心願成就











        「弥彦くんは、なんてお願いしたの?」
        神社からの帰り道、そう尋ねたのは燕だった。

        「もちろん、もっと強くなりますように!だよ。お前は?」
        「わたしはね、今年もいい年でありますように・・・・・・って」
        「なんだそりゃ、フツーだなぁ」
        「普通だけれど・・・・・・去年はとってもいい一年だったから、今年もそうだったらいいなぁ、って思ったんだもの」
        「あー・・・・・・なんかあったか?そんないい事?」
        「いっぱいあったよ!ほら、たとえば・・・・・・」



        並んで歩く弥彦と燕の後ろ姿を眺めながら、剣心は「ふたりとも、また背が伸びたでござるなぁ」と、しみじみ呟く。
        「子供の成長って、ほんとに早いわよね」と薫が答えると、ぐるんと振り向いた弥彦が「今、子供って言ったか?」と睨んできた。薫は聞こえないふりをし
        て、腕に抱いた我が子に話しかける。
        「ねー、今に剣路もぐんぐん大きくなって、弥彦を追い越すんだもんねー」
        「親の身長を見ている限り、あまり期待できないよな」
        「・・・・・・弥彦くん」

        今までならここで薫の拳固が飛んでくるところだが、剣路を抱いた彼女に代わり燕が、きっと目に力を入れて弥彦を睨む。弥彦にとってはある意味、師匠
        の鉄拳より燕の視線のほうが肝が冷えるのだろう、それ以上は何も言わず肩を縮こまらせた。
        その様子に、剣心も薫も心の中で「成長したなぁ」と呟く。無論、これは燕の気性についてである。


        昨年も、その前の年も、元日は剣心と薫、弥彦と燕の四人で神社に詣でた。
        今年は、ひとり増えて五人でのお参りとなった。
        明治十四年、剣路が生まれて、初めての正月である。











        「よーし!見てろよ剣路ー!」


        神社の帰り、一行はそのまま河原に立ち寄った。
        目的は、凧揚げである。

        弥彦が糸巻きを握り、凧は剣心が持つ。剣心が風下に立ち、二人はせーのと合図をして駆け出した。
        手にした凧が、たっぷりと風を孕むのを感じたところで、剣心は押し上げるようにして手を離す。
        凧は、風に乗って宙へと浮かび上がった。




        「すごいすごいー!どんどん揚がっていくわねー」
        「操縦」は弥彦と燕に任せて、剣心は少し離れた場所から見守っていた薫の隣に並ぶ。母親の腕に抱かれた剣路は、寒風にぐずることもなく機嫌もよさそ
        うである。
        「あと何年かしたら、剣路も揚げられるようになるでござるかな」
        「楽しみねー、その時はまた津南さんにお願いして、絵を描いてもらいましょうね」
        薫が「ねっ」と言って顔を近づけると、剣路がきゃらきゃらと笑う。凧を作ったのは剣心だが、その絵を描いたのは津南である。見事すぎる風神の絵を見た
        妙が「贅沢すぎるわ」と悲鳴をあげたものだが、件の凧は弥彦がうまく風をつかみ、ぐんぐん上空へと昇ってゆく。


        「ねえ」
        「うん?」
        「剣心は、なんてお願いしたの?」

        そう問われて、剣心は凧から妻へと視線を戻す。先程、燕が弥彦にしていたのと同じ質問だ。
        「薫殿は、何を?」
        「わたしはね、剣路がすくすく元気に育ちますように、って。それと、これからもこんな幸せが、ずっとずっと続きますように、って・・・・・・あ、でもこれって欲張
        りだったかしら?」
        「欲張り?どこがでござる?」
        「ふたつ願い事するのって、欲張りじゃない?」
        可愛らしい心配に、剣心はつい笑ってしまった。「大丈夫、神様はそんな狭量ではないよ」と、薫の懸念をさらりと否定する。そもそも、こんな優しい願いを
        受け付けないような神様ならば信じる気にもなれないのだし―――いや、流石にそれは罰当たりな考えだろうか。

        「それに、その願い事はふたつではないでござるよ。どちらも同じ内容だから」
        「え、どういう事?」
        薫は意味がわからず、首をかしげる。
        「薫殿の言う『幸せ』とは、剣路の健康ありきでござろう?」


        薫の「こんな幸せ」とは、今の日常そのもののことだ。想い人と結ばれて、道場の門下生が増えて、はじめての子供を授かって―――大事な我が子が生
        まれてもうすぐ半年になるが、剣路は特別ひどい病気にもならず、よく寝てよくお乳を飲んで、元気にすくすく育ってきた。
        はじめての育児に、夫婦そろっててんてこ舞いの日々が続いているのも事実であるが、今はもう剣心も薫も、剣路がいない生活など考えられない。

        「そうね・・・・・・剣路がこのまま元気に育ってくれなきゃ、とてもじゃないけど『幸せ』とは言えないわ」
        「ほら、だから『剣路の健康』も『幸せ』も、おんなじ願いに含まれているでござるよ」
        いささか理屈っぽい気もするが、薫はなるほどと納得する。納得しつつ、「じゃあ、剣心のお願いは?」ともう一度訊いた。先に尋ねたのはこちらなのに、彼
        の答えを、まだ教えてもらっていない。
        問われた剣心は、薫にぐっと顔を寄せ、額と額をこつんと重ね合わせる。



        「薫殿が、いつも笑顔でいられますように・・・・・・で、ござるよ」



        薫は驚いたように長い睫毛を上下させ、それから、むぅっと眉間に皺を寄せる。
        「もう、そうやっていつも、人のことばっかり・・・・・・!嬉しいけど、ちゃんと自分のことをお願いしてよ!」
        「薫殿だって、剣路のことをお願いしたでござろう?」
        「したけれど!それとこれとじゃ話が違うでしょー!」
        抗議の意をこめて、薫は彼の額を自分のそれでぐいぐいと押し返す。
        剣心に、大事に思ってもらえるのは嬉しい。けれど、ずっと自分の幸せをないがしろにして生きてきた彼には、これからはちゃんと、彼自身の幸せを求めて
        ほしいのに。自分のことを二の次にしてまで、わたしの幸せを願ってほしくないのに―――

        しかし剣心は、薫のそんな反応を予想していたのだろう。手のひらで彼女の両の頬をはさみこむ。
        そして、「大丈夫、これはちゃんと、拙者のことも含めての願いだから」と、自信たっぷりに言った。


        「・・・・・・どういうこと?」
        「薫殿が笑っていないと、拙者は幸せになれないから」



        それは、先程の理屈と同じことだ。
        君が笑っていれば、俺はそれだけで笑顔になれる。君が悲しんでいたら、俺はきっと君より悲しくなる。

        君の笑顔なしに、俺は幸せになどなれないし、俺はずっと、笑顔の君の隣にいたいと思う。
        だから―――君の笑顔を願うことは、そのまま俺が、自分の幸せを願うことなんだ。



        「『薫殿の笑顔』も、『拙者の幸せ』も、おんなじ願いに含まれるから。だから、ちゃんと自分のことも願っているよ」
        「うーん・・・・・・言ってることは、解るんだけれど・・・・・・」
        今度は先程のようには、すんなり納得できないようだったが―――剣心は、そんな薫にもう一言を付け加える。



        「第一、薫殿だって―――拙者が幸せでないと、笑顔にはなれないでござろう?」



        薫は目を丸くして、そして今度こそ笑顔になった。
        自信たっぷりに言い切った剣心。その言葉は、数年前の彼の口からは、絶対に発せられなかっただろう。彼はずっと、自身が幸せになることを否定し続け
        てきたのだから。それどころか、いつその命が尽きても構わないと思いながら、生きてきたのだから。


        「・・・・・・そうよ。大体、あなたが傍にいてくれないと、わたしは笑顔になんかなれないわ。あなたがいるから、わたしは笑っていられるの」
        「それは、光栄でござるなぁ」
        「なおかつ、元気で笑顔でいてくれないと」
        「薫殿こそ、元気で笑顔でいてくれないと困るでござる」

        薫は、剣心に頬を挟まれたまま、くすくす笑った。
        「・・・・・・剣心、成長したわね」
        「そうでござるか?」
        「そうよ、すごい成長だわ」
        「かたじけないでござる」


        剣心は首を傾けて、そっと顔を近づけた。薫は目を閉じて、彼の口づけを受けた。
        川面を冷たい風が流れる冬空の下、ふたりはひととき寒さを忘れて互いのぬくもりしか感じられなくなる。しかし、程なく両親の間に挟まれるような格好に
        なっていた剣路が、自分を忘れるなと言うように泣き声をあげた。

        「おろろ、すまない剣路」
        「あらら、ごめんねー、窮屈だったわねー」
        よしよしと薫が剣路をあやし、「ほら、お姉ちゃんがあんなに高く揚げてるわよ」と川のほうを示してやる。剣心もそちらを見ると、弥彦から糸巻きを受け取っ
        た燕が凧を操縦しているところだった。風に乗った凧は、はるか高く高くへと上昇してゆく。
        弥彦より燕殿のほうが上手いのではないだろうか―――と、弥彦が聞いたら拗ねてしまいそうなことを剣心が考えていると、薫が「ねぇ」と瞳を動かした。


        「わたしたちのお願い、きっと叶うわよ。だってあの神社、わたしの去年のお願いも叶えてくれたもの」
        「おろ、去年は何と願ったのでござるか?」
        「はやく、剣心との赤ちゃんを授かりますように・・・・・・って」

        薫はうふふと笑ったが、剣心は月の数を指折りかぞえて、首を傾げる。
        「でも、剣路が生まれたのは八月でござるよ?正月にはもうお腹に宿っていたのでは」
        「いいの!無事に生まれてはじめて、授かったってことでしょう?」
        揚げ足とらないで、と薫は顔をしかめてみせて、剣心はこれはすまない、と神妙な面持ちで謝る。そして、ふたり揃って吹き出した。



        ―――今年の願いを、「欲張り」と言った薫。
        しかしそれを言うなら、俺のほうがよっぽど欲張りだ。


        昔は、自分のための幸せなど祈れなかった。自分の未来に思いをはせることもなかった。
        でも今は、沢山の願いがある。

        ずっと君と一緒にいたい。君にはずっと幸せでいてほしい。ずっと君の笑顔を守ってゆきたい。
        そして剣路が生まれてからは、我が子の幸せと健康を願うようになって、この子が成長してゆく様を、できるだけ長く見守っていきたいと思うようになって。


        沢山の願い。でも、それはつきつめれば、「愛するひとたちに幸せでいてほしい」ということだ。


        だから、神様に願うだけではなく、まず自分でできることをしよう。
        俺が笑顔でいることで、君も笑顔になれるなら―――俺はもう、自分が幸せになることを躊躇わない。



        「・・・・・・うん、きっと叶うでござるな。今年の願いも」



        そう言って剣心は、薫の肩を抱く。薫は「きっとそうね」と柔らかく微笑んで、甘えるように剣心の髪に頬を寄せた。
        願いを乗せるように、凧は風をはらんで高く昇る。
        寄り添いあう互いの幸せを祈りながら、ふたりはもう一度唇を重ねた。








        今のこの瞬間を、この日々を、ずっと守ってゆこう。
        ずっとずっと―――君と一緒に。











                                                                                           
2017.01.07







        モドル