「剣心、ちょっと背、伸びたんじゃねーか?」
それは夕食の席で、弥彦が不意に口にした一言だった。
言われた剣心はきょとんとする。それは薫も同様で、ふたりはなんとなく顔を見合わせた。そして剣心は「そうでござるかなぁ」と首を傾げ―――すぐに、
その首を軽く横に振る。
「いやいや、それはないでござろう。拙者、じきに三十でござるよ?この年で背が伸びることはないでござろう」
「それはそうだろうけど・・・・・・まあ、なんとなく思っただけなんだけどさ」
今日、道場で稽古をしている時、剣心と薫が並んでいるのを見た弥彦は、ふとそんなことを感じたらしい。もともと彼らの身長は、剣心のほうが薫よりもい
くぶん高い。しかし、そのふたりの身長差が、前よりも僅かに開いたような気が―――
「あ、それとも薫のほうが縮んだのか?」
「ちょっと何よそれ!それこそ違うわよ、着物を着るときの丈、変わっていないもの!」
憤慨する薫を、剣心はまあまあと穏やかになだめる。
「いずれにせよ、拙者よりも弥彦のほうがこれからどんどん大きくなるでござろうな。育ち盛りなのだから、きっとそのうち追いこされるでござるよ」
「おう、お前らふたりくらい、すぐに追い抜かしてやるぜ」
そう言いながら「おかわり」と空の茶碗を差し出され、薫は眉をひそめて飯櫃を背中の後ろへと隠す。
「あんたに抜かされるのは面白くないから、これ以上は食べさせないでおこうかしら」
弥彦が「なんだと?」と腰を浮かせ、薫が「なによ?」としゃもじを構える。一触即発という空気になった師弟を、剣心が「まあまあ」と再度なだめた。
食事中ということもあり、その場はそれで収まったが―――
弥彦のおかわりをよそいつつ、薫は剣心の口許がどことなく嬉しそうな形を描いているのを見逃さなかった。
★
「ほんとに、伸びたでござるかなぁ」
剣心が改めてその話題に触れたのは、弥彦が長屋に帰ってからだった。
すこし前に、弥彦は神谷道場から左之助の住んでいた破落戸長屋へと引っ越したのだが、今日は稽古の後そのまま「夕飯食べていきなさいよ」という流
れになった。三人で食事をした後、「明日のおかずにするといい」と煮物の入った鉢を渡されて、弥彦は帰路についた。
それから後片付けをして、一息ついて茶を飲みつつの、身長の話である。
薫は先程の剣心の表情―――嬉しいのを隠そうとして隠しきれていない表情を思い出しつつ、くすりと笑った。
「嬉しいの?伸びてたとしたら」
「そりゃあ、嬉しいでござるよ。背は高いのに越したことはないでござろう?」
そういうものかしら、と薫は首を傾げる。確かに剣心は小柄だが、彼くらいの身長の男性は世間にいくらでもいる。身近なところでは出稽古先の門下生
にだって何人も―――と、薫はそこまで考えたところで、今年になってから知り合った男性たちを思い出した。
左之助に蒼紫、比古や斎藤など、なるほど彼らは長身である。普段表に出しはしないが、剣心は剣心で気にしているところもあるのかもしれない。
―――まぁ、わたしももっと睫毛が濃くてばさばさ長かったらいいなぁとか、もっと足首がきゅっと細くならないかなぁとかよく考えるし。それと同様に、男性
が「もっと背が高ければ」と思うのも、普遍的な思想なのかもしれない。薫は湯呑みを手に、そんな事を思った。
「・・・・・・どうだろう、比べてみては」
「え?」
「背でござるよ。薫殿と、拙者とで」
不意の提案に、薫は目を丸くして、次いで笑ってしまった。
「えー?背比べ?剣心とわたしとで?」
剣心は笑いもせずにうんうんと頷く。湯呑みを置いて、既に腰を浮かしかけているところを見ると、冗談というわけでもなさそうだ。
「試しに、でござるよ。本当に伸びているかどうか」
「もう、仕方ないわねぇ」
そう言いつつも、薫は嬉しげに立ち上がる。実際、彼から「お願い」をされるのは、薫にとっては嬉しいことだった。ただしそれは、背比べをすること自体が
嬉しいわけではなく―――きっと、少し前の彼ならば、わたしにそんなお願いはしなかっただろうから。
「背が伸びたかもしれない」ことを、明らかに喜んでいる剣心。それを弥彦には気取られないように振る舞って、でもわたしには隠さずにいる剣心。
こんな事で喜んでいる様子は子供みたいでなんだか可愛いし、彼がわたしにだけそんな面を見せてくれるのも、彼にとってそんな存在になれたことも嬉
しくて―――
「って、これじゃ髪が邪魔になるわね・・・・・・」
剣心と薫は立ち上がって背中合わせになった。が、頭に手を当てて背を比べようとしたけれど、薫のリボンと高い位置で結った髪が、微妙にそれを妨げ
る。
「ちょっと待ってて、今ほどいちゃうから」
「ああ、そこまでしなくていいでござるよ。ほら、こちらを向けばいい」
え、と思う間もなく薫は、後ろから両肩を掴まれたことに気づく。そのまま力が加わって、ぐるんと視界が反転する。
「・・・・・・え?!こ、こっちって・・・・・・ちょっと剣心?!」
「うん」
正面に、にこにこと笑う剣心の顔。まさしく正面に―――鼻と鼻がぶつかってしまうくらい、近くに。
「こちらを向く」というのは、背中合わせではなく顔と顔を合わせて背を比べればよい、ということらしい。
成程、これなら髪が邪魔になることもない。
しかし、はっきり言ってこれは、かなり恥ずかしいのだが。
薫は慌てて視線をずらし、それでもまだ恥ずかしくて顔を横にそむけようとした。しかし、剣心の手が頬に添えられて、それを阻まれる。
「そっちを向いては、ちゃんと背が比べられないでござろう?」
「そう・・・・・・だけど・・・・・・」
再び正面を向かされると―――至近距離も至近距離に、剣心の顔。薫は思わず、ぎゅっと目を閉じた。
「・・・・・・んっ?!」
唇が、重なる気配。
逃げようとしたら、抱きしめられた。
「け・・・・・・剣心、今度は何っ?!」
「だって薫殿が目を閉じるから」
「そっ、そういうつもりで閉じたんじゃないわよっ!早く測っちゃってー!」
はいはい、と答える声に、明らかに笑いが混じっているのが小憎らしかった。しかしちゃんと測る気はあるらしく、すっと頭の上に手がかざされる。
「うん、やはり拙者のほうが高いでござるな」
「・・・・・・ええ、そうね」
薫も、てのひらを頭の上に持ってゆく。こうして並ぶと、やっぱり彼のほうが大きいことがよくわかる。
わかるのだけれど、しかし。
「・・・・・・でも剣心。わたしたち、以前にこんな背比べをしたことはないんだから、あなたがどれだけ伸びたかなんて、わからないわよ・・・・・・ね?」
「おろ、ばれてしまったか」
「って、ちょっとー!」
怒った声を出したら、また抱きしめられた。身をよじって逃れようとしたがそれは許されず、頬に鼻にあちこち口づけをされて、なんだか馬鹿馬鹿しくなって
きて薫は抵抗するのをやめた。
途端、口づけが深くなる。くらくらして目を閉じると、今度は自分がどこに立っているのか感覚があやうくなる。傾きかけた薫の背中を、剣心は抱きしめる腕
に更に力をこめて支える。
「・・・・・・からかわれちゃったわ」
唇の上で、吐息とともに拗ねた声をこぼすと、「からかったわけではござらんよ」と、唇に甘く歯を立てられた。剣心が足を動かすのに促されて薫も膝を曲
げ、ふたりはぺたりと畳に腰をおろす。
「でも」
「うん?」
「やっぱり剣心、ちょっと背、伸びたような気がする」
「え、そうでござるか?」
あからさまに嬉しそうな声をあげるのが可愛らしくて、薫はへそを曲げるのをやめて頬をゆるめた。
「弥彦と同じで、なんとなくそんな気がするだけよ?」
「それでいいでござるよ。そういう事にしておくから」
ちゅ、と。頬にまた唇が降ってきて、薫はくすぐったそうに肩をすくめる。
「二十歳を過ぎても、背が伸びるひとは伸びるっていうものね」
「拙者は過ぎてから随分経つでござるがな・・・・・・でも、もし伸びたとしたなら、色々と軽くなったからかな」
「え?」
「いろいろと、背負ってきたものが」
犯した罪。忘れてはならない過去。
自分自身を責めながら生きてきた。償いたいという一心で、旅を続けてきた。
けれど、長い旅の果てに、君を見つけた。
君と出逢って、君を好きになって、迷って悩んで救われて、そして「答え」にたどりついた。
「不思議でござるな。背負っているものは変わっていない筈なのに、今までよりも―――視界が開けたように感じるのだから」
犯した罪は消えない、過去は変わらない。そこから逃げることはできない。
でも、これからの自分が進むべき道を見つけたから。標となる答えを見つけたから。
―――だからもう、背負った過去の重さに、膝を屈することはないだろう。
「・・・・・・心を押さえつけていたものがなくなったから、背が伸びたの?そんなことってあるのかしら?」
「まあ、そういう事にしておくでござるよ」
眉唾なことを言っていると、自分でもわかっているのだろう。剣心はくすくす笑いながら、薫の髪の生え際を指で撫でる。その感触に心地よさげに目を細
めつつ、薫はするりと腕を伸ばし、彼の首に抱きついた。
「でも、わたしのことは重くないの?お嫁さんをもらったら、男のひとには責任が生まれるものじゃない?」
薫は悪戯っぽく笑って、首にまわした腕にぐっと体重をかけてみせる。彼から求婚されたのは、ほんの数日前のことだった。
「むしろどんどん背負いたいでござるなぁ、薫殿のことは」
薫の台詞に相好を崩した剣心は、彼女の膝の裏に片手を差し入れ、そのまま立ち上がった。突然、横抱きに抱き上げられ、薫は「きゃあ!」と悲鳴をあげ
る。
「ほら、こんなに軽いのだから、いくらでも背負えるよ」
楽しげにそう言われて、薫は「頼もしいわね」と笑顔になる。重くないかと尋ねたのはあくまで冗談だったが、それでも、彼の答えは嬉しいものだった。
「拙者は、薫殿の人生を貰い受けるつもりでござるが・・・・・・それは薫殿も同じでござろう?」
「ええ、勿論よ」
わたしのすべてを、このひとにあげたいと思った。
そしてあなたも、自分のすべてをわたしに、と思ってくれた。
そうやって、わたしたちは夫婦になるんだ。
どちらかが背負うわけではなく、苦しいことは分けあって、助け合って。
喜びは共有して、一緒に笑って手を繋いで。そうやって、これからを歩いてゆく。
「・・・・・・って、剣心、どこ行くの?」
薫の身体を支えつつ器用に襖を開けた彼に尋ねたら、「うん?寝室に」という答えが返ってきた。
「は?」
「いや、ほらせっかくだから」
「いやっ、せっかくの意味がわからないんだけど・・・・・・やだちょっとおろして剣心ー!」
せっかく抱き上げたのだからこのまま寝室へと攫ってしまおう、というのが剣心の理屈らしい。薫はじたばたともがいたが、剣心はどこ吹く風で「こら、暴れ
ると落ちるでござるよ」と腕の力を強くする。
ああこれは抵抗しても無駄な流れだと悟った薫は、諦めて身体の力を抜いた。
★
「君と出逢ったことで止まっていた俺の時間が動き出したから、だから背も伸びたんじゃないだろうか」
実は、結構本気でそんなことも考えた。
しかし、それを口にするととんでもなく気障になることは明白だ。
―――やっぱり、これは言わないでおくべきだな、と。
あらわにした薫の胸元に顔を埋めながら、剣心はこっそり心の中でつぶやいた。
了。
2017.10.28
モドル。