「足、どうかしたのでござるか?」
背中にかけられた剣心の声に、薫はびくりと肩を震わせた。
「ほらな?だから言ったろー、黙ってても絶対に剣心にはバレるって」
そら見たことかと笑う弥彦を、薫は軽く睨みつけた。そして剣心の方を見て「ちょっとすりむいちゃったのよ、たいしたことないから・・・・・・」と取り繕うとしたが、
「見せてみて」という真剣な声に遮られる。
渋々というように、薫は道着の袴の裾を右側だけ持ち上げた。
「達人は足音だけで相手の力量がわかるっていうけど、まさにそのとおりだったなー」
明らかにからかいの色の混じった声で弥彦にそう言われて、縁側にちょこんと腰かけた薫はため息をつく。出稽古の帰りに「やらかしてしまった」足の負
傷を、剣心には隠しておくつもりでいた。帰宅した薫はこっそり手当をするために、さりげなく自室に向かおうとしたが、その考えは甘かった。足音だけで
「歩き方がいつもと違う」と気づいた剣心は、実際に傷の具合を目にするや否やさっと顔色を変え―――そして、傷を洗うから縁側に出るようにと促した。
「普通に歩いていたつもりだったのになぁ・・・・・・だいたい、こんなの別にたいした怪我じゃないんだけど」
「充分たいした怪我でござるよ」
井戸で水を汲んできた剣心に咎められ、薫はかくんと肩を落とす。
「剣心、薬箱ここに置いておくぞー」
「ああ、かたじけない弥彦」
笑顔で礼を言われた弥彦は、なんとなく場の空気を察して回れ右をし、しばらく部屋にひっこんでいることに決めた。なんというか、笑ってはいるが怒って
いることが一目でわかる笑顔だったから。
「足袋、脱がすでござるよ」
「えっ?!や、やだっ、いいわよそれくらい自分で・・・・・・」
「いいから、じっとして」
有無を言わさぬ調子に、薫は諦めて途中で口をつぐむ。剣心は薫の足首に手をかけると、わずかに血が付着した足袋を脱がしにかかった。こはぜを外
し、つま先の部分を引っ張ってやる。するりと脱げた足袋が剣心の手におさまり、小さな白い足があらわになる。
「濡れるから、少し裾、持ち上げて」
言われたとおりにすると、まだ血が止まっていない派手なすり傷が白日の下にさらされる。改めてその脚を見た剣心の顔が、まるで自分が傷を負わされ
たかのように痛そうに歪んだ。
「しみると思うが、我慢するでござるよ」
そう言って剣心は桶を持ち上げると、傷の少し上あたりから水を流しかけた。薫は痛みに顔をしかめたが、我慢できない程ではない。
「冷たくないでござるか?」
「うん、平気よ。今日は稽古をしていたら暑いくらいだったから、むしろ気持ちいいわ」
少々の強がりをもって、そう答える。血と汚れを洗い流した傷に、剣心は用心深く晒しをあてた。
「それで・・・・・・どうしてこんな怪我を?」
剣心の声はあくまで穏やかだったが、ここで「ちょっと転んで」などと言ってごまかすことは出来なさそうだ。やはり、正直に言うべきだろうと薫は覚悟を決
める。
「帰り道でね、竹とんぼで遊んでる子どもたちがいたの。それで、そのうちのひとりが飛ばしたのが木に引っかかっちゃって・・・・・・」
上手く風に乗り高く舞い上がった竹とんぼは、枝振りのよい木の枝に不時着をした。子供はべそをかきながら太い幹を押して揺り落とそうとしたが、竹とん
ぼはなかなか落ちてこない。そこに薫と弥彦が通りかかり、話を聞いた薫は「まかせて!」と言って木に登りはじめ―――
「で、竹とんぼを取ってやることはできたが、一緒に薫殿も落っこちたと」
「下まで落ちたわけじゃないわよ。ただ、ちょっとだけ枝から足を踏み外して・・・・・・ちゃんと途中の枝に足をかけて止まれたもの」
「それで、この傷でござるか・・・・・・痛かったでござろう?」
ずり落ちたときに、枝だか木の幹だかにひっかけて擦りむいたらしい。剣心は晒しを染めた赤い色に眉をひそめる。足首の上から脛の途中にかけて縦に
何本も走ったすり傷は、肌の白さとの対比もあって見るからに痛々しかった。
「えっと、ほら、高い木だったから、弥彦にやらせたら危ないかなーと思って」
「弥彦が危ないなら、薫殿だって危ないでござろう」
「・・・・・・そうよね、ごめんなさい」
反論できずに謝る薫を、剣心はそれ以上責めなかった。お人好しで困っている者を見過ごせないのが彼女の気性であることは、よく知っていたから。
「どうして、拙者に黙っていようとしたのでござるか?」
言いながら、剣心は傷口に軟膏を塗り込んでゆく。
指先で触れられて、薫の肩が小さく震えた。痛い、わけではない。傷に障らないようにと、指の動きはあくまで優しかったから。
震えてしまうのは、彼に触れられているからだ。
手当てだとわかっているけれど、好意を寄せている異性に素足を見せてそのうえ触れられているというこの状況は尋常ではない。このままではどきどきと
負荷がかかりすぎる心臓が破裂してしまうのではないだろうか、と薫は心配になる。
足袋と同様に、薬を塗るのも「自分でやるから」と言いたかったのだが、きっとそう主張したところで剣心は「いいから」と譲らないのだろう。その証拠に、彼
の左手はまるで「逃げられないように」とばかりに薫のふくらはぎをしっかり捕まえている。
触れられるのは、嫌じゃない。
もしこれが誰か別の男性だったらとんでもないことだけれど、剣心だったら嫌なわけがない。嫌なわけがないが、剣心だからこそ恥ずかしいし緊張もする
わけで、なんだかもうくらくらしてきた。
でも・・・・・・剣心は、わたしが今の状況に困惑していることを承知で、こんなことをしているのだろう。
だって―――
「・・・・・・剣心、怒るだろうと思ったから」
そう、彼は今わたしに対して怒っているから―――だから、わたしが戸惑うとわかっていながら、こんな振舞いをしているのだろう。
いや、もしかすると無茶をしたことへの「罰」として、あえて戸惑うようなことをしているのかもしれない。
「拙者が怒るとわかっていて、そんなことをしたのでござるか?」
「落ちるつもりで登ったわけじゃないもの」
「それは、そのとおりかもしれぬが・・・・・・!」
大きくなりかけた語尾を、剣心はきまり悪げに飲みこんだ。このまま堂々巡りに陥ると、きっと最後には喧嘩になってしまうだろうと思ったからだ。
薫も彼の気持ちを察して、もう一度「ごめんなさい」と謝った。怒るということは、つまりは心配をしている故だということを、薫はちゃんと理解していた。
剣心は、薫の謝罪を聞きながら手際よく包帯を巻いてゆき、巻き終わったところで―――するりと、手を下に向かっておろし、小さな足を手のひらで包み
こむようにくるんだ。
「拙者は、薫殿には怪我などしてほしくないんでござるよ」
裸足の甲をそっと親指で撫でられて、薫はぴくりと身を震わせた。彼女の頬が真っ赤になっていることに剣心は気づいていたが、それでもまだ、華奢な足
を解放しようとはしなかった。
「・・・・・・そんなの、わたしだって同じだわ」
か細い声で、反論を試みる。
「わたしだって剣心が怪我をするのは嫌だわ。京都の時とか、この前の孤島でだってそうだったし―――もう、あんな目には遭ってほしくないもの」
怪我の度合いからいうと、志々雄や縁と闘ったときの剣心のほうがよっぽど重傷だった。それに比べるとこんな擦り傷なんて怪我のうちに入らないだろう。
薫はそう思いながら、捕まえられている足を蹴飛ばすようにぐいっと前へと突き出した。しかし、剣心は彼女のなけなしの反抗を少しの力で阻んでしまう。
つま先は、彼の胸に届く前にあっさりと押し止められた。
「男と女では、話が違うでござるよ」
「違わないわよ」
「いや、違う」
ぎゅ、と。痛く感じる手前まで、足を掴む手に力をこめた。
「理屈抜きで、男としては女性に傷を負わせたりしたくないんでござるよ。と、いうか―――」
顔をあげて、剣心はじっと薫の瞳をのぞきこむ。下から見上げられている所為か、真摯に訴えるその表情は、少し拗ねているようにも見えた。
「拙者の目の届かないところで、薫殿に無茶をされるのが、嫌なんでござるよ」
そう言った後、剣心は「まぁ、これは拙者のわがままでござるが」と小さくつけ加える。
「・・・・・・わがまま?」
「うん」
不思議そうに聴き返した薫に頷きながら、剣心は足を掴んだ手を上へと移動させる。
指先で細い足首のくぼみを辿って、ふくらはぎをゆっくりなぞって。
「危ない目に遭わせないようにするためには、四六時中一緒にいて目を離さないでいるのが一番でござろう?でも、残念ながらそれはできないから」
「・・・・・・そりゃ、わたしは赤ちゃんじゃないもの」
「うん・・・・・・そうでござるな」
薫は女の身ながら剣術の一門を背負って立っている、立派な大人だ。危なっかしいところがあることは否めないが、剣心に出会う前だって父親亡き後ひ
とりで生きてきたのだ。
それをわかっていながらも、出来ることなら常に薫を目に届くところに置いておきたいと思ってしまうのは、今までに何度か、彼女を失いかけた所為だろう。
胸に刀を突き立てられ、全身を朱に染めた薫の姿が脳裏によみがえり、剣心は俯いて口をつぐむ。
刃衛や縁のときのような思いは、もう二度としたくない。彼女を失うなんて、そんな恐ろしいことは、もう―――
黙りこんでしまった剣心の緋い髪を見下ろしながら、薫は気遣わしげに眉を寄せた。
心配されていることは、わかっている。
無茶をとがめられるのは、彼がわたしを大切に想ってくれているからこそだ。
だから―――だからこそ薫は意を決して、殊更に意地の悪い声音で言い放つ。
「・・・・・・思い知った?」
思いがけない、薫らしからぬ乱暴な台詞にぎょっとして、剣心は顔を上げる。
ここで引いてはいけないと、薫は自分自身に言い聞かせながら敢えて強い言葉を選ぶ。
「わたしだってこれまで、何度も何度もこんな気持ちになっていたのよ?剣心が酷い怪我をするたびに、今のあなたと同じ思いをしていたわ。わたしだって
ずっと・・・・・・怖かったんだからね?」
まじまじと薫の目を見つめていた剣心は、ふっと肩から力を抜き、くしゃりと破顔する。
「・・・・・・これは、一本取られたでござるなぁ」
君を失ったとき、「悲しい」なんて言葉では追いつかないくらい絶望した。
だから今でも、薫に何かあったらと考えると心臓が凍り付くような思いに駆られる。
でも―――
そうだ、君だっていつもこんな思いと隣り合わせで、こんな恐怖と戦いながら、俺の近くにいてくれたんだ。
それなのに、当の俺ときたらつい最近まで、心配してくれるひとの存在を顧みず自分の命なんていつ失ってもいいと考えていて―――
「正直なところわたしだって、できることなら四六時中あなたから目を離さないでいたいんだから」
「拙者、赤ん坊ではないでござるよ」
「ええ、そうよね。だからわたしも、これからはもっと気をつけるから」
「ああ、拙者も」
「危ない事しちゃって、ごめんなさい」
「・・・・・・ああ、拙者も」
先程まで、剣心の声が帯びていたかすかな苛立ちのような色―――心配しているが故の静かな怒気が消え去ったことを確認して、薫は表情をゆるませる。
それを目にして、剣心の口許にもふわりと笑みが浮かぶ。
「そうか、薫殿はよく怒っているが、あれは心配しているから怒るんでござるなぁ。なんだかすごく納得できたでござるよ」
「え、待って、わたしそんなによく怒ってる?」
「うん、拙者のせいでござるな、面目ない」
薫は首を傾げて「そんなに怒っているかしら」と納得いかない様子でぶつぶつ呟いていたが、剣心は聞こえないふりをする。そして―――
「・・・・・・目、閉じて」
「え?」
「手当てを、済ませなくては」
既に、薬を塗って包帯も巻いたというのに、他に何をするというのだろう。
と、いうか脚を捕まえられたこの状態で目を閉じるというのは何だか怖いような気もするけれど―――そう思いつつも薫は、彼の言葉に従いおずおずと目
蓋を閉じる。
剣心は、脚を掴んでいる手をすっと動かして、薫の袴に触れた。
包帯を巻くのに軽く持ち上げていた裾を、更にたくし上げる。素足が空気に触れるのを感じて、薫は思わず身を固くした。
首を、前に傾けて。あらわになった白い膝に、ゆっくりと唇を押しあてる。
ぴくり、と薫は肩を震わせたが、目は開かないでいた。
膝に感じる柔らかな体温と、肌をくすぐる小さな呼吸。やがてその感触は、名残惜しげに離れる。
「・・・・・・もういいでござるよ」
目を開けると、にっこり笑う剣心と目が合った。袴の裾は、元に戻されていた。
「・・・・・・その、剣心」
「今のが、手当てなの?」
「手当ての仕上げの、おまじない、でござるかな」
言いながら剣心は、怪我をしていない方の脚の膝にも、袴ごしに唇を寄せる。
「おまじない?」
「ほら、痛いの痛いの飛んでけ、と言うでござろう?それと同じようなものでござるよ」
明らかに、それは彼独自の―――それも、薫に対してのみ施されるおまじないなのだろう。薫は、頬を赤く染めながら、言葉を探すように唇を何度か開閉
させてから、首を後ろに動かして弥彦がまだ部屋に引っ込んでいることを確認した。
「そのおまじない・・・・・・もうひとつ、貰ってもいい?」
小さな声でそう言うと、剣心は少し驚いたように目を大きくして、それから優しく微笑んだ。
「どこか、痛いのでござるか?」
「・・・・・・ここ」
そのささやかな嘘は、心配をかけてしまったことに対する謝罪のようなものだった。
そして、今日のような無茶をしっかり怒ってくれることに感謝の気持ちをこめて。
薫が白い指先で唇を指し示すと、剣心は「承知いたした」と目を細め、小さな頤に指をかけた。
了
2020.08.15
モドル。