体どんな―――









      たとえば








        「貸し切り、なのかしら・・・・・・?」



        薫が赤べこの前で思わずそう呟いたのは、いつもと比べて店の中が騒がしかったからだ。
        昼時の混み始める時間とはいえ、普段より賑やかなのが外からでもわかる。「そうでござるなぁ、宴会でもしているのでござろうか」と相槌を打ちながら剣心
        が中を覗くと、「いよぅ!ご両人!」と馴染みのある声が飛んできた。そちらを見ると、入口近くの小座敷に陣取った左之助が、ひとりで猪口を傾けている。

        「いいところに来たなぁ!お前ぇらもこっち来いよ、今日は全部おごりだからよ!」

        食い逃げ常習犯からのまさかの台詞に、剣心と薫は「天変地異の前触れだろうか」などと思いつつ顔を見合わせる。すると、すかさず妙が顔を出し「もう、
        左之助はん、自分がおごるみたいな言い方よしておくれやす」と左之助の発言を打ち消した。


        「貸し切りではないのでござるか?」
        それにしては店全体がずいぶんと盛り上がっているなと思いながら、剣心と薫は左之助の向かいに並んで腰を下ろす。
        「いいえ、違います。ほら、あそこの席の若旦那はん、うちの常連はんなんやけど、この度めでたく祝言が決まったんですって」
        妙が目で示した先には、上品な身なりの青年と笑顔が愛らしい娘の姿があった。
        「幼なじみの嬢はんなんですって。今日は身内のお友達同士で、昼からお祝いの宴会だったんやけど・・・・・・」

        嬉しさに感極まった青年は、店じゅうの客にむかって「俺のおごりです!今日はみなさん思う存分食べて飲んでください!」と宣言した。いくら赤べこが良
        心的な店とはいえ、居合わせた全員の勘定となれば相当な額のはずだが、御大尽らしい彼にとってはさほどの痛痒ではないようだ。昼酒のせいか、はたまた
        大きな喜びのせいか、青年は真っ赤になった顔で他の客からの酌をしきりに照れながら受けている。


        「格好いいねぇ。俺も一度でいいからこういう席で『全部おごりだ!』とか言ってみたいもんだぜ」
        「左之助はんはその前に、たまっているツケを払っておくれやす」
        左之助はあさっての方を向いて、聞こえなかったふりをする。彼にとっては幸いにと言うべきか、誰かが祝いの唄を歌い出し、それに合わせて手拍子が起
        きて、店の中はいっそう賑やかになった。

        剣心は、この場の主賓のようになっている男女のほうを見やる。時折視線を合わせては笑みを交わす様子は仲睦まじく、まるで一対の内裏雛のようだ。
        祝言はこれからという事だが、幼馴染である彼らは長いこと一緒の時間を過ごして、想いをはぐくんできたのだろう。ふたりの間になんともいえないあたた
        かな空気が流れているのを感じて、剣心は頬をゆるめた。


        「きっと、似合いの夫婦になるでござろうな」
        その言葉は、となりにいる薫の耳には届かなかったらしい。「え?」と首を傾げて問い返される。
        唄と手拍子とで、かなり騒がしくなっているから無理もない。そう思い、剣心は身を乗り出した。

        ぐっと顔を近づけて、リボンを指で除けつつ、薫の耳に唇を寄せる。
        「きっと、似合いの・・・・・・」と改めて口にしようとしたが―――しかし、その言葉を最後まで発することはできなかった。


        「・・・・・・おろ?」


        一瞬前までそこにあった薫の顔は、今は数尺離れた場所にあった。
        おそらく、しっぽを踏まれた猫のように、神速ばりの速さで飛びすさったのだろう。

        驚きに、大きくこぼれそうに見開かれた薫の目。
        そして、みるみるうちに、首筋から頬までがほおずきのように赤く染まってゆく。


        そんな反応を目にして、ようやく剣心は「しまった」と気づく。
        今の耳打ちは、うら若き女性に対してとる距離ではなかった。この場の浮かれた雰囲気に乗せられた所為もあって―――うっかり不用意に、近づきすぎ
        てしまった。

        「お?何でぇ嬢ちゃん、飲む前から酔っぱらったみてぇな顔になってんぞ?」
        大きなからかい声は、しっかり耳に届いたらしい。薫は赤い顔のまま「もー!うるさいわよ馬鹿!」と叫び、手元にあった空の猪口を左之助にむかって投
        げつける。ちょうど近くで給仕をしていた弥彦が見とがめて、「店のもんを粗末に扱うんじゃねーよ」と実にまっとうな注意をした。


        「その、薫殿・・・・・・すまなかったでござる」
        「う、ううんっ!いいの、ぜんぜん大丈夫っ!」

        きまり悪く謝る剣心に、薫はぶんぶんと大きく首を横にふってみせた。赤く染まった頬を手のひらで隠して、えへへと照れくさそうな笑みをこぼす。
        その、はにかむ様子がとても可愛らしかった。


        「はい、おまちどおさまー!ぎょうさん食べてってね!」
        妙の声に、束の間薫の笑顔に目を奪われていた剣心は我に返る。

        「さ、ありがたくいただきましょ!」と殊更に明るい声を出す薫に、剣心も「そうでござるな」と調子を合わせる。鍋の向こうに座る左之助は、ふたりの様子をに
        やにやと眺めながら猪口をあおった。





        ―――あんな顔で、羞じらうんだな。


        鍋をつつきながらも、今し方の薫の表情が、脳裏にちらついて離れない。

        男勝りで、竹を割ったような気性の彼女が見せた、あの表情。驚いて真っ赤になって、恥ずかしげに笑って。
        あんな反応をされたということは、俺は彼女にちゃんと男として意識されているのだろう。改めてそれを確認できて―――困ったことに、とても嬉しくなった。

        そして更に困ったことに、できることならもっと色んな表情を見てみたいと思ってしまった。
        もっともっと色んな君を知りたいと、思ってしまった。


        たとえば、その細い指を握ってみたら、君はどんな顔をするのだろう。
        たとえば、手をつないで歩いてみたら、君はどんな表情で俺のことを見つめるのだろう。
        たとえば、そのまま引き寄せて肩を抱いて、可憐な唇に触れたとしたら、一体どんな―――




        無意識のうちに、つい薫の口許のあたりに目が行ってしまい、剣心はあわてて視線を鍋へと戻した。








        ★








        「なんか悪ぃよなぁ、子供が働いてる横で俺たちばっか大メシ食らって」
        「妙さんが今日は賄いも豪勢にするって言ってたから、弥彦も美味しいもの食べさせてもらってるわよ。ていうか毎回タダで飲み食いしている人がそれを
        言う?」
        「いやー、すまねぇなぁ嬢ちゃんにもいつもゴチになっちまって」
        「だからその姿勢をどうにかしろって言ってるの!」

        軽口を叩く左之助の肩を薫が小突き、左之助は身体をふたつに折って大袈裟に痛がるふりをする。
        賑わう通りを歩きながらの、罪のない笑いを交えた会話。それはいつもと変わらぬ日常の様子だった。
        「そんなに強くしてないでしょ?」と唇を尖らせる薫を「まあまあ」と剣心がなだめるのも、いつもどおりのやりとりである。

        ―――でも、こんな日常が「いつもどおり」になったのはつい最近のことで、この日常は長く続くわけではない。いや、長く続くべきではないのだ。
        だって俺は罪人だから。こんなふうに仲間とともに笑い合う幸せな日常を送る資格など、俺にはないのだから。


        昼日中から飲んでしまった所為だろうか、祝い酒は剣心の気持ちを高揚させずに、逆に醒めた方向へと冴えさせた。
        隣を歩く薫の横顔を眺めていると、胸には新たな「たとえば」が浮かんでくる。



        たとえば、いつか俺がいなくなったとき、君は何を思うのだろうか。
        俺がこの地を離れ、この日常に別れを告げたとき、君はどんな表情をするのだろうか。

        たとえば、いつか俺が君のもとを去るとき。
        やがて来るであろう、別離のときに。

        白くまっさらな心に、赤い傷痕を残すくらいに。
        その大きな目から悲しみの涙を流すくらいに、君が俺のことを好きになっていてくれたとしたら―――



        そこまで考えて、剣心は頬を歪ませる。

        俺は罪人で、今まで沢山の人を傷つけてきて、悲しませてきた。
        だからもう誰も傷つけたくないし、悲しませたくない。ひとつでも、多くの笑顔を守りたい。
        その思いに、嘘はないのに。



        それなのに、いつか訪れるであろう別れの日に、君が悲しむことを期待している自分がいる。
        さよならをした後も、君の心の中に残り続けたいと、あさましくも願っている。




        「・・・・・・我ながら、救いがたいな」






        呟きは誰の耳に入ることもなく、往来の喧噪にまぎれて消えていった。









        ★









        「貸し切り、なのかしら・・・・・・?」



        薫が赤べこの前で思わずそう呟いたのは、いつもと比べて店の中が騒がしかったからだ。
        昼時の混み始める時間とはいえ、普段より賑やかなのが外からでもわかる。「そうでござるなぁ、宴会でもしているのでござろうか」と相槌を打ちながら剣心
        が中を覗くと、ちょうど入口の近くで給仕をしていた妙と目が合った。

        「あら、いらっしゃいませ!こちら空いてますから、どうぞ!」
        「貸し切りではないのでござるか?」
        「いいえ、違います。ほら、あそこの席の若旦那はん、うちの常連はんなんやけど・・・・・・」
        前にもこんなやりとりをしたことがあるような、と思いつつ、ふたりは案内された席に腰を下ろす。
        「先日めでたく、はじめてのお子さんが無事に生まれたんやって」

        妙が目で示した先には、上品な身なりの青年が座っており、周りからの酌を照れながら笑顔で受けている。「あの御仁、もしかして前にも?」と気づいた
        剣心に、妙は「おふたりとも、運がええねぇ」と笑った。


        一昨年、祝言が決まったとき「俺のおごりです!」と言ってすべての客の勘定を引き受けた御大尽の青年は、今日もまた同じ台詞をのたまったらしい。ま
        たしても同じ席に居合わせるとは、確かに運がいいと言えよう。

        「次は薫ちゃんの番やね。しっかり食べて、滋養つけんとね」
        「ありがとう!お言葉に甘えて、今日はたくさんいただいちゃおうかなぁ」
        ぽんぽんと自分のお腹を優しく叩きながら、いたずらっぽく薫が笑う。このところ少しずつ目立ってきた帯のまわりのふくらみは、彼女に訪れた幸せな変
        化だった。


        「前のときは、あっちに左之助が座っていたわよね。おごりだなんて言うから、嵐でも来るんじゃないかと思ったけれど」
        小座敷の向かい側には、今日は誰も座っていない。剣心は「そうでござったなぁ」と頷きながら、彼が此処にいないことを残念に思った。
        今は海の向こうにいる左之助がこの賑わいを聞きつけたとしたら、タダ酒にありつけないことを悔しがるであろう。そして、これは剣心にとっての「残念」な
        のだが―――もしも左之がこの席に駆けつけられたとしたら、きっと薫の懐妊も祝ってくれただろうに。

        「今、どのあたりにいるのでござろうな」
        「そろそろ手紙でも欲しいわよね。こちらからは送りようもないんだもん」
        座る主がいない座布団を眺めつつ、剣心と薫は「まあ彼ならばどこにいても元気にやっているに違いない」と結論づける。


        「おまちどおさま・・・・・・って、お前らなんでそっちが空いてるのに、そういう座り方してるんだ?」
        肉を運んできた弥彦が、並んで座っているふたりを見て首を傾げる。
        「拙者が横にいたほうが、薫殿に肉を取ってあげやすいでござろう」
        「・・・・・・うん、聞いた俺が馬鹿だった。てか剣心、薫のこと甘やかしすぎだろ」
        「甘やかしてなどいないでござるよ。薫殿は今が一番大事な時なのだから、弥彦ももっと・・・・・・」
        「わかった!わかったから!俺が悪かったからさっさと食え!」

        そんなやりとりを耳にした近くの客が、「おっ!こっちの席もかい!めでたいねぇ!」と明るくはやしたて、わっと新しい歓声がわいた。剣心と薫はそろって
        顔を赤くしながらも、祝福の声に応えてぺこぺこと頭を下げる。
        誰かが祝いの唄を歌い出し、それに合わせて手拍子が起きて、剣心は「一昨年もこんな感じだったな」と思いを馳せる。


        ああ、そうだ。
        一昨年はふとしたことがきっかけで、いくつもの「たとえば」を想像したものだった。

        たとえば俺がいなくなったとき、君は何を思うのだろうか。たとえば俺が君のもとを去るとき、悲しんでくれるのだろうか―――なんて。あの頃はよくもまぁ
        あんな身勝手な妄想ができたものだと、今となっては自分の未熟さが恥ずかしくなる。

        残された者がどれほど辛いかなんて、とっくの昔に知っていた筈なのに。
        結局、あの頃の俺は自分のことしか考えていなかったんだ。


        あれから二年。その間に色々な出来事があって、一度は離れた君と結ばれて夫婦になって、新しい命を授かった。
        たとえば、次にまた君と離ればなれになる時が来るとしたら―――それは死がふたりを分かつ時なのだろう。

        命あるものとして生まれた以上、誰にも等しくその時は訪れる。けれど一昨年に比べすっかり臆病になってしまった俺は、そんな「たとえば」を想像するこ
        とすら怖くなってしまった。


        でも、その臆病さを弱さだとは思わない。
        失いたくないもの、守りたいものができたからこそ、得られる強さもあることを俺はもう知っているから。

        とはいえ、順当にいけば年上の俺が先に逝く筈だけど、残された君が悲しむ時間は一分一秒でも短い方がいい。だからこそ―――


        「一分一秒でも・・・・・・長く生きねばな」


        昼日中の宴席には似合わぬ決意を、小さい声で、されど真摯に誓う。
        かすかに耳に届いたのか、薫が「え、なぁに?」と小首を傾げた。剣心は「なんでもないよ」と返そうとたが、ふと思い直して身を乗り出した。
        ぐっと顔を近づけて、薫の耳に唇を寄せる。

        たとえば、子供を授かったとしたら―――なんて。数年前の自分なら、そんな未来は想像することすらできなかった。
        けれど、俺の想像なんかを軽々と超えた未来を、君が紡いでくれた。



        「薫殿も・・・・・・どうか無事に、元気な子を産んでくれますように」



        いつかのように真っ赤になって飛びすさって、逃げられたりはしなかった。
        優しい囁きに、くすぐったそうに目を細めた薫は、お返しのように良人の耳に唇を近づける。

        「まかせといて!」
        頼もしい一言を耳打ちされて、剣心は頬をほころばせた。






        外にまで響く明るい声に誘われて、「今日はずいぶんと賑やかだねぇ」と新しい客が訪れる。
        笑い声がはじける祝いの宴は、まだまだ終わりそうになかった。











        了。









                                                                                        2021.07.11







        モドル。