はじめて繋いだ彼の手は、大きくて乾いていて、あたたかくて。
        きゅっと、力をこめて握られても、嫌な感じはしなかった。

        なんだか、足元がふわふわするような感じがして、胸の奥がきゅーっとして。
        凄く落ち着かないんだけれど、でも離してほしくはなくて。



        ―――どうしよう、わたし、嬉しいんだわ。
        ―――どうしよう、それって、つまり・・・・・・わたし、そういうこと?



        「・・・・・・どうしよう」
        思わず声に出して呟いた薫に、剣心は「まったく、どうしたものかなぁ」と返した。

        手を繋いで走るふたり。
        その後ろから追いかけてくる、ひとりの警官。
        ・・・・・・確かに、今はまさに「どうしよう」な事態なわけだが。



        それにもかかわらず、剣心に手を引かれている今の状況に胸をときめかせている、そんな自分に気づいてしまって―――
        薫は、彼とは違った意味合いで、もう一度「どうしよう・・・・・・」と呟いた。











        
おまけ (翌日)










        「・・・・・・こっち、見ていない?」
        「・・・・・・ああ、見ているでござるな」



        ふたりがちらちらと様子を窺う、その視線の先にいるのは、ひとりの巡査だった。
        気温は低いものの、からりと晴れた昼下がり。大通りは行き交う人々で賑わい、街は平和そのものである。
        しかし、大勢の通行人たちが歩くなか、その警官は確実に剣心と薫を凝視している。
        警官に注目される理由といえば、やはり―――

        「・・・・・・薫殿」
        「え?」
        剣心が警官に背を向けると同時に、逆刃刀がかしゃんと鳴った。距離からいって、それが聞こえたとは思えないが―――まるでその音を合図にしたか
        のように、警官がこちらに向かって足を踏み出す。

        「逃げるでござるよ」
        「きゃ!」
        ぱし、と剣心は隣に立つ薫の手をとり、彼女を引っぱるようにして走り出した。


        剣心が剣客警官たちに因縁をつけられ、路上で大立ち回りを演じたのはつい数日前のこと。騒ぎが起きたきっかけは、巡査に刀を見咎められたことだっ
        た。あの時は山県卿の登場で場が収まり、剣心は無事にその場を後にしたが、今も帯刀していることに変わりはない。つまりは、廃刀令違反である。

        薫の先に立って、剣心は走る。肩に巻いたショールが落ちないように押さえながら薫がちらりと後ろを見ると、警官が追いかけてくる姿が見えた。雑踏の
        中、人波をすり抜けるようにして手を繋いで走るふたりに、すれ違う人は道を開けながらも不思議そうな目を向けてくる。中には好奇の色を含んだ視線も
        混じっていて、薫は自分の頬が上気してゆくのがわかった。



        やだ、どうしよう、恥ずかしい。
        こんな、人がいっぱいいる中で手を引かれて。
        いや、考えてみるとこんなふうに男のひとに手を握られるのって、初めてじゃないかしら。


        剣心は男性にしては小柄なほうだが、こうしているとその手は、自分のそれよりずっと大きいことがわかる。
        乾いていて、あたたかくて、力強い。
        人の目があるのは恥ずかしいけれど、何故だろう、こうしているのは嫌じゃない。
        ますます熱くなってゆく頬。それは恥ずかしさの所為だけではないということに、薫はもう気づいていた。



        ―――どうしよう、わたし、このひとにこうされることが、嬉しいんだわ。



        もう少し、このまま離さないでいてほしい。
        こんな状況だというのに、ついそんな事が頭に浮かんでしまい薫は慌てた。そう、今はまさに「こんな状況」なのだ。
        追いかけてくる気配が、先程より近くに感じられる。警官との距離が、縮まっている。このままだと、じきに追いつかれてしまうだろう。

        薫は、女性にしては足は速いほうだ。しかし、今は剣術の道着ではなく普段着なので思い切り足を踏み出せない。油断すると肩のショールが落ちてし
        まいそうで、そちらも気にしながら走っているから思うようにスピードが出せない。でも、剣心に無理に引っぱられるような感じはなくて―――つまり、彼
        は薫に合わせているのだろう。その気になれば、剣心ならもっと早く走れる筈なのに。


        「・・・・・・ご、ごめんね剣心」
        走りながら謝ると、剣心はちらりと薫のほうを見て「何がでござる?」と不思議そうに尋ねた。
        「だ、だって、わたしがいなかったらすぐに逃げられたでしょ・・・・・・」

        口には出さなかったが、剣心は内心で「確かに」と呟いた。それは薫を責めているのではなく、その全く逆で―――何故、自分は彼女を巻き込んでしま
        ったのか、と思ったのである。
        警官が用があるのは、間違いなく自分だ。ならば逃げ出すとき、彼女の手を取るべきではなかったのだ。自分ひとりなら逃げ切れただろうし、薫に迷惑
        をかけずにも済む。互いに戻る先は道場とわかっているのだから、はぐれる心配だってないわけだし。それなのに―――


        「手、離して・・・・・・わたしは大丈夫だから。もしあの警官に何か訊かれても、適当にごまかすから・・・・・・」
        「いや、駄目でござる」

        少しも乱れないままの息で、剣心はきっぱりと言い切った。
        彼女の手を取ったのは、正しい判断ではなかったかもしれない。しかし、自分は殆ど反射的に薫の手を掴んで走り出してしまった。反射的に、彼女を置
        いていってはいけない、と感じたからだ。ならば最後まで―――その直感に従うべきだ。



        「薫殿を置いてゆくのは―――嫌でござるよ」



        僅かに、握った手に力が加わったように感じた。
        薫の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。それは、走っている所為ではなくて―――



        「っ、きゃあ!」
        ぐい、と後ろから引っぱられる感覚に、薫の足が止まった。
        追いついた警官の手が、ショールの端にかかった。

        バランスが崩れて、転びそうになる。
        傾いた身体を支えたのは―――剣心だった。


        どう、動いたのだろうか。薫の手をひいて走っていた剣心は、異変に気づくや直ぐに手を離し、転びかけた薫を抱きとめた。
        そのまま、彼女と警官の間に割って入り、薫を素早く自分の背に隠す。警官は既に、驚いてショールから手を離していた。

        「用があるのは、拙者にでござろう。このひとには手を触れるな」
        剣心は、刀こそ抜かなかったが、薫を後ろにかばいながら右手を肩の高さに構えて隙のない防御の姿勢をとる。
        それに対峙した警官は、一瞬ぽかんと呆気にとられた表情になって、それから「ああ、いや、違います」とぶんぶんと顔の前で手を振った。そして制服の
        ポケットに手を突っ込み、中から取り出した何かを剣心に差し出す。



        「これ、落としませんでしたか?」
        彼が持っていたのは、畳まれて糸がかけられた懐紙だった。



        「・・・・・・おろ?」
        「・・・・・・あら?」

        剣心と薫が同時に呟く。
        警官は「いやぁお急ぎのところ申し訳ありません、でも追いついてよかったです」と、人の好い顔で笑った。









        ★









        「剣客警官隊の騒ぎがあった際に、署長が逆刃刀は安全なものであるから不問に処すと判断を下しておりまして・・・・・・ご存知なかったですか?」


        警官の説明に、剣心と薫は揃って首を横に振った。
        「そういうわけで、帯刀に関しては今後も問題ないという事になっていますので・・・・・・いや、わたくしも先日の立ち回りは目にしておりまして、実に見事
        でありました」
        興奮した様子で喋る警官はまだ若く、警官というよりは書生さんといった風情である。
        ひょっとしたら、暴れ者揃いの剣客警官隊の専横を良く思っていなかったのかもしれない―――と、ふたりは想像した。
        「それでは、今後も街の安全のため、宜しくお願いいたしますっ!」
        明らかに立場が逆の台詞で、しかも敬礼つきで見送られ、剣心と薫は恐縮しつつ警官と別れた。


        「・・・・・・とんだ早とちりでござったな」
        「ほんとね、わたしもてっきり・・・・・・」
        ふたりは肩をすくめて笑いあったが、ふと剣心は眉を寄せて「しかし、良かったのでござるかなぁ」と呟いた。
        「え、何が?」
        「逆刃刀でござるよ。お咎め無しなのは助かるが、警察に黙認して貰ったというのは、何だかズルをしているような気が」

        無闇に力をふりかざす横暴な行為を嫌う剣心としては、廃刀令違反なのにもかかわらず、逆刃刀を「国家権力」である警察に認められたことを、素直に
        喜べないのだろう。だからといって、罪に問われて捕まえられたいわけでもなく、彼としては複雑な心境なのだろうが―――薫は剣心の生真面目さが
        可笑しくて、つい吹き出しそうになった。

        「でも、さっきの警官さんも『街の安全のため』って言ってたじゃない。それって、剣心の『目にとまるひとを守りたい』って事とぴったり一緒なんだから、良
        かったんじゃないの?」
        薫の発言に剣心ははっとしたような顔になり、「それもそうでござるな」としきりに頷いた。
        山県卿は彼を陸軍に迎えたがっていたようだが、こんな性格で幹部にでもなろうものなら、周りに気を遣いすぎてさぞ苦労するだろうに―――と、薫はそ
        の様子を想像して、また笑った。


        「せっかく認めてもらったんだから、ありがたく受けてもいいんじゃない? ほら、それのご利益だと思って」
        「それ」とは、先程剣心が落とした紙包みのことだ。中身は、彩月堂の店主から貰った御守りの石である。
        そもそも、ふたりは石のお礼を言うのと袱紗を返しにゆくため、彩月堂に向かっている途中だったのだ。


        「そうでござるな・・・・・・早とちりで逃げる羽目になったのは、落としたバチが当たったせいかもしれないが」
        「帰ったら、御守り袋作ってあげるわよ。そのほうが落としにくくなるでしょ」
        「・・・・・・薫殿がでござるか?」
        あからさまに疑わしい顔をされて、薫はじとりと半眼で剣心を睨みつけた。
        「ちょっと何よ、わたし一応、お裁縫は人並みにできるつもりなんだけど?」
        「あ、いや、これは失礼いたした」
        慌てて取り繕うように謝る剣心の顔を眺めながら、薫は「わたしも自分用に、お揃いのを作ろう」と心の中で呟いた。








        その後ふたりは無事彩月堂に到着し、剣心は店主に「早速ご利益があったでござる」と報告したが、薫は薫で別の「ご利益」について考えていた。


        きっと今、わたしの中で、今まで知らなかった種類の感情が動き出している。
        薄々自覚はしていたけれど、さっきの出来事は、改めてその感情に気づかせてくれた。
        だから、そういう意味でも―――あれは御守りのご利益だったのかもしれない。




        初めて、彼に握られた手。




        その手のひらを、そっと自分の胸に寄せて、もう片方の手で包み込む。
        まだ指先に残っている剣心の手の余韻を感じて、薫はこっそり頬を染めた。
















        Smile please 了。





                                                                                         2013.02.06










        モドル。