「・・・・・・おろ?」
         夕飯の買い物の、帰り道の途中。視界の隅を掠めた淡い色彩に、剣心は首を傾げた。
         それは小さな看板だった。大通の脇にある、小さな社へと続くゆるやかな坂道の途中、緑の濃い垣根の横にそっと置かれた立看板。剣心は近づいて、そ
         こに書かれている文字を確かめる。
         「はな、おる・・・・・・いや、かおる・・・・・・かな?」
         看板の字は、「花織る」とあった。たっぷりの水で溶いた絵の具で書いたような、薄い橙色の文字。目立つことよりも意匠にこだわることを選んだらしいそ
         の看板から目を上げると、垣根と垣根の間に、細い小径があるのに気がついた。
         「こんな所に道があったのか」と覗きこもうとすると、向こうから軽やかな笑い声が聞こえてきた。
         道の奥から歩いてきたのは、薫くらいの年頃の、ふたりの少女だった。剣心の横を通り過ぎる際、彼女たちの口から「おいしかったねぇ」という言葉がこぼ
         れたのが耳に入った。
         誘われるようにして、剣心は小径に踏み入る。
         しばらく歩いてゆくと―――風に乗って漂ってきた甘い香りが、鼻孔をくすぐった。
         「いらっしゃいませ」
         やがて、視界が開けて、穏やかな声に迎えられた。
         そこにあったのは小さな茶店。真新しい暖簾の向こうから現れたのは、前掛けをした初老の婦人である。
         「此処に、こんな店があったでござろうか?」
         白いものが混じった髪をきれいに結った女性は、上品に笑って剣心の問いに答えた。
         「はい、十日ほど前に始めたばかりなんですよ。どうぞ、お見知りおきくださいませ」
         十日、というと、自分たちはまだ京都から東京に向かっている最中だ。薫が若い娘なだけあって「甘いもの系」に詳しいため、剣心もこういった店が近所の
         何処其処にあるのかを、いつしか把握してしまっていたが―――成程、それなら知らない筈だと納得する。
         「屋号は、かおる、と読むのでござるか?」
         「はい、そうです、かおるといいまして―――よかったら少し中を覗いて行ってくださいませ」
         「あ、いや拙者は・・・・・・」
         「ええ、殿方おひとりでは入りづらいでしょうが、何方かこういったお店がお好きな方がいらっしゃいましたら、是非教えていただければと・・・・・・様子をご
         覧になるだけでも」
         どうぞどうぞと促された剣心は、買い物の籠を抱え直して「それでは」と店の中を窺った。
         店内は思いのほか広くて明るく、奥にある大きな窓からは庭を眺めることもできるようだ。客の大半は女性で、若い娘たちがぜんざいや団子などをつつき
         ながらおしゃべりに花を咲かせていたが、なかには妻や恋人と連れ立ってきた男性の姿も見受けられる。
         そして、淡く優しい色彩が、店のあちこちを飾っていた。茜や紅花で染められた糸を織り上げて作った壁掛けである。
         婦人が「いいお色でしょう?近くにある、織りの工房で作っているのですよ」と微笑んだ。どうやら、「織る」という字が入った店名の由来は、ここにあるらし
         い。
         なかなかいい雰囲気の店だな、と思っていると、品書きの紙を一枚手渡された。
         「差し上げますので・・・・・・お気に召されましたら、是非お茶をしにいらしてください」
         見ると、値段のほうも良心的だ。剣心は、かたじけないと礼を言って、店を辞する。
         喧騒から一歩外れた小径の奥にある、隠れ家のような店。しかも、彼女と同じ響きをもつ店名である。
         「薫を連れてきたら、きっと喜ぶだろうな」と思いつつ、剣心は帰路についた。
         ★
         「ただいまでござるー」
         この言葉も以前は口にするのを躊躇していたが、今ではきちんと素直に言えるようになった。それに応えて薫の明るい声が返ってくる。
         「おかえりなさーい!」
         軽やかな足取りで玄関まで駆けてきた薫は、きりりとした道着に身を包んでいた。
         「おろ、薫殿も、今帰ったばかりでござるか」
         「そうなの、ただいまー」
         「おかえり。出稽古はどうでござった?」
         「うん、先生もみんなも変わりなくてよかったわ。久しぶりだったからかしら、気のせいか、みんないつもより元気なように見えちゃった」
         それは実際、気のせいではないだろうと剣心は考える。
         今日、薫は京都から帰ってきてはじめての出稽古だった。剣術小町の不在を嘆いていた前川道場の門下生たちは、三ヶ月ぶりの薫の来訪をさぞ楽しみ
         にしていたことだろう。それは普段より気合いも入ろうというものだ。
         「剣心もお買い物ありがとう。今日はお魚?」
         「うん、鯵のいいのがあったから・・・・・・」
         「わ、見せて見せて!」
         夕飯の買い物を受け取りながら、薫が無邪気な声をあげる。包みを覗きこむ薫の長い睫毛を見ながら、剣心は先程みつけた店の話をしようと思い、懐にあ
         る品書きの紙を取り出そうとした。が―――そこに、弥彦がひょいと顔を出した。
         「せっかく美味そうなら剣心が焼いてくれよな。どうせ薫がやると黒コゲで味も何もわからなくなっちまうだろ」
         「失礼ね!そう毎回失敗してるわけじゃないでしょう!」
         「五回に一回しか成功しないんなら、じゅうぶん毎回だろーが!」
         いつもの事ではあるが―――あっという間に口げんかの応酬が始まる。
         剣心は少し考えた後、出しかけた品書きをもう一度懐にしまった。
         「あー、わかったでござるよ、拙者も手伝うでござるから」
         「お、やった!ってことは今日の夕飯は剣心が担当か」
         「ちょっと剣心!あなたまで・・・・・・」
         「いや、そういう意味ではなくて、ふたりで台所に立てば早いでござろう?」
         「うーん、仕方ねーなー、まぁぎりぎりの妥協案だな」
         「弥彦!あんたはどーして、そういちいち癪に障ることを・・・・・・」
         なんだかんだと言い合いをしながら、薫と弥彦は台所へと向かう。ふたりの背中を眺めながら、剣心は懐手に紙切れを弄んだ。
         ・・・・・・茶店のことを、言いそびれてしまった。
         まぁ、夕飯の時にでも話せばいいかと考えつつ、剣心は襷を取りに自室へと向かった。
         「で、『他にどんな面白いところに行ったんだ』って、向こうの門下生の奴らに訊かれてさー」
         「そうは言われてもねー。物見遊山に行ったわけじゃないものね」
         「京都に行ったってだけで、かなりうらやましがられたけれどなー」
         夕飯の席で、薫と弥彦はつい先程の喧嘩のことなど忘れたしまったようなからりとした様子で、剣心に出稽古先での出来事を話して聞かせる。
         剣心は「そうでござるか」と相槌を打ちながらも―――なかなか茶店の話をできずにおり、それを自分でも不思議に思っていた。
         何故、こんな簡単なことが切り出せないのだろうか、と。剣心は心の中で自問する。
         ただ、「新しい店を見つけた」と、言えばいいだけなのに。
         そして品書きを見せて、薫が気に入ったようなら、「今度行ってみようか」と言えばいいだけなのに。
         そう、今度一緒に行こうと―――
         そこまで考えて、切り出せない理由をようやく理解した。
         「きゃー!剣心っ!お醤油おしょうゆっ!」
         「・・・・・・おろ?」
         薫の悲鳴で、我に返る。
         思考に集中して手元がおろそかになっていた剣心は、どう見ても多すぎる量の醤油を焼き魚にどばどばと流しかけていた。
         「あーあーあー、何やってんだよ剣心」
         「あー・・・・・・いや、すまない弥彦」
         「って、なんで俺にあやまるんだ?」
         言い出せない理由に気がついた剣心は、つい弥彦に謝ってしまう。
         そうだ、俺は彼女を誘いたかったのだ。
         薫とふたりで行ってみたいと思っていたから―――だから弥彦の前で、話すことができなかったのだ。
         「ねぇ剣心、ほんとにどうしたの?まだ身体の具合が悪いんじゃ・・・・・・」
         「い、いや大丈夫でござるよ、ちょっと考え事をしていたものだから」
         「でも、なんだか顔も赤いし、熱があるんじゃない?」
         「は?」
         「ほんとだ、風邪ひいたのか?」
         薫と弥彦に気遣わしげに顔を覗きこまれて、剣心は慌ててぶんぶんと首を横に振った。
         「いっ、いやいやいや、本当になんともないでござるから!大丈夫でござるっ!」
         彼女に対して自分が抱いている特別な感情については、とっくの前から自覚はしていた。
         自覚はしていたものの、柄にもなく「ふたりで行きたい」などとつい思ってしまったことで―――急に照れくささがこみ上げてきた。
         剣心は赤くなってしまった顔を持て余しながら、醤油をかけすぎた魚を口に運んだ。
        幸か不幸か、動揺している所為で味は殆どわからなかった。
        2 へ続く。