縛









        「剣心先生は、今までどんなところを旅してきたの?」



        縁側に響く無邪気な声。質問を投げかけたのは、門下生のひとりだ。
        稽古は既に終わったけれど、もう少し仲間とのおしゃべりを楽しみたかったらしい三人ばかりが、今日はなんとなく居残っている。

        「そうでござるなぁ、色んなところに行ったでござるよ。北から南から、あちこちに」
        律儀に答えるものだから、門下生たちは少年らしい素直さで「京都には行ったことある?」「横浜は?」と質問を重ねてくる。
        「横浜にも行ったし、京都には薫殿も一緒に行ったでござるよ」
        なあ薫殿、と。剣心から振られた薫は「ええ、そうね」と返事する。
        「京都には友達も住んでいるから、何度か行ったことがあるわよ」
        「えー!いいないいなー!俺も行ってみたい!」


        知らないところに行ってみたい、遠いところを旅してみたい。その旅路に心躍る冒険があれば、より理想的だ。「男の子」がそんなことを夢見るのはごく自
        然なことで、流浪人としてそれを体験してきた剣心に憧れを抱くのも当然のことだろう。
        部屋の中から彼らの様子を眺めていた薫は、その目をやわらかく細めながら、ふと一昨年のことを思い起こした。


        「流浪人ゆえ、また何時何処に流れるかわからないが」
        剣心は、そう前置いて居候になった。
        一緒に過ごしてゆくうちにどんどん彼のことを好きになってゆき、それとともに不安もだんだん増していった。

        ずっと、自由に流れる旅暮らしをしていた剣心。
        いつかあなたは、こうしてひとつの場所に縛られているのが息苦しくなって、此処から出て行ってしまうのかしら。
        あなたとの出逢いが突然だったように、別離もまた突然やってくるのかしら―――と。


        一時期、そんなことを心配してばかりいるものだから、呆れた弥彦から「いっそ剣心に首輪でもつけておけ」なんて言われてしまったものだった。懐かし
        い記憶に、薫の口許に苦笑気味の思い出し笑いが浮かび、それと同時に腕の中の剣路が泣き声をあげる。その途端、ばっと振り向いた剣心が縁側か
        ら部屋の中へと飛んできた。
        「おむつでござるか?」
        「うーん・・・・・・おなかがすいたみたいね」
        その言葉に、剣心は門下生たちに向かって「では、昔話は終了でござる」としめくくる。彼らは名残惜しそうな顔をしながらも、口々に「さようならー」と挨拶
        をし縁側から下りた。

        剣心が障子を閉めると、薫は袷をくつろげて、剣路の口に乳房を含ませる。
        妻の隣に膝をついた剣心は、相好を崩してその様子を眺める。
        「これ、そんなに見てて楽しいもの?」
        お乳をやる姿を見ている顔は控え目に表現しても「締まりの無い顔」で、それが可笑しくて薫はくすくす笑う。しかし剣心は大真面目に「楽しいでござる
        よ」と答える。
        「いいものでござるなぁ。赤子が、乳を飲んでいる姿というのは」
        しみじみと、感に堪えないというような口調が可笑しくて、薫はまた笑う。
        「それは、自分の子供だからそう感じるんじゃない?」
        「ああ、確かにそうかもしれない」
        目許も口許もゆるませて、剣心は頷く。そして目線をあげて、薫の目を凝っと覗きこむ。

        「それに、薫殿がそうしている姿を見られるのが、嬉しいんでござるよ」
        「嬉しいの?」
        「うん、嬉しい」
        「・・・・・・そうなんだ」

        薫は口の端がひとりでに上がるのを自覚する。
        ―――ああ、彼のことを笑えない。わたしもきっと今、完全に緩みきった顔をしちゃっている。



        何年も、自由に流れる暮らしをしてきたあなたが、ひとつの場所に縛られるのは息苦しくないのかしら、と。
        彼と出逢って間もない頃、そんな不安が胸をよぎったこともあった。

        でもやがて、その考えがひどく益体も無いものだと気づいた。
        だって、剣心が流浪人になったのは、何にもとらわれない自由な立場で人を助けたかったからだ。ひとつでも多くの笑顔に会うために、償うために、流離う
        暮らしを選んだのだ。
        そう、彼は決して生来の旅人などではないのだから。


        「日に日に、大きくなっているでござるな」
        指先で、剣路の明るい色の髪にそっと触れながら、剣心が囁くように言った。
        「ほんとねぇ。毎日元気にお乳も飲んでくれてるし、このまますくすく育ってほしいわね」
        「楽しみでござるな」
        それは、とても優しい声音だった。
        薫に対して発する声とはまた違う、父親の声で、父親の顔をして、剣心は呟く。


        「剣路が毎年、歳を重ねて、もっともっと大きくなって、いつか拙者たちの背も追い越して・・・・・・そういうことが、今から楽しみでござるよ」


        その言葉に、薫はなんだか泣きたいような気持ちに襲われた。悲しいのではなく、嬉しくて。
        「・・・・・・そうやって大きくなって、いつかお嫁さんをもらって、この子もお父さんになるのかしらね」
        「ああ、そうでござるなぁ。そんな日が、いつか来るのでござるな」
        「わたしたちが、それまでしっかり守ってあげなくちゃね」
        「うん、勿論でござるよ」
        大きく頷く剣心に笑顔を返した薫は、瞳が潤んでいるのを気取られないよう、そっと目線を剣路のほうへと落とした。


        嬉しかった。
        剣心が、未来を「楽しみ」と思っていることが。
        剣路が成長するその先を、見届けたいと思っていることが。

        だってあなたは、自分の命を投げ出すことを何とも思っていなかった。
        いつ死んでもかまわないと思いながら、流浪の旅を続けていた。



        そんなあなたが、今は「生きる」ことにこんなにも執着している。



        わたしの存在、親しくなった人々、彼を先生と呼び慕う門下生たち、そして、剣路と―――
        それはあまり穏やかな表現ではないかもしれないが、あなたを「縛る」ものが増えてよかった、と。心からそう思う。
        あなたを「生きること」に結びつける、そんな存在が。

        贖罪のためなら、命を削ることも厭わなかったというのに。
        そんなあなたがこの地で生きることを選んで、父親になって、生きてゆくことに貪欲になって。
        その事が、こんなにも嬉しい。


        「・・・・・・剣心」
        「うん?」
        「わたし、あなたのお嫁さんになれて、よかったわ」
        彼からすれば、脈絡のない言葉だったかもしれない。
        しかし剣心は笑みを更に深くして、「拙者も、薫殿と一緒になれてよかった」と返す。


        あなたに愛されて、あなたの子供を産めて。
        あなたを「生きること」に縛りつける存在になれたことが、嬉しい。
        あなたが生きていることが、生きようとしていることが―――とても嬉しい。



        おなかがいっぱいになった剣路が、小さくげっぷをした。
        剣心は「おいしかったでござるかー?」と尋ねながら、満面の笑みで我が子を薫から抱き取る。

        着物の襟元を直しながら、薫は心のなかで改めて彼に感謝する。






        ありがとう。
        あなたが生きていることに、心からの感謝を。









        了。






                                                                                            2019.11.22






        モドル。