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        そう言ってから、「すまない、八つ当たりでござるな」と、ばつが悪そうに視線をそらす。
        薫は驚いたように目を丸くして―――それから、上げていたベールをぱさりとおろした。




        「・・・・・・薫殿?」
        あんまり駄々をこねたものだから、怒ってしまったのだろうか。剣心は妻の表情を窺うように顔を覗きこんだが、白い紗の向こうにかすかに透けて見える唇
        は、笑みの形をとっているようだった。

        「・・・・・・剣心、いま綺麗って、言ってくれた?」
        「いや、それは・・・・・・」
        照れくささの所為で、反射的に否定の言葉が出かかった剣心はそれを飲み込む。幸から借りてひとときの間身につけているドレスではあるが、それは薫
        によく似合っていた。ふわりと結い上げられた髪にベールを重ねて、うっすらとだが化粧も施されて―――彼女が綺麗だというのは、紛れもない事実であ
        る。でも、だからこそそれが、腹立たしい。


        「剣心、あなた、間違ってるわ」
        「え?」

        きっぱりと否定した薫の声は、しかしとても優しいものだった。
        「女の子はね、花嫁衣装は好きな相手のためにしか、着ないものなのよ」
        先程バルコニーで、幸に成り済まして新郎と一緒に手を振ったりしたが。束の間ビクターの花嫁役を演じているわけだが。それはあくまで形式的なもの
        だ。
        「わたし、このドレスを着せてもらって一番に・・・・・・『剣心に見てほしい』って思ったわ。だって、わたしたちの祝言のとき、わたしの白無垢姿を見て、剣心
        とっても喜んでくれたでしょ?」
        「それは・・・・・・それは当然、喜んだでござるよ」
        薫殿きれいだったから、と剣心はぼそりと付け加える。ベールで彼女の顔が見えづらいぶん、照れくさい台詞も普段より口にしやすかった。


        そう、数ヶ月前に挙げた自分たちの祝言のことは、今も記憶に鮮やかだ。
        花嫁衣装を身にまとい、重たげに綿帽子をかぶり紅をさした薫は、とてもとても綺麗だった。きっと薫は身のうちに眩しい光を抱いていて、それが彼女の美
        しさをより輝かせているのだろう。薫の心が持つ、強く優しい光が。

        余程自分はゆるみきった顔をしていたのだろう、操や弥彦に「鼻の下が伸びすぎだ」と何度も言われてからかわれた。そして「こんなに綺麗な花嫁御寮な
        のだから、やに下がるのも仕方ない」と皆に笑われた。こんなにきれいなひとが妻になってくれるのだなと思う毎に嬉しさがこみ上げてきて、こんなに幸せ
        でいいのだろうかと思った。だから俺も一生をかけて君を幸せにしようと、繰り返し思った。


        「わたし、あの時のことを思い出しながら、このドレスを着せてもらったわ。白無垢も色内掛けも、わたしには勿体無いくらい贅沢なものだったけれど・・・・・・
        こんなドレスを着て剣心の横に立つのも、きっと素敵だろうなぁって。さっきから、そんなことばかり考えていたのよ?」

        なのに剣心は怒ってばかりなのね、と。薫は拗ねたように唇を尖らせてみせる。そんな彼女に、剣心は慌てて謝罪した。
        「いや・・・・・・すまないでござる、薫殿の気持ちも考えずに拙者は・・・・・・」
        「いいのよ、やきもちを焼かれるのも、それはそれで嬉しいもの」


        くすくす笑う薫を、剣心は改めて見つめる。
        くちなしの花のような、あたたかな白のドレス。細い首筋や手首を覆うレース細工は繊細で、薫の笑顔を優雅に飾っている。
        洋服は着物より、身体の線をはっきり見せるつくりになっているものだが、そのドレスは華奢ながらも女性らしい柔らかさをもつ薫の輪郭を、品よく清楚に
        なぞっていた。改めて―――きれいだな、と思う。

        そして、薫の心情を聞かされたおかげで、先程までの嫉妬心は、それはもう綺麗さっぱり消し飛んでしまった。我ながら現金なものだなと思ったが、こんな
        ふうに薫のために心をざわつかせたりどきどきしたり胸を苦しくさせたりするのが、実のところ嫌いではなかった。それこそが、自分がこんなにも彼女を恋
        い慕っていることの証なのだから。


        「拙者も、幸殿の花嫁姿を見たときから・・・・・・このドレスは薫殿に似合うだろうなと、考えていたでござるよ」
        「・・・・・・本当に?」
        「うん、本当に」
        「それじゃあ、幸さんと、あの酔っぱらいさんにも感謝しなくちゃね。あの騒ぎがなかったら、剣心今この部屋にいなかった筈だもん」
        確かに、あの騒動があったから、こんなに近くで薫のドレス姿を拝むことができた。それはたいへん幸運なことだが、はたして感謝までしてよいものか。う
        ちの細君はつくづくお人好しだなぁと内心で苦笑しつつ、剣心は手を伸ばした。ベールの上から、そっと薫の肩に触れる。



        「・・・・・・祝言、挙げようか」
        「え?」
        「薫殿、さっき庭で言っていたでござろう?もう一度挙げたくなった、と」



        祝福の空気に満ちた今日の会に、自分たちの祝言のことを思い出した薫は、そんなことを考えた。
        そして剣心は、その願いを叶えたいと思った。

        「祝言って・・・・・・今、ここで?」
        「ああ、ふたりだけなのが残念でござるが」
        できることなら、今の薫の美しい花嫁姿を皆にも見せて自慢して、祝いの拍手を受けたいところだが―――幸の不在がばれてしまうから、そんなことは出
        来る筈もなく。しかし薫は剣心の言葉に、「ううん、ふたりだけで充分よ」と、むしろ嬉しそうに微笑んだ。


        ベール越しに、薫はじっと剣心の目を見つめる。剣心も、薫の瞳から目を離さずに、心をこめて語りかけた。
        「ずっとこれからも、一緒に生きてゆくことを、誓いますか?」
        牧師の言葉を真似て、そう尋ねると、薫は「はい、誓います」と答えた。そして「死がふたりを分かつまで?」と尋ね返す。
        「死も、分かつことはできないでござるよ。次の一生でも、拙者たちは必ず一緒でござるから」
        「前にも剣心、そう言ってくれたわよね」
        薫は頬をほころばせて、自分からも剣心に問いかける。
        「ずっとこれからも、幸せに向かって、ふたりで歩んでゆくことを、誓いますか?」
        「はい、誓います」
        剣心は厳かに答えたが、そこに「今に、三人四人と増えるであろうが」とつけ加える。薫は「それもそうね」と羞じらいつつ笑った。


        剣心の指が、ベールに差し入れられる。薫はそっと膝を折り、僅かに頭を下げた。
        ふわり、と。剣心の手によってベールが持ち上げられ、薫の顔があらわになる。

        花嫁を守る象徴がベールだと、テイラー夫人は言っていた。
        これからは新郎が新婦を守ってゆく―――ベールを上げる行為は、それを表現しているという。



        あらためて、正面に向き合った薫を見つめる。ほんのりと頬を紅潮させ、大きな目は潤んできらきらと光って。ああ、冬の終わりに盃を交わしたときにもこん
        な顔をしていたな、と思い出して、剣心はなんだか胸が苦しくなった。きっと今の俺も、君と似たり寄ったりの表情をしているのだろう。

        ドレスに包まれた肩に、手を添える。
        薫の長い睫毛が、静かに伏せられた。




        一生かけて君を守り、君を愛してゆきます。




        そんな誓いを胸に、剣心は美しい花嫁に口づけた。








        ★








        ふたりきりの祝言を挙げた剣心と薫は、部屋のソファに寄り添って座って、幸が帰ってくるのを待った。
        ほどなくしてドアが勢いよく開き、頬を紅潮させた幸が飛び込んできた。

        その笑顔を見て剣心と薫は、彼女が無事妹に会えて目的を達したことを知った。
        立ち上がった薫を、幸は「ありがとう!」と叫んで抱きしめる。薫も幸を笑顔で受けとめた。それを見て剣心は僅かに眉を動かしたが、まぁ相手は女性なの
        だから大目に見なくてはと自分に言い聞かせた。

        それから直ぐに、機動性重視の乗馬服を着ていた幸は「色直し」の支度にかかり、薫もドレスから着物へと着替えをした。幸に貸していたリボンを髪に結
        び、すっかりもとの格好へと戻る。


        「せっかくだから、もう少しの間眺めていたかったでござるなぁ」
        廊下で着替えを待っていた剣心は、そう言って薫のドレス姿を惜しんだ。
        「現金ねぇ、ちょっと前までご機嫌斜めだったくせに」
        からかうように言われて、剣心は「現金で結構」と答えつつ薫の頬に口づけた。人様の家のなかでこんなことが出来てしまうのは、西洋の邸宅にいるとい
        う非日常感からであろう。薫も笑って彼の頬に口づけを返した。








        「やっと戻ってきたのかー、何やってたんだよ今まで?」
        「薫さんも、おかえりなさい」

        「屋敷の中を見せてもらっていた」と答えたら、弥彦たちは納得した。例の酔っぱらいはその後友人たちによって縛り上げられ、酔いが醒めたらたっぷり説
        教を喰らう予定らしい。そしてどうやら、一部の参列客はあの騒動を余興の寸劇だと思いこんでいるらしく、「あの剣技は見事だった」「いや速すぎて見えづ
        らかったからもう少しゆっくり動いてくれてもよかったのに」などという呑気な会話があちこちで交わされていたらしい。

        「めでたい席だから、警察沙汰にはしたくないでござろうなぁ」
        「いいんじゃない?ちゃんと反省さえしてくれれば。あれだけ痛い目見たんだから、罰はしっかり受けているわよ」
        「え?薫さん、さっきの騒ぎ見ていたんですか?」
        燕が首を傾げ、薫は「ええ、おうちの中で音が聞こえていたから」と慌ててごまかした。




        やがて、色直しの支度が整った新郎新婦が庭に降りてきた。驚いたことに、新郎は紋付、新婦は色内掛けという和装である。
        思いがけない晴れの姿に会場は大いに沸き立ち、祝福の拍手はなかなか鳴り止まなかった。
        その後祝宴は滞りなく進み、お開きの際は皆が花びらを新郎新婦にふりかけて、祝言は華やかに幕を閉じた。


        本来ならもっと花びらの量は多いはずだったのにな、と。
        ひと籠ぶんを拝借した剣心は、心の中で新郎新婦と準備を手伝ったテイラー夫人に謝罪した。













        7 へ続く。