どうも、落ち着かない。



洗濯物を干しながら、剣心は時折ちらりと後ろを振り向く。
その度に、ぱちりと薫と目が合う。そしてその度に、するりと目を逸らされる。
しかし、剣心がまた前を向くと―――背中に感じられる、はっきりと強い彼女の視線。


先程からずっとこの繰り返しで、どうにもこうにも落ち着かない。








かわいい仕返し








「・・・・・・薫殿、さっきからどうしたのでござる?」
落ち着かないので、手を止めて尋ねてみる。
「ん?別に、なんでもないわよ?」
返ってくる答えも、同じ。このやりとりも、もう何回か繰り返している。

少し前まで弥彦に稽古をつけていた薫は、道着から普段着に着替えて縁側にちょこんと座っている。そのまま、特に話しかけるわけでもなく、ただ剣心の後ろ姿を見つめている。それこそ穴があくくらいに、ただ見ているというには不自然なくらい、じっと。
それが剣心にしてみると、気になって仕方ないのだが―――

「そうでござるかなぁ・・・・・・」
釈然としない様子の剣心は、屈んで桶の中から絞った洗濯物をいちまい手に取った。

薫は、桶の中身が空に近づいていることに気がつき、慌てたように腰を浮かせた。立ち上がりかけて、しかし躊躇する。そんな事を何度か繰り返した後、「ええい!」と小さく気合いを発して庭に降り立つ。
ずんずんと歩み寄る気配に気づいて、剣心は首を後ろにまわす。

「薫殿?やはり何か用が―――」

尋ねようとした。
が、最後まで訊けなかった。

振り向くと、思いがけず近くに薫の顔があって驚いた。
細い腕が首に絡みつき、ぐっと前に引かれる。



口づけられた、と。
そう理解するのに、少々の時間を要した。



息をつめて、きつく、ひき結ばれた唇。
自分からぎゅっと抱きついてきたというのに、緊張しているのだろうか、薫はがちがちに身を固くしている。
とはいえ、彼女のほうからこんな真似をするのは珍しいことだったから―――剣心は咄嗟に応えることもできず、ただただ驚いて、目を閉じることも忘れて固まっていた。

どのくらい時間が経ったのか―――いや、実際はほんの数秒間のことだったのかもしれない。
やがて、薫の腕からふっと力が抜ける。重ねた唇が離れて、零だったふたりの距離が僅かに広がる。
近すぎてわからなかった互いの表情を、確かめることができるくらいの距離に。


相変わらず、驚いた顔のままの剣心。
そして薫は―――みるみるうちに、ぱあっと頬に朱がさして、可哀想なくらい真っ赤になった。



「・・・・・・ごめんなさいっ!」



ぎゅっと目を閉じた薫は、今の今まで抱きついていた腕で、どーんと剣心を突き放す。そのまま赤く染まった顔を隠すように回れ右をし、縁側に向かって駆け出した。

よろめいた剣心は、その拍子に我に返る。
手にしていた洗濯物を放り出し(ずっと持ったままだった)、薫を追いかけようとして踏み出した足を思い切り桶にぶつけながらも(結構痛かった)、勢いよく地を蹴った。一瞬の間は開いたものの、それでも剣心が追いつけないわけはない。速度をゆるめずに縁側に飛び乗り、奥の部屋に逃げ込もうとする薫に向かって、手を伸ばす。

「きゃ・・・・・・!」
どん、と。
薫が開けようとしていた襖に両腕を突き、逃げ道を塞ぐ。その音と衝撃に怯んだ薫は、びくっと身をすくませた。


「やっ、ごめんなさい剣心!今のは忘れてー!」
「いや、薫殿、忘れてって、どうして・・・・・・?」
「ううう〜いいからもう訊かないで〜!」
「そういう訳にはいかないでござるよ、だって」

剣心は、どう言ったらよいのかと考え、いちど言葉を止めた。
首筋に残る、ぎゅっと抱きつかれた腕の余韻。もちろん、唇にも。



「せっかく薫殿からしてもらったのに、忘れるなんて、嫌でござるよ」



考えた末に出てきたのは、一番素直な言葉だった。
襖と剣心との間に閉じ込められて、身を縮こまらせていた薫の肩が、ぴくりと震える。
「忘れるなんて・・・・・・そんな、勿体ないこと、できない」
それが、駄目押しだった。
黙りこんでいた薫は、襖に額を押しつけて剣心には背中を向けたまま、彼の顔を見ずに「説明」を始める。

「・・・・・・仕返しの、つもりだったの」
「え」
「剣心って、いつもわたしに突然、その・・・・・・抱きついたり口づけたりするじゃない。前触れもなく、いきなり」
「・・・・・・」


確かに、している。
だって、不意打ちに抱きついたり口づけたりした時の薫の反応といったら、もう、とびきり可愛いのだから。

他人でなくなって久しいというのに、そんな風に触れたときにはいつも真っ赤になって逃げ出そうとして。けれど、それを許さずに抱きしめ続けると、やがて微かに震えながら精一杯応えてくれて。
そのいじらしさがたまらなく愛おしいから、だからつい、悪戯を仕掛けてしまうのだが―――

「だから!悔しいから同じことをしてやろうと思ったの!でも、不意打ちするのって難しくて・・・・・・」
「ひょっとして・・・・・・ずっと見ていたのは、じゃあ」
「だって、なかなかきっかけが掴めなかったんだものー!」


貼り付くようにして後ろ姿を見つめていたのは、不意をつく機会を窺っていたから。しかしきっかけが掴めないまま、剣心が洗濯物を干し終わりそうになってしまったから―――意を決して、抱きついた。


「あーん!それなのに剣心、全然動揺しないんだもの!せっかく思い切ったのに、悔しーいー!」
襖をどんどん叩いて悔しがる薫に対し、剣心はぶんぶんと首を横に振る。
「何を言って・・・・・・拙者めちゃくちゃ動揺しているでござるよ?!」
「うーそー!」
「嘘じゃなくて!その証拠に・・・・・・ほら、足元・・・・・・」

そう言って剣心は、襖に突いていた両腕を離し、薫の拘束を解いた。
「あしもと・・・・・・?」と、つぶやきつつ剣心の方に向き直った薫は、視線を下に落とし―――目を丸くする。


畳を踏みしめている剣心の足は―――土足だった。


「・・・・・・草履、脱ぐのも忘れるくらい慌ててたの・・・・・・?」
「だって、薫殿が逃げるから」
そう言った口調がなんだか子供みたいだったから、薫はついつい笑ってしまった。そして、両手で自分の頬をはさむようにして「よかったぁ・・・・・・」と息をつく。手のひらで覆った頬は、未だに赤く染まったままだ。


「ちょっとでもびっくりさせられたなら、思い切った甲斐があったもん・・・・・・」


まるで、大仕事を終えたような充足感にあふれた台詞。
だから、びっくりしたのはちょっとどころではないというのに。
と、いうか。
そんな事に「仕返し」をしようとするなんて、そんなの―――

剣心は、草履を脱いで庭のほうに放るなり、薫の両の手首を掴んで顔からはがした。
驚く間も与えずに、ぎゅっと抱きしめて唇を重ねる。

「ん、ん・・・・・・っ?!」
指で、首筋をくすぐるようになぞると、薫の唇が震えて細い声が漏れた。
そのまま舌で唇を割って深く求める。強ばっていた彼女の身体から、次第に力が抜けてゆくのがわかる。


まったく、君は。
そんな可愛い仕返しなどされたら、俺が「びっくりする」だけで済まないことなど、わかりそうなものだろうに。


「なにっ・・・・・・する、の・・・・・・」
息を継ぐ合間に漏れた抗議の声に、剣心は「仕返しの、仕返し」と唇の上で囁く。小さな頤の輪郭を辿って首筋の柔らかいところに吸いつかれて、薫はたまらず悲鳴をあげた。
「やっ・・・・・・これじゃあ仕返しした意味がないじゃない〜!」
「いや、実際驚かされたんだから、意味はあるよ」
「でも〜!」
これでは、いつものように剣心から悪戯を仕掛けられたときとまるきり同じ展開だ。薫が悔しそうに唇を噛むと、そこにもう一度剣心が自分のそれを重ねる。
「こんな仕返しなら、いつでも大歓迎でござるよ?」
「も、もうしないもんっ!」
「いや、本当に。驚いたし・・・・・・何より、嬉しかったから」

からかわれているものと思っていたのに、返ってきた声の響きが至極真面目なものだったから、薫は更に赤くなって、口をつぐむ。
首を傾げて彼の表情を窺うと、確かに、そこにあるのは真剣な顔。動揺したというのは―――嘘ではないらしい。

薫は、ふわりと目許を緩めると、首を前に倒した。ことん、と。剣心の肩に自分の頭を預ける。



当初の目的は、仕返しだった。
結果は、それとは大きく違ってしまったかもしれないけれど―――彼が「嬉しかった」と言うのなら、それはそれで悪くない結果だったのかもしれない。




「じゃあ、この次はもっと上手に、不意をつく・・・・・・からね?」




くすぐったい思いで呟くと、剣心はやはり大真面目に「期待しているでござる」と、返した。










(了)






モドル。