4




     

かんざしを手にして、弥彦の前から駆け出した燕。
そのまま店の外に飛び出したら、それは立派な犯罪になってしまう。何しろそれは、代金を払っていない商品なのだから。
突飛な行動に出た燕も、そこまで冷静さを欠いてはいなかったようで、彼女は店の外には逃げ出さなかった。そのかわり―――逃げ込んだのは「中」へだった。

彩月堂の店内には、沢山の骨董品やら古美術品が並んでいる。燕の後ろ姿は、その商品たちの影へと消えた。


燕の思いがけない行動に、弥彦と彩月堂の店主は呆気にとられてその姿を見送ってしまったが――― 一拍置いて我に返った弥彦は、「・・・・・・おい、こら燕!」と声をあげて床を蹴った。
整然と並ぶ商品にぶつからないよう気をつけて、燕が逃げ込んだ店の奥へと急ぐ。そこには、弥彦の背丈より大きな古い家具や、どっしりとした作りの調度品が据え置かれていた。

「・・・・・・あ」
きょろきょろと辺りを見回していた弥彦は、その一角にある洋風の箪笥の前で視線をとめた。
引き出しではなく、観音開きの扉がついた、背の高い?笥である。ハンガーにかけた洋服を収納するものなのだろう、扉には異国の花の絵が上品な筆致で描かれている。


その、箪笥の前に。
燕の草履が脱ぎ捨てられていた。


「やあ、これは・・・・・・天の岩戸ですな」
追いついてきた店主は、そんな感想を漏らす。彼の声音には非難の色はなく、むしろこの事態を楽しんでいるような響きがあった。
かんざしを持った燕が、この中に立てこもった事は明白である。居場所がばれてしまうのにもかかわらず、「商品を汚してはいけないから」と思って、草履を脱いで入ったのだろう。そんな配慮はいかにも燕らしいのだが―――さて、どうやって「出てこい」と説得すべきかと、弥彦は大きくひとつ息をついた。
「あの・・・・・・なんか、面倒なことになって、すんません」
弥彦の謝罪に、店主は「いえいえ」と笑って首を横に振る。
「時間がかかるかもしれませんね、、お茶を淹れてきましょうか」
そう言って、店主はさりげなくその場を離れる。先程の小間物屋と同様に、子供ふたりが壊れたかんざしを持参してきたことで、何があったのかは察してくれているのだろう。そして、燕を説得するのに「観衆」がいてはやりづらかろうと思い、席を外してくれた。弥彦は店主の心遣いに感謝しつつ、閉ざされた箪笥の扉に向き合う。

慌てたように脱ぎ捨てられた草履を、扉の前に揃えてやった弥彦は、まず何から話そうかと考える。
そして、一番先に口をついたのは、燕の行動に関する感想だった。


「・・・・・・お前ってさ、時々凄い行動に出るよな。今もだけど、鯨波のときもそうだったし」


数ヶ月前、警察の牢を破壊した鯨波が街で暴れたとき。弥彦がそれに立ち向かっている間、燕は独りで落人群に走り、剣心に助けを求めた。薫の死によって剣心は「壊れて」しまったが、燕の必死の声は届いた。結果として、鯨波は駆けつけた剣心に倒され、弥彦は助かった。
あれは―――あのときの出来事は、直接に鯨波を倒したのは剣心だったが、燕が落人群に向かったからこそ、剣心は「復活」できたのだ。つまり―――

「つまり俺はさ、あのときお前に助けられたわけなんだよな。今更だけどさ、ありがとうな」
箪笥の扉にむかって、弥彦は語りかける。改めて言うには照れくさい礼の言葉をするりと口にできたのは、きっと相手の顔が見えていない故だろう。
一方の、扉の向こうに立てこもった燕は、突然の「ありがとう」にどぎまぎしながら、箪笥の中で膝を抱えていた。


「まさか、お前がひとりであんな場所に乗り込んで行くとは思わなかったよなぁ・・・・・・驚いたし、凄いと思ったよ」


だって、このままじゃ弥彦くんが死んじゃうってあの時はそう思って、そんなのは絶対に嫌で、助けを求めるとしたら剣心さんしかいなくて。
確かに、無我夢中で走ったはいいけれど、いざ中に入ろうとしたら足がすくんで。怖かったけれど、でも弥彦くんが死んじゃうかもしれないことのほうが、よっぽど嫌で怖くて―――
当時のことをぐるぐる思い返していた燕の耳に、更に弥彦の声が届く。


「・・・・・・だから今度は、俺が、お前を助けたいんだよ」


燕は、暗がりの中で目を見開く。そして、扉を隔てた向こう側にいる弥彦にむかって反証を唱える。
「そんなの・・・・・・弥彦くんは、そのもっと前に、わたしのこと助けてくれたじゃない」
弥彦は思わず苦笑する。燕からは見えないとわかりつつも、「違げーよ」と首を横に振らずにはいられなかった。

燕が言っているのは、主家である幹雄に脅された際のことだろう。
たしかにあの時、俺は奴の企みを止めようとしたけれど、あれだって、俺ひとりでは無理だった。


「あの時、なんとかできたのは、剣心と左之助が来たからだ。俺ひとりだったら、きっと負けていたからな」
負ける、という言葉を、弥彦は恥じ入ることもなくさらりと口にする。

昨年の春、剣をはじめたばかりの頃は、ただやみくもに強くなりたいと思っていた。自分の無力さが歯がゆくて悔しくて、だから強くなりたいと願っていた。
強くなりたい気持ちは、今も同じだ。けれど、今の弥彦は、自分の力量を見極めることの大切さもちゃんと知っている。


気持ちの逸るままに立ち向かっていっても、勝てるとは限らない。いくら気合いが勝っても、実力が伴わなくては駄目なのだ。
その闘いが、自分以外の誰かの命運を背負っているなら尚更だ。その場合、一番に考えるべきことは「どうすれば自分が勝てるか」ではない。「どうすれば守れるか、どうすれば助けられるか」なのだ。

今の自分なら、敵わないと悟った時点で、素直に剣心たちに応援を求めることもできるだろう。今ふりかえると、当時の自分の無謀さがただただ恥ずかしい―――いや、こうして「恥ずかしい」と思えるようになった事こそ、成長した証なのだろうが。



「それに、後から知ったんだけどさ、逆刃刀。あれって、売ってるもんじゃないんだってさ」
それは、京都からの帰りに、剣心から聞かされた話だ。
あの刀は、特別な刀鍛冶が打った特別な刀だということ。そして、打った人物はすでに鬼籍にあるということを。
それを聞いたとき、弥彦は「そうか、買えるじゃないのか」という失望とともに、「簡単に手に入るものじゃなくてよかった」という奇妙な安堵感も覚えた。
京都では、生まれてはじめて「戦い」というものを肌で感じた。あれは、幹雄の時のような小さな事件ではなく、史書には残らずとも「戦争」だった。実際に雌雄をかけて戦ったのは剣心や左之助だけれど、その一端を弥彦も体感した。

体感して自覚したのは、やはり、自分はまだまだ彼らには及ばないということ。形を真似して逆刃刀を持ったくらいでは、彼らには追いつけないということ。
逆刃刀を手にするより先に、俺はもっともっと、自分を鍛えなくてはならないんだ。
俺自身が、成長しなくてはならないんだ。


「な?だから、ここで金を使っても、俺はどうってことないんだ。むしろ、俺は今ここで使いたい。だって、今お前を助けられるのは、俺だけだろ?」


今、剣心や左之助がここに駆けつけることはない。そもそもこれは、これまで起きた戦いとは違う、小さな小さな困り事でしかない。
けれど、理由はどうあれ、燕の泣き顔は見たくない。薫を悲しませたくないというのが燕の願いなら、それを叶えてやりたい。



「だから―――俺は、お前を助けたいんだ」



箪笥の扉に向かって、弥彦は正直な思いを残らず打ち明けた。
これ以上訴えることがあるとすれば、「お願いですから助けさせてください」とでも言うしかないだろう。流石にそれは無理だ、そこまでは言わないぞと思いながら箪笥と相対していると、ごそごそと中で身じろぐ音がした。


小さく、扉に隙間が生まれる。
おずおずと、かんざしを持った燕が顔を覗かせた。



弥彦は、ほっと安堵の息をつく。それと同じくして、お茶を持った店主もやってきた。
「ああ、よかった。岩戸が開きましたか」
「えっと、あの・・・・・・すみません、でした・・・・・・」
店主の人の好い笑顔に、燕は赤面して恐縮する。
「ほんと、すんませんでした・・・・・・こいつ、こんな無茶しやがって」
「いえいえ、元気がよくてご友人思いで、小さいときの薫さんを見ているようでしたよ」
「いやこいつと薫は全然似てないし」と弥彦は内心で反論したが、燕は店主の言葉に嬉しそうに口許をほころばせた。

「・・・・・・で、あの、改めて頼みがあるんだけれど・・・・・・このかんざし、一日だけ貸してほしいんだ。ちゃんと借り賃は払うから」
弥彦は店主に、薫のかんざしを壊してしまったという非常事態について打ち明けた。薫には、祝言が終わった後に正直に話すから、せめて今日一日の間だけは隠し通したい、と。


店主は、うんうんと相槌を打ちながら弥彦の話を聞いていた。
そして事も無げに―――「そういう事でしたら、借り賃はいりませんよ」とのたまった。


「「え・・・・・・?!」」
弥彦と燕は揃って驚きの声をあげ、ついでに揃って湯呑みを取り落としそうになる。

「他ならぬ薫さんと剣心さんの祝言ですからね。そういう事情でしたら、わたしも協力させていただきましょう」
彩月堂の店主にとっては、剣心と薫は親しい馴染みの客であり、盗まれかけた商品と誘拐されかけた娘を取り返してくれた恩人である。その彼らのために一肌脱ぐのは、店主にとっては当然のことらしい。
燕は「よかったぁ・・・・・・」と、へなへなとその場にへたりこみ、弥彦は「何のための今の騒ぎだったんだよ・・・・・・」と複雑な顔で唸った。





そのタイミングで店の奥から「お茶請けはいかがですか」という店主の娘の声がした。
結果として、言わなくてもよかったあれやこれやを燕にぶちまけてしまった弥彦は、なんだか自棄になったような気分で「いただきます!」と返した。











5 へ続く。