おや、と剣心は竃を覗いていた頭を上げた。
玄関の方から薫の「ただいま」の声が聞こえた。それに続いて廊下を走る足音。
自分の姿を探して台所まで来るだろうなと思った。しかし、足音は別方向へと遠ざかる。
「・・・・・・道場のほうかな?」
今日は出稽古だった筈だが、帰ってくるなりまた稽古をするつもりなのだろうか。
まだ、出会ったばかりの彼女のことを、よく知ってはいない。
まだ、この家に身を置くようになってから数日しか経っていない。
けれど、それでも今日の薫の「ただいま」は、どこか雰囲気が違うように思えた。
剣心は少し考えたのち、いい頃合になっている鍋を火から下ろして、夕食の支度を中断した。
道場から聞こえてきたのは、竹刀が空を斬る素振りの音。時折、薫の唇から漏れる短い気合の声が混じる。
剣心は、道場へ続く戸の前で足を停めた。
さて、入ったものかどうしようかと少しの間考えていると、中から聞こえる音が変化した。
がらん、と竹刀が硬い床に落ちて転がる音。
幾許かの静寂。
そして―――
「・・・・・・薫殿?」
微かに、ほんのかすかにだが、泣いているような彼女の声。
それが耳に届くなり、剣心は殆ど反射的に道場の戸を開けていた。
薫の姿を探す。
視線を少し下へおろすと、道場の片隅、壁に背中を寄せて、膝を抱えて座り込む彼女がいた。
「・・・・・・入るでござるよ?」
小さな声でそう断って、そっと近づく。
白い道着に包まれた肩の片側を、長い黒髪が隠している。その細い肩は、僅かに震えていた。
「何か、あったでござるか?」
膝にうずめている顔は見えない。が、泣いていることは明白だった。
「こっち、来ないで」
くぐもった声は確かに涙声だったけれど、どこか怒ったような響きがあった。
ひとり泣いている場面に、居候にずかずかと踏み込んでこられるのは迷惑かもしれない。
下手に構われるより、涙がひくまでそっとしておいて欲しいのかもしれない。
―――けれど。
剣心は、「来ないで」と言った彼女の横に、黙って腰をおろした。
すぐ隣に感じた気配に、薫の肩がぴくりと動く。しかし、咎める言葉は発せられない。
拒絶されないことを確認した剣心は、なにも言わず、ただ薫の横に座っていた。
まだ、彼女のことをよく知らない。
でも、子供みたいにうずくまって泣いている薫を放っておきたくなかった。
―――もし、俺がこの娘の恋人だったら、こんなとき抱きしめて、慰めてやることができるのにな。
ごく自然にそんな事を考えて―――そんな事を考えた自分に剣心はひどく驚いた。
そんなふうに心が動いたのはとても久しぶりだったから。
他人から距離をとって生きるのが、いつしか当たり前になっていた。
誰も心の中に住まわせないように。
誰の心の中にも踏み込まないように。
それなのに―――
剣心は、迷った末に手をのばした。
きつく結った黒髪に触れて、子供にそうするように、頭を撫でる。
びく、と。また彼女の肩が震えた。
怒られるかな、と思ったが、手は振り払われなかった。
膝を抱えたまま、何も言わずされるがままになっている。
どのくらい、そうしていただろうか。
不意に、薫の背中が動いて、彼女が何かの合図にするようにゆっくりと息を吐いたのがわかった。
「・・・・・・剣心」
「うん?」
「今から、顔、あげるけど・・・・・・みっともないから、こっち見ないでね」
「わかったでござる」
頭から手をのけると、薫は手のひらで顔を隠しながらそろそろと首を起こす。
「・・・・・・って、見ないでって言ったじゃない!」
殴られた。
握った拳で、かなり本気で。
「痛たた・・・・・・いや、すまない。でも何故?」
「も〜! 決まってるじゃない! こんなひどい顔してるのにぃ!」
どつかれた頭をさすりながら訊くと、どうしてそんな決まりきった事をといった口調の答えが返ってきた。
きっと、素振りをしながら既に泣いていたのだろう。頬は涙でがびがびだし、鼻の頭も大きな目も真っ赤になっているし、確かにそれは「ひどい顔」と
いえるかもしれないが、でも。
「・・・・・・ごめんね」
「え」
「その、殴っちゃって・・・・・・ごめんなさい」
剣心は、自分の頬に血が上るのを実感した。
涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、小さな声で謝る彼女。
その、「みっともない」泣き顔を、
かわいい、と思ってしまったのだ。
「・・・・・・なに赤くなってるの?」
「あ、いいいいいやその、薫殿元気になってよかったでござるなぁ」
「んー、元気、ねぇ」
剣心を殴った右手で涙の残る目をこすりながら、薫は「確かに」と苦笑した。
「ほら、ここは冷えるでござるよ。もうすぐ夕飯ができるから、顔を洗ってくるといい」
「うん、ありがとう・・・・・・ねえ剣心」
「ん?」
「ご飯食べながら、聞いてくれる? もう、今日はわたし頭にきちゃって!」
鼻をすすりながらであったが、その声にはいつもの張りが戻っていて剣心は安堵した。
どうやら涙の原因は哀しみよりも「怒り」の方向のようだ。詳しくは後ほど聞くとして、とりあえずは夕食の席で愚痴って気が済むような程度の話で
よかった。傷つく彼女を見るのは、嫌だったから。
「でも、よかった」
「え? 何がでござる?」
薫のあとをついて廊下を歩いていた剣心は、彼女の台詞に心中を見透かされたような気がして、どきりとする。
「剣心がいなかったら、わたしきっと今頃、ひとりでめそめそ泣いて過ごしていたわ」
そう言って振り向いた薫は、涙で少し腫れぼったくなった目で、笑った。
「剣心がいてくれて、よかった」
くるりと前を向いた動きを追うように、結んだ黒髪が一拍置いてふわりと踊る。
かわいいのは、泣き顔だけではなかった。
廊下の真ん中に突っ立ったまま剣心は、たとえ殴られたとしても、やはり先程は抱きしめておくべきだったかと考えて―――そんな自分に、また驚
いた。
モドル。