「ひっく」
名前を呼ばれるより先に聞こえたその音で、剣心は振り向いた。
「あのね、剣心・・・・・・ひっく。さっきお向かいの奥さんから西瓜頂いたから、冷やしておいて欲しいんだけど・・・・・・ひっく」
洗濯にとりかかろうとして庭に降りた剣心を呼び止めた薫は、リボンを外して紺袴を身につけた、きりりとした女剣士のいでたち。評判の「剣術小町」
の名に違わない、それは凛々しい佇まいなのだが―――
「・・・・・・ひっく」
小さく肩を震わせて、そして恥ずかしそうに薫は口元を押さえた。
「おろろ、しゃっくりでござるか」
剣心は抱えていた洗濯物の入った盥を降ろし、縁側から中へ上がる。
「そうなの・・・・・・ひっく、さっきからずっと止まらないの」
「水は飲んだでござるか?」
「飲んだ・・・・・・んだけれど、効かなくて・・・・・・ひっく、ああもう・・・・・・」
困った顔で照れる様子が可愛らしくて剣心はつい目を細めたが、当人にとってはそれどころではない。「これから出稽古に行かなきゃいけないのにな
ぁ」とつぶやく声を追いかけて、また「ひっく」と間の抜けた音が出た。
「鼻をつまんで飲むといいと、聞いたことがあるが」
「それも、やってみたんだけど・・・・・・ひっく・・・・・・でも全然止まらなくて」
と、薫の背後で、静かに静かに襖が動いた。
半分程開いた隙間から、そーっと弥彦が顔を出すのが正面に立つ剣心からはしっかり見えていたが、弥彦の意図はわかったので素知らぬ顔で薫の話
に相槌を打っていた。
「・・・・・・わっ!!」
「きゃあっ!」
こっそり気づかれないように近づいた弥彦が、大声とともに薫の背中をどん、と押した。
驚いた薫は大きく肩をすくめて、悲鳴をあげる。
―――しかし、まばたき三つほどの沈黙の後。
「・・・・・・ひっく」
三人は揃ってかくんと肩を落とす。
「なんだよー、驚かせば止まると思ったんだけどなぁ・・・・・・じゃあ俺赤べこ行くから」
お手上げ、というふうに弥彦は首を横に振って、行ってきますと言いながら玄関へ向かった。
「あ、ありがと弥彦・・・・・・ひっく、行ってらっしゃい」
出かける弥彦の背中に声をかけつつ、薫は冴えない顔で息をついた。
「驚いたら止まるともよく聞くでござるが、ダメでござったなぁ」
「確かに今のはびっくりしたけれど・・・・・・ひっく、もっと驚かなきゃ効かないのかしら?」
「もっと・・・・・・でござるか」
薫の言葉に剣心は何か考えるふうに一瞬黙ったが、ふと、庭の方に視線を動かし、その先に何か見つけたように、おや、と表情を変えた。
「薫殿、ちょっと、あれ」
「え、なぁに?」
剣心がくるりと人差し指を回し、庭の一点を指し示すのを薫は目で追う。
彼女の注意がそちらに向けられた隙をついて、剣心は薫の肩を掴んで、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。
バランスが崩れ、薫の身体が前に傾く。
剣心は片手で薫の小さい頤を捕まえた。
ごく近くにある薫の大きな目はこぼれ落ちそうに見開かれ、桜色の唇が丸い形を作る。
ああ、可愛いなと思いながら、剣心は薫の左の頬に、ちゅ、と軽く口づけた。
予想だにしなかった剣心の行動に、薫は完全にフリーズする。
「・・・・・・びっくりした?」
何拍かおいて、そのままの姿勢で剣心が囁いた。
金縛りにあったかのように動けなくなっていた薫は、触れたままの唇が頬をくすぐる感触に漸く我に返った。そしてみるみるうちに、その頬が赤く染ま
る。
「・・・・・・きゃ、きゃっ、きゃあああああああー!」
殆ど反射的に、薫は腕を動かして剣心を突き飛ばした。渾身の力に剣心は見事に後ろに倒れこみ、ちょうどそこにあった箪笥の角に頭から激突する。
「ごん」と鈍い音が響いた。
「きゃあ!や、やだやだごめんっ!剣心大丈夫!?」
畳の上で後頭部を抱え込みながら「ぐえぇ」と変な声で呻く剣心に、薫はあわてて駆け寄る。
「ご、ごめんね、ついびっくりしちゃって、わたし・・・・・・」
頭をさすりながら剣心は、体を起こすのに手を貸してくれている薫を見上げた。
「ああ、いや、大丈夫でござるこのくらい・・・・・・で、薫殿しゃっくりは?」
「え?」
膝をついた薫は、近い距離で剣心の顔をきょとんと見つめる。
わずかの間の、沈黙。
「ひっく」という音はもう飛び出さない。
「・・・・・・止まった、みたい」
「よかった、今のが効いたでござるな」
そう言って剣心が浮かべた悪戯小僧のような笑みと、「今の」が示す意味に、薫の頬がさらに赤くなる。
「・・・・・・剣心、確かにしゃっくりは止まったけど」
薫は、更に困った顔で胴着の胸のあたりに手を当てた。
「今度は、こっちが鳴るのが、止まらない・・・・・・」
どきどきどきと、痛いくらいの速さの鼓動。
これもまた、自分の意思ではどうすることもできなくて―――
つん、と剣心の指が薫の右の頬をつついた。
「じゃあ、こちら側にもしたら、止まるでござるかな」
「・・・・・・もっと酷くなると思うんだけれど・・・・・・」
消え入るような薫の声を無視して、剣心の指が再び顎にかかる。
胸を叩く音はなかなか収まらず続いているけれど、今度は不意打ちでないぶん、まだ心の準備ができる。
賑やかな心臓の音を宥めながら薫はそっと瞳を閉じて、もう一度剣心の唇が触れるのを待った。