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        結局、薫を誘うことができないままその夜は更け、翌朝になった。
        「新しい店を見つけたから、ふたりで行ってみよう」と。
        ただそれだけの事を伝えるタイミングを、なんだかんだで剣心は失い続けていた。

        薫がひとりでいるところに声をかけようとすると、その横を弥彦が「悪ぃどけどけー!厠ー!」とばたばたと駆け抜けて、そこに薫の「こらー!お行儀悪いわ
        よー!」という声が飛ぶ。朝食の支度をしているところに近づくと、「うぃーっす!飯食いに来てやったぞー!」と、勝手知ったる左之助がずかずかと上がり
        こんでくる。



        そうこうしているうちにすっかり日が高く上がり、あっという間に時計の針は正午をまわり―――









        「んー、いい風ー・・・・・・」


        道場から出てきた道着姿の薫は、庭先でうーんと大きくのびをした。
        今日の薫は、午前中の時間を使って弥彦に軽く稽古をつけた後、赤べこにむかう彼を送り出した。それからひとりで素振りをして、ひとしきり汗を流した。
        「さて、と」
        顔を洗ってすっきりしたいな、と思い、井戸端へむかう。と、そこには洗濯物の入った桶を持った剣心がいた。

        「あ、剣心お洗濯ありがとう!」
        「あー、薫殿もお疲れ様」
        「・・・・・・うん」
        薫は小さく首を傾げ、洗濯物と剣心の顔を見比べる。
        大した量でもない洗い物。たしか剣心が洗濯に手をつけたのは、弥彦の稽古が始まる前あたりだった。


        ・・・・・・今の今までかかっていたのかしら?


        手際のよい剣心にしては珍しいことだな、と思い、再び心配になる。
        「剣心、やっぱりまだ調子悪いの?どこか痛いの?」
        「え?いやいやまさか、それならばまず京都から帰ってこられないでござろう」
        「・・・・・・それもそうよね」
        愁眉をひらいた薫が、ほっとした顔で笑う。そして「ちょっとお水使わせてね」と、屈んで顔を洗い始める。
        少年のような仕草だったが、身を折った拍子にうっかり道着の胸元が覗けそうになって、剣心はあわてて目を逸らした。

        実のところ、今日洗濯に異様に時間がかかったのは、ちょくちょく道場を窺いに行って薫に声をかける機会を探していたからなのだが―――


        「・・・・・・あー、気持ちよかったー!」
        手ぬぐいで顔を拭いて、空を仰ぐ。透きとおるような白い頬にのぼったほのかな血の色が生き生きと綺麗で、剣心は一瞬見とれた。
        「剣心、これからそれ干すんでしょ?手伝うわよ」
        「え、いや、大丈夫でござるよそんな量でもないし」
        「だったら、ふたりでやれば早いじゃない。これが終わったらお昼にしましょ、お腹すいちゃった」



        その発言に、剣心が反応する。



        「あの、薫殿」
        おもむろに、手にしていた桶を地面に下ろして、その手で懐から何かをしゅっと取り出した。その動作が異様に勢いづいていて、薫はちょっと驚く。
        「―――これ」
        差し出されたのは、一枚の紙片。

        「なぁに?」
        薫は紙を受け取り、折り畳まれたそれを開く。
        何度も出したり引っ込めたりを繰り返したその紙は、かなりくしゃくしゃになっていた。


        「・・・・・・お品書き?わ、何これ美味しそう!」
        薫の顔がぱっと輝く。まずは好感触を得られたようで、剣心は安堵した。
        「昨日、買出しの途中で見つけたんでござるが、新しい店らしくて」
        「へーっ、いつの間にできたのかしら」
        「その、拙者たちが、京都に行っている間に」
        「そうなんだー、うわぁ食べてみたいのが色々あるなぁ・・・・・・」
        剣心の喋る調子は、いつもと違って微妙につっかえながらだったが、しかし品書きを読むのに熱中している薫は、それに気づかなかった。

        「ちょっと覗いてみたのだが、感じのいい店で」
        「うんうん」
        「で、ここからも割と近くて」
        「うん」
        「だから」
        「うん?」
        「その、薫殿、今日、これから」
        「え?」


        紙から顔を上げた薫と、目が合う。
        どきりとした。
        そんなの、普段からよくある事なのに。


        そして、ここにきて漸く、剣心の様子が普段と違うことに気づいた薫は、手にしていた紙をぱたんと二つ折りに閉じた。
        「剣心、あなたやっぱり変よ、また顔赤いもん」
        「へ?」
        「熱っぽいんじゃない?ほんとは調子悪いんでしょう?!そうだ!恵さんに診てもらいましょうよ!待ってて、ちょっと走って呼んでくるから・・・・・・」

        京都で剣心が大怪我をして以来、いささか心配性のきらいがある薫は、返事を待たず踵を返した。
        そのまま駆け出そうとして―――ぐい、と。引き戻される。


        「え?」
        後ろから両肩を掴まれて、ぐるんと強制的に回れ右をさせられる。予想外の剣心の行動に、薫の目が大きくなる。

        「・・・・・・薫殿、そうではなくて」
        「・・・・・・な、に?」
        また慌てて走り出さないように、と。肩をがっしと掴んだまま、続ける。

        「これから、行ってみるのは、どうでござろう」
        「こっちから行く? 診療所に」
        「そうではなくて!・・・・・・この店に」
        「え」
        「薫殿が、気に入りそうな店だったでござるよ。よければこれから・・・・・・その、ふたりで」



        ようやく言えた。
        ・・・・・・これだけを言うのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。



        「・・・・・・どうでござろうか?」
        薫の表情を、うかがう。
        まばたきを忘れてしまったように開かれた瞳に、驚いた形で固まった唇。

        ふたり、言葉のないまま動きが止まる。
        実際、それはほんの僅かな時間だったが、剣心にはとても長く感じられた。

        と、薫の頬がみるみるうちに赤くなる。
        それは先程の、稽古のあとの上気した頬とは、また違った理由の変化で―――



        「やっ、やだやだやだやだっ!駄目よ剣心っ!」



        大声で否定さて、今度は剣心が固まる番だった。
        いや、だって断られるとは思っていなかったし。
        いや、そう考えるのは俺の自惚れだったのか、でも。

        ぐるぐる考えていると、薫が捕まえられていた腕を振りほどき、剣心の手からばっと逃れた。
        あああそこまで拒絶されるなんて、と追い討ちをかけられた気分でいると、薫が広げた手のひらをびしっと前に突き出した。


        「五分待って!」
        「・・・・・・は?」
        「だって、駄目よこんな格好のまま行けるはずないじゃない!せっかく剣心とふたりで行くのに、そんなのは嫌っ!」

        呆気にとられる剣心の前で、薫は慌ただしい手つきで髪を撫でつけはじめた。
        「あああ駄目だわ髪もぐちゃぐちゃ・・・・・・結い直さなきゃ!ごめん剣心、やっぱり十五分・・・・・・いえ十分待って!すぐに着替えて髪も直してくるからっ!」


        言い終わる前に、薫は既に母屋にむかって走り出していた。もともと彼女は足が速いが、いつもにも増して素早い動きだった。ともかく。



        「・・・・・・は」



        待っていてくれ、と。
        つまり、受諾、された。





        身体から一気に力が抜ける。剣心は改めて自分が緊張していたことに気づいた。
        そして、薫が戻ってくるまでに洗濯物を干し終えなくてはならない、ということにも気づき、呑気に待っている場合ではないと慌てて行動を開始した。










       3 へ続く