眼鏡を壊されたので足元が危ないのと、万一先程の男たちが待ち伏せでもしていたら事なので、剣心は彩月堂まで送ると店主に申し出た。
店主は恐縮したが、彼は彼で剣心に語って聞かせたいことが色々あったようで、歩き出して間もなく、口火を切った。
「彼等は『仕事』と言っていましたから、おそらく誰かに雇われたのでしょう。わたしを痛めつけるように、と」
「心当たりがあるのでござるか?」
「まぁ、大体は・・・・・・品物を買い取るのに、先方の希望に添わない金額になることも、ままありますので」
そう言って、店主は苦笑した。
古美術品などを買い取って欲しいという依頼があった場合、店主が直接目利きをして値段を決めているのだが、その値が先方にしてみると「もっと高く売
れると思っていたのに」という事もある。
「と、申されましても、こちらとしては適切な値付けをしているだけなのですが。どうもわたしは、そのあたりの融通がきかないようでしてな」
要は、扱う品に対する目が厳しいということなのだが、それに対して先方が憤慨することもある。時には今回のように、恨みを「報復」に移されることもあ
って―――
「お恥ずかしいことに、数年前にも同じような目に遭いましてな。その時に助けてくださったのが、薫さんのお父上だったのですよ」
先程の貴方と同じようにね、と店主は微笑んだ。きっとここからが、話の本題なのだろう。
剣心と同様、偶然その場に居合わせた薫の父親はならず者たちを撃退し―――そして店主に謝った。
これまた剣心と同じく、差し出がましい真似をしてしまってすまない、と。
「今日もそうでしたが、毅然としていただなんてとんでもない。ただの痩せ我慢で虚勢を張っていただけでして・・・・・・だから、あの時も今日も、地獄に仏
の気分だったのですよ」
「そんな、大袈裟でござるよ」
「それにしても、助けてくださっただけではなく、その後の台詞までそっくり同じとは驚きましたなぁ。さすが、お父上の眼鏡にかなった方だ」
薫の父親の話が興味深くて、剣心は頷きながら店主の話に耳を傾けていたが、最後の一言にもそのまま頷いてしまいそうになり、慌てて訂正した。
「いや、違うでござる。拙者は父上殿に面識はなくて・・・・・・」
「おや、そうなんですか?」
店主は驚いて剣心の顔を見る。そして納得いかない様子で首をひねった。
「道場にいらっしゃると紹介されましたので、わたしはてっきり・・・・・・お父上が生前に決められた婿殿だと思っていたのですが」
「い、いやいやいや! 違うでござる! 拙者は薫殿とは決してそういう間柄ではっ!」
更に慌てて訂正すると、店主はますます不思議そうにうーんと唸る。
「そうなんですか・・・・・・いや、それにしても・・・・・・一昨日おふたりでいらしたとき、久しぶりにあんな薫さんを見たものですから」
「薫殿が、どうかしたでござるか?」
一昨日、彩月堂に人形を見に行ったときのことを思い返してみる。
特に、店主に勘違いをされるような会話を薫と交わした記憶はないのだが、いったい何故―――?
「・・・・・・薫さんのお父上が、この前の戦争で亡くなったのは、ご存知ですか?」
「ええ、それは。薫殿から聞いているでござる」
「父ひとり子ひとりでしたからなぁ。あの当時の薫さんの悲しみようといったら、見ているこちらのほうが辛くなる程でしたよ」
母親は、それより早くに亡くなっている。父の死で、薫は独りになってしまった。当然嘆きは深かったが、それでも彼女はじきに泣くのをやめて、父の流
派を守ってゆくことを心に決めた。
彩月堂にも「道場はわたしが続けることにしました」と報告に来てくれた。店主は薫のしゃんとした様子を目にして、とりあえずはほっとしたのだが―――
「薫さんは小さい頃から、『看板娘』に会いに度々足を運んでくれておりましたが、元気で明るくて、よく笑う子供で・・・・・・娘さんらしくなって剣術小町と呼
ばれるようになっても、それは変わらなかったのですが」
だからこそ、店主は彼女の変化にすぐ気づいた。
父親が亡くなってからというもの、薫は笑顔を見せることが、すっかり少なくなってしまった。
それは、無理もないことだろう。まだ十代の少女なのだ、突然に家族をすべて失ってしまった哀しみはそう簡単に拭い去れるものではない。
どんなに気丈に振舞っていても、消えてしまった笑顔が彼女の抱く喪失感を如実にあらわしていた。
「わたしにも同じ年頃の娘がおりますので、なんだか他人事のようには思えなくて心配していたのですよ。でも一昨日、ようやく安心しましてな」
「・・・・・・あ」
思わず知らず呟いた剣心に、店主は柔和な目を向けて頷く。
あの時、薫は笑っていた。
花びらのような唇をほころばせて、それはとても嬉しそうに楽しそうに、笑っていた。
「あんな顔を見るのは、本当に久しぶりでした。きっとそれは―――あなたと一緒にいるからなのだろうと思いまして」
なんと答えたものか、と剣心が次の言葉に迷っていると、店主が足を止めた。
「申し訳ありませんが、少々お待ちいただけますか? ちょっと奥から取ってくるものがありますので」
剣心が首を横に巡らすと、華やかな振袖を身にまとった「看板娘」と目があった。
いつの間にか、ふたりは彩月堂に到着していた。
★
「ふぅん、そんな事があったんだぁ」
出稽古から帰った薫に、剣心は今日の出来事を話して聞かせた。
勿論「婿殿」云々のくだりは伏せておいたが―――薫は、剣心の話に感じ入ったように息をついた。
「うっすらとだけど覚えているわ。父さんが『偶然ご主人を助けてしまった』って言っていた事があって・・・・・・」
その時は、何故「助けた」のではなく「助けてしまった」なんて言い方をするのだろうか、と不思議に思ったものだったが、剣心の話を聞いた薫は数年越
しに父親の心情を理解することとなった。
「まさか、今になって謎が解けるとは思わなかったわ・・・・・・剣心のおかげね、ありがとう」
久しぶりに亡父の話を聞けた薫は、嬉しそうな顔で剣心に礼を言った。剣心はくすぐったそうに肩をすくめて、そして懐からごそごそと何かを取り出した。
「それで、こんな物をいただいてしまったでござるよ」
「なぁに?」
剣心が差し出したのは、紫色の袱紗だった。受け取ると、軽いが、何か小さくて硬いものが包まれている気配がした。指先で開いてみると―――中に
あったのは、小指の先程の大きさの、乳白色の石がふたつ。
「うわぁ、きれい・・・・・・!」
薫はため息とともに、感嘆の声をあげる。
ふたつの小さな石は楕円に近いかたちに整えられており、灯りを反射して柔らかく輝いていた。色合いは微妙に異なっており、ひとつはより白に近く、も
うひとつはうっすらとあたたかな桜色を帯びていた。
「お礼にもらったの? でも、これって高価いものなんじゃないの・・・・・・?」
「うん、拙者もそう尋ねたのだが、そういう訳でもないらしくて・・・・・・店で買い物をした人に渡している『おまけ』の品だそうだ」
店主いわく、長い時間をかけて生まれた綺麗な石は、御守りになるらしい。
宝石のようなかしこまった品ではないとはいえ、それでも剣心は遠慮したのだが、差し出された石はふたつである。「薫さんにも差し上げてください」と言
われてしまったものだから、いよいよ断るわけにはいかなくなったのだ。
「薫殿、どちらがいいでござるか?」
「いいの? わたしも貰っちゃっても」
「勿論でござるよ、なんだったらふたつとも薫殿が持つといい」
「え、駄目よそんなの! 御守りなんだから、ちゃんとひとりにひとつずつじゃなきゃ!」
そう言いながら、薫はどちらの石にしようか真剣に悩んでいる。石に視線を落とす薫の睫毛を見下ろしながら、剣心は先程の店主の言葉を思い出してい
た。
「これはお礼です」、と。
奥から袱紗包みを持って戻ってきた店主は、そう言った。
危ないところを助けてくれたことへの礼と―――薫の笑顔を取り戻してくれたことへの、礼だと。
そして、僭越ですがと彼は続けた。
「薫さんをよろしくお願いします。貴方のような方が傍にいてくださったなら、お父上も安心されることでしょう」
自分に、そんな資格があるとは思えない。
けれど、お人好しで危なっかしい彼女が心配だったのと―――薫の「ここにいて欲しい」という言葉に甘えてしまった自分としては、なんだか「許し」を貰
えたような気がして、なんとなく安心した。
自分は、ここにいてもいいのだという、許しを。
「・・・・・・決めた! こっちにする!」
薫が選んだのは、ほのかに桜色がかったほうの石だった。
「大事にするわね。ありがと、剣心」
そう言って、薫は笑った。
初めて会ったときは、怒りっぽくて無愛想な娘なのかと思っていた。
でも、そうではなくて。こんなふうにきらきらと笑うのが、本来の彼女の姿なのだろう。
そして、笑うと―――彼女は、とても綺麗だ。
許されることなら、もう少しの間、ここにとどまって。
もう少し―――この笑顔を見ていたい。
「御守り」の白い石を手のひらに包みながら、剣心は、そう思った。
了。
おまけ(翌日) に続く。