一説によると、最も心地よく目覚めを誘発する感覚は、「におい」なのだそうだ。
朝、起こされるときに耳元で銅鑼を鳴らされたとしたら、嫌でも飛び起きてしまうだろうが、そんな起こされ方は神経によろしいとは言い難い。しかし、い
い香りに優しく嗅覚を刺激されたならば、目蓋も自然に持ち上がるというものだ。
そういう意味では、今朝の薫は最高に心地よい起こされ方で、目を覚ますこととなった。
ふわり、と。寝室に届いたかすかな香り。
少しだけ開いた襖の間から漂ってきたのは、味噌汁の香りだった。
おいしそうなにおいに鼻孔をくすぐられ、睫がぴくりと震える。
朝食の支度をしている、いいにおい。
四肢をつつむ布団のやわらかさ、あたたかさ。
目蓋越しに感じる、昇ったばかりの朝の陽のひかり。
徐々に目覚めてゆく、身体の感覚。眠りから、ゆっくりと浮上する意識。
ああ、おいしそうだなぁおなかがすいたなぁ今朝のお味噌汁の具は何かなぁ、と。
まだぼんやりする頭でそんな事を考えて―――そして、薫はがばりと身を起こした。
「・・・・・・あああー・・・・・・」
隣に、剣心の姿はなかった。
今まさに、朝食を料理しているにおいが漂っているのだから、当然といえば当然なのだが、しかし。
「やっちゃったぁ・・・・・・」
心地よい目覚めから一転して、薫は悩ましげに眉間に皺を寄せ、深いため息をついた。
★
「あ、おはようでござる」
薫が台所に向かうと、剣心に笑顔で挨拶をされた。
それはそれは爽やかで上機嫌な笑顔だったが、対する薫は「おはよう・・・・・・」という弱々しい声を返した。
「おろ、どうしたのでござる?元気が無いようでござるが・・・・・・」
途端に気遣わしげな表情になる剣心に、薫はふるふると首を横に振った。元気が無いわけではないが、ただ。
「朝ごはん、剣心にまかせちゃった・・・・・・」
情けない声でうなだれる薫に、しかし剣心は「なんだ、そんなこと」と笑う。
「別に、朝食など先に起きたほうが作ればいいでござろう?いつもそうしているのだし」
「でも!今日はわたしが作りたかったんだもん!剣心、昨日帰ってきたばかりで疲れてるんだし・・・・・・」
そう、普段から緋村家では、先に起きたほうが朝食を作るようにしている。夫婦間で特別に取り決めたわけでもないが、一緒に暮らしているうちに自然と
そういうことになった。とはいえ、薫にしてみれば今日ばかりは自分が作りたかったのである。
なんとなれば、良人が数日ぶりに、遠出から帰ってきた日の翌朝なのだから。
外国人の邸宅を狙って出没する、夜盗の捕縛に手を貸して欲しいと、浦村署長から依頼された剣心はそれを受けて現地へ―――横浜へと向かった。
数日間の張り込みの末、賊らは全員逮捕され、剣心は妻の待つ道場へと飛んで帰ってきた。そして昨夜は、滞在していた洋館の主人に持たされた土産
を開きつつ、久々に夫婦水入らずの時間を過ごしたのだった。
それから明けての、朝である。
薫としては、仕事から帰ってきた良人にはゆっくり朝寝をしてもらい、自分の支度する朝餉の香りで目覚めを迎えてほしかったのに―――
「これじゃあ、まったく立場が逆じゃないのぉ・・・・・・」
しおれた声を出しながらも、それでも薫は殊勝に着物を襷掛ける。朝食の支度はあらかた終わっているが、せめて器によそう事くらいは手伝いたいと思っ
たからだ。竈の前に並びながら、剣心は薫の面目なさそうな、少し、拗ねてもいるような顔を見て、くすりと笑う。
「・・・・・・疲れているというならば、薫殿こそ疲れているでござろう?」
ぐっと顔を近づけられて、薫の頬に血がのぼる。確かに昨夜は、数日間会えなかった間隙を埋めるかのように、剣心から熱っぽく求められた。繰り返し抱
きあって愛しあって、疲れきって眠りに落ちたのは事実である、が。
「そういう恥ずかしい事、嬉しそうに言わないで!」
真っ赤になって怒る薫に背中をべしっと叩かれて、剣心は「あはは、すまない」と笑って謝る。
「でも、実際昨夜だって、夕飯と風呂を支度して待っていてくれたでござろう?それで充分でござるよ」
「そう言ってくれるのは、嬉しいけれど・・・・・・」
不本意そうに肩を落とす薫の頤を、剣心は捕まえた。こちらを向かせて、かすめるように唇に口づける。
「なっ・・・・・・」
前触れのない接吻に、薫はますます赤くなって固まる。
「拙者だって、同じでござるよ」
「え・・・・・・?」
剣心は、真っ赤になった薫をからかうでもなく、いとおしげに見つめながら、言った。
「拙者だって、薫殿が待っていてくれるのが嬉しかった。昨晩、久しぶりに薫殿の顔を見て、おかえりと言われて―――改めて、帰る家があるとはこういう
ことか、と思ったでござるよ」
留守の間、ひとりで道場を守って、夕食と風呂の支度をして待っていてくれて、遠出の疲れも吹っ飛ぶくらいの最高の笑顔で迎えてくれて。
そんな妻に、感謝の気持ちを捧げたくなるのは当然のことで―――
「だから、今朝の朝御飯は拙者が作って、奥方様にはのんびり朝寝をしてもらおうと思ったんでござるよ」
だから、同じでござろう?と笑う剣心を薫はまじまじと見つめた。それは、たしかに根本にある想いは同じかもしれない。大好きなひとになにかしてあげた
い、笑顔になってもらいたいという想いとしては、共通している。けれど、
「でも、やっぱり・・・・・・旅から帰ってきたひとにはゆっくり寝ててほしいわよ・・・・・・」
まあまあ、と剣心は僅かに身体を傾ける。隣に立つ薫の肩に、こつんと小さく自分のそれをぶつけた。
「それに、こうやってふたりで一緒に台所に立って支度をするのも、いいものでござるし」
「・・・・・・それは、同感」
薫はようやく納得したように、表情をゆるめる。
昨日までは、こうやってふたり並んで台所に立つこともできなかったのだから。こうして一緒に過ごせる時間があることは、ただ純粋に嬉しい。
「それに、わたしより剣心のほうがお料理上手だし手際もいいもんね・・・・・・悔しいけど」
「おろ、薫殿だって以前よりはずっと上手になったではござらんか」
「・・・・・・褒めてるのよね?それ」
やがて、料理の支度が整う。
ふたり差し向かいで「いただきます」を言って食べる朝食は、いつもより美味しく感じた。
その理由を、剣心も薫もちゃんと知っていた。
★
ふわり、と。鼻孔をくすぐる甘い香り。
腕に伝わるぬくもりとやわらかさ。大好きなひとの優しい体温。
目蓋越しに感じる、昇ったばかりの朝の陽のひかり。
徐々に目覚めてゆく、身体の感覚。眠りから、ゆっくりと浮上する意識。
腕の中の薫は、まだ眠っている。
髪に顔を埋めてみると、よりはっきりと甘い香りを感じられる。ああいいにおいだなぁと思いながら、前髪をかき分けて額に口づける。
起きるかな、と思ったが反応はない。姿勢をずらして、目蓋にも小さく口づけてみる。と、うーんと唸って身じろぎをした薫が、ごそごそと腕を動かす。
腕が背中にまわされ、抱きしめられる。瞳は、閉じたままだ。
相変わらずの寝起きの悪さが可愛らしくて微笑ましくて、剣心は頬をほころばせる。
眠ったままの、無意識の抱擁。この腕を解かせてしまうのが勿体なくて、剣心はもう暫く、このまま布団の中で過ごすことにした。
―――薫は昨日、先に起きて朝食を作って俺を迎えたいと言っていたけれど。
たしかに、そんな朝もよいものだけど。こうして、目覚めて真っ先に君を感じる朝だって、じゅうぶんすぎるくらい幸せなんだ。
君の香りを感じて、君のぬくもりを感じて、君の存在を感じながら迎える目覚め。
朝の光が世界を照らすように、身体のすみずみまで幸せが満ちる、そんな目覚めが。
薫は、まだ夢の中にいるらしい。
もう一度彼女の額に口づけて、剣心は薫が目覚めるのを待つ。
今日の朝食は、ふたりで作ろう。
了。
2018.09.01
モドル。