女性は大手をふって泣くことができて、うらやましいなと時々思う。


こんな考えは「女性に対しての侮辱だ」と叱られかねない偏見であることは、重々承知している。
承知してはいるが、しかし世間一般的に見て女性のほうが、泣くことについては「許される」傾向にあると思うのだが。

たとえば、世の男性の大半は子供の頃に、
「男の子なんだから泣くんじゃない」と親から言われた記憶があるのではないだろうか。つまりは、そういう単純な話である。
そうは言われても、悲しいとき悔しいとき痛いときに涙が出るのは、男女ともに共通する生理現象である。男だからという理由だけで我慢を強いられるのは、理不尽な気もするのだが。




ともあれ、子供のときはともかく、大人になってからは涙を流して泣く事は滅多に無くなった。
とはいえ、直近では薫から妊娠の報告を受けたとき、嬉しくて泣いてしまったのだけれど。
そして、薫から「泣き虫」と茶化されてしまったのだけれど
―――








はじまりの涙








八月のある日の早朝、薫が産気づいた。




途中まではつきっきりで傍にいて、腰をさすったり水を飲ませたりしていたけれど、いよいよという頃が近づいたところで「ここから先は向こうで待っていなさい」と産婆に部屋から追い出された。
あっという間に午をまわり、時刻は夕方にさしかかかる。「こんなにも長い時間苦しまなくてはならないものだろうか」とおろおろ心配していたら、手を貸しに来ていた近所の主婦から「こんなの全然ですよ。むしろはじめてのお産にしては、ずいぶんと勝負が早いです」と笑われた。

そうか、早いのか、と少し安心する。
自分が痛い目に遭うのは一向に構わないが、薫が苦しがったり痛がったりするのはとてもとても嫌だから。
そして、そうか女性はこんなにも長い時間の苦しみを経て母親になるのか、と。改めて、自分の無知に苦笑する。



うん、そうだ。俺はなんにも知らないんだ。
動乱の頃たくさんの血を流して、愛したひとまで死なせてしまって、だから命の重さや儚さについて、ちゃんとわかっているつもりでいた。
でも、今まさに妻の大事に直面して、頭の中では嵐がごうごうと吹き荒れているような有様だ。
もうすぐ我が子と対面できる喜びと、もし薫の身に何かあったらという恐怖がせわしなく駆け巡り渦を巻き、神とか仏とか世界中の祈れるものすべてに祈りを捧げたくなる。というか既に捧げている。

神様仏様、どうかどうか、薫と子供をお救いください。
こんな罪深い人間が、こんな祈りを捧げること自体が無礼千万だということは百も承知です。

でも俺は、ようやく知ることができたんです。命を紡ぐことの尊さを。生まれ出ることの奇跡を。
そしてきっと、新しい命をこの手に抱きしめて、その子を薫と一緒に育ててゆくうちに、更に知ることになるのでしょう。ひとの生命の営みが、かけがえのないものであることを。


俺は生涯、薫を、俺たちの子供を、全身全霊をもって守ることを誓います。
だから、どうか、どうか
―――




泣き声が、聞こえた。



泣き声。いや、これは、産声だ。
大きな、元気な声。
生命の力強さそのものの声。



無意識のうちに、強く握りしめていたこぶしをぱらりと解いた。

生まれたんだ。
泣き声は、まだ続いている。ああ、元気そうだ、元気に―――生まれたんだ。



体中の力が抜けるのがわかった。
ああ
・・・・・・どうしよう。
もう、この瞬間。既に泣いてしまいそうだ。




やがて、「無事に生まれましたよ」と促され、産屋になっていた部屋へと入る。
薫は、乱れた髪を汗で頬に貼り付かせて、少し目をくぼませて相当に疲れた様子だったけれど、俺の姿を見るといつもの笑顔を向けてくれた。
夕刻を迎えようとする部屋の中、そこだけに、きらきらと光が差しているような笑顔を。



「男の子よ」



その腕に抱かれた、赤ん坊―――俺たちの子供。

無事に、生まれたんだ。
うまれてきたんだ。


がんばったんだ、がんばってくれたんだ。俺は父親になったんだ、君が父親にしてくれたんだ。
君が無事でよかった、無事でいてくれて本当によかった。
ありがとう、ありがとう、ありがとう―――


伝えたい言葉はいくつもあった。ありすぎるくらいにあった。
それなのに、声を出す前に涙が溢れた。

君は驚いたように目を瞠って、すぐに柔らかく頬をほころばせる。
今日は、「泣き虫」と茶化されることはなかった。



「ね・・・・・・抱いてあげて?」

「・・・・・・うん」

抱き取った赤ん坊は、怖いくらいに小さくてやわらかくて、けれどしっかりと「生命」の重みがあった。
この十ヶ月、君が大事にはぐくんでくれた命が、今こうして俺の腕の中にいる。



「・・・・・・ありがとう」



やっとのことで、それだけを口にする。
ことん、と。肩先にあたたかな感触。身を傾けて寄りかかってきた薫の目にも、涙が光っていた。

「すまない・・・・・・言葉が、出なくて・・・・・・」
「・・・・・・うん」
短い返答。きっと、君もこれ以上は声にならないのかもしれない。


そっと首を動かして、君の顔を覗きこむ。潤んだ瞳と目が合い、君がふわりと笑う。
その笑顔がとてもうつくしくて、つられて俺も破顔する。おそらく、涙にまみれた顔をくしゃりとさせるような、情けない顔になっているだろうけれど。

でも、どんなに情けない顔を見せたっていい。今日は泣いてもいい筈だ。
今日ばかりは、大手をふって泣いてもいい筈だ。今日のこの涙は、君に見られてもいい涙なんだ。



笑顔と笑い声はひとを幸せな気持ちにして、泣き顔と泣き声はその反対だと思っていた。でも、今日のような例外もあることを知った。
ふたりで寄り添って流す涙は、嬉しいから流れるあたたかい涙。元気よく響いた産声は、始まりを高らかに告げる声。




そうだ―――命のはじまりは、大きな泣き声とともにあるんだ。






はじめて父親になった日、君が父親にしてくれた日。
俺はまるで子供のように、ただただ、無心に泣いた。


















モドル。