いつもより早く、目が覚めた。
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。
頭上に広がる早朝の空は澄んだ水色。よい天気になったことを神様に感謝する。
この部屋で目覚めて、この窓から空を見るのは、これが最後だと思うと感慨深い。今日、嫁いでゆく先は同じ居留地でごくごく近所だから、あまり「離れ
る」という実感はないのだけれど―――それでも、今日を限りに、わたしはこの家の人間ではなくなるのだ。
慈しんで育ててくれた両親。実の親ではないけれど、孤児になったところを助けてくれた彼らは、わたしに新しい命をくれたひとたちだ。目の色も髪の色も
違うわたしのことを、本当の子供のように育ててくれた養父母のもとを離れるのは、やはり寂しい。
寂しいけれど―――でもきっと、わたしは笑顔でここを出てゆくのだろう。
大好きなひとに手をとられて、両親をはじめ、たくさんのひとたちの祝福を受けながら。
感謝しよう。
わたしを産んでくれた両親に、育ててくれた養父母に。
これから一緒に生きてゆく、大好きなひとに。そして―――あの子に。
今日は、わたしとあの子の旅立ちの日。
★
朝、目が覚めて最初に感じるのは、彼の体温。
包まれているあたたかさと、腕の重さが心地よくて、起きるのがもったいないな、といつも思う。
そもそも薫は低血圧で、目蓋が完全に開ききるまでにはそれなりの時間を要する。剣心の腕に抱かれながら、まだ半分眠りの側に意識を残した状態で、
今日の予定はどうだったかしら、などとぼんやり考える。ああ、そうだ。今日は午後から「おめでたい」用事があったんだ。
―――と、剣心の腕がぴくりと動いた。
起きたのかな、と思う間もなく、引き寄せられてぎゅっと抱きしめられる。
「おはよう」
「おはようでござる」
朝の挨拶と一緒に額に唇が押しつけられ、薫の口許がほころぶ。
「いい天気のようでござるな」
「ほんと、お天気に恵まれたみたいで、よかったわ」
「おろ、今日は何かあったでござろうか」
「ほら、今日は午後から・・・・・・」
そう言いながら彼の腕をすり抜け、薫は起き出そうとした。が、剣心は立ち上がろうとした薫の寝間着の裾を掴んでひっぱり、それを阻む。
「・・・・・・剣心?」
「うん」
裾をしっかり捕まえた彼が、布団の中からにっこりと笑顔を向けてくる。
これは、ひょっとして。
「・・・・・・したいの?」
「したい」
「最近、毎朝じゃない・・・・・・」
「駄目でござるか?」
剣心の手がするりと伸びて、薫の細い足首を撫でる。その感触に小さく息を飲みつつ、剣心を見下ろす。
布団の中の彼は、にこにこと笑顔だ。これは―――何を言い訳に拒んでも無駄なときの、彼の顔だ。
「・・・・・・わかったわよ、じゃあ、お願いします」
諦めてそう言うと、剣心はいそいそと身を起こして、寝間着を脱いだ。
「伊達締め、どちらにするでござるか?」
長襦袢を羽織った薫に、一足はやく着替えた剣心が尋ねる。彼の手には、藤色と桃色と、二種類の伊達締めがあった。薫は少し考えてから、「藤色にす
るわ」と答える。剣心は楽しそうににこにこしながら頷くと、彼女の前に立って伊達締めを、衿の合わせ目の下、胸のあたりにぴたりとあてた。衿元が乱れ
ないように気をつけながら、きっちりとそれを巻きつける。
「きつくないでござるか?」
「ん、ちょうどいい」
「よかった」
剣心は頷きながら薫の背中にまわって、衿の抜き具合を確認する。彼の真剣な視線を感じて、薫はくすぐったそうに口許を緩める。
「今日はちょっと難しいかもしれないわよ、ほら」
「おろ、絹の着物でござるな」
「うん、今日は祝言におよばれしれるでしょ?ちょっぴりおめかししてもいいかなーと思って」
「あ、しまった、すっかり失念していたでござるよ。それなら、拙者が着せないほうがよいでござるか?」
「大丈夫、構わないわよ」
薫が「お願いします」と軽く腕を持ち上げると、剣心は「では、失礼して」と言って妻の細い肩に着物を乗せた。薫は襦袢の振りをつまんで、絹の着物に袖
を通す。剣心は薫の正面に膝をつき、衿に指を沿わせる。
朝、薫の着付けをすること。
それが最近の、剣心の「趣味」だった。
きっかけは、素朴な疑問からだった。
薫が好んで結んでいる、小鳥が羽を広げたような可愛らしい形の帯結び。ある日彼女の背中を見ながら剣心は、「それ、どうやっているんでござるか?」と
尋ねた。そんな手のこんだ結び方、背中に手を回してできるわけでもなかろうに―――と、ふと疑問に思って訊いてみたのだが、それに対して薫は「あん
まり格好のいいものじゃないのよ?」と渋りながらも「実演」してみせた。
帯で折り紙でもするように、あらかじめ畳の上で翼のような形を作っておいて、腰に巻くぶんの帯を残しておいて。背中に翼を乗せるように「背負って」か
ら、仮紐を腰に巻いて固定し残った帯も腰に巻きつけて―――
「やりかたは人それぞれでしょうけれど、わたしはこんなふうに結んでるの」
着替えているところを見られるのは、装うまでの「舞台裏」を見られているようなもので恥ずかしい。だからこそ薫は渋ったのだが、剣心は妙に「感心」して
しまった。
「見事なものでござるなぁ」と、まじまじと薫が帯を巻いてゆくのを観察し、挙げ句に「拙者も、着せてみたいでござる」と言い出した。
驚いて目を丸くした薫に、剣心は「薫殿は拙者に着せてくれるでござらんか。だから、拙者からも着せてあげられるようになりたいでござるよ」と更に言っ
た。たしかに、以前剣心が怪我をして利き腕が使えなくなったとき、毎日の着替えを手伝ったのは薫だった。怪我が治って夫婦となった現在も、時々は薫
から彼に、着物を着せてやる日もあるが―――
「いやでも、男と女じゃ話が違うでしょう」
「しかし、もし万一、今後薫殿が腕に怪我をしたとしたら、身の回りの世話をするのは拙者なのだし」
いや薫殿に怪我などあってはならないが、と付け加えながらも、剣心の顔は本気だった。その表情を見ながら薫は、ああこれは何としてでも我を通そうとし
ているときの顔だと悟り、諦めた。きっと彼は薫が首肯するまで、あれこれもっともらしい理由を並び立てて説得し続けることだろう。なので薫は早々に「わ
かったわ、教えてあげる」と頷いた。
そんなやりとりがあってから、かれこれ十日ばかり経つが―――薫に着付けを教わった剣心はそれ以来、「練習」だと言って毎朝のように薫に着物を着せ
ている。
「ちょっと、勝手が違うでしょう?」
「うん、手から滑ってしまいそうでござるなぁ・・・・・・」
絹の着物は手触りがよいが、そのぶん着付けているときも掴んだ指から生地がするりと逃げそうになる。裾の長さを決めるのに若干苦戦したが、腰紐を締
めてから先は、何とかいつもどおりに着付けていった。
「おかしくないでござるか?」
「大丈夫、きれいにできてるわよ」
帯結びは、流石に凝ったものではなくお太鼓である。帯締めをぎゅっと結んで―――ここを結ぶのは、男のひとの力のほうが頼もしいな、と薫は思う。仮結
びしていた帯揚げをきちんと結びなおして形を整え、端を始末して「完成」である。
「先生、今日はどうでござるか?」
薫の後ろに立って、お太鼓の形を確認しながら剣心が聞いた。薫が「完璧です、たいへんよくできました」と笑うと、剣心は嬉しそうに背中から薫に抱きつ
く。
「そんなに楽しいの?わたしに着物を着せるのが」
「楽しいでござるよ」
すり、と髪に頬をすりよせながらそう言う声は本当に楽しげで、薫は「変なの」とまた笑う。
「薫殿、今日の伊達締めは藤色にしたでござろう?」
「うん、そうね」
それがどうかしたのだろうか、と不思議に思う薫に、剣心は「腰紐の先には、千鳥の刺繍がしてあった。可愛いでござるな、あれ」と続けた。
「着物の下がどうなっているのか、それは着た本人と着せた人間にしかわからないものでござろう?他の者が知らないことを拙者は知っていると思うと、嬉
しいんでござるよ」
薫の耳に口づけながら、剣心はそう言った。
伊達締めの色で迷うのも、腰紐に刺繍で模様をつけるのも、言ってみれば「見えないお洒落」だ。
剣心が着付けをしながらそこに気づいていたことは嬉しいけれど、同時になんだか気恥ずかしくて、薫は肩をすくめる。
「それに・・・・・・」
「・・・・・・ひゃっ!」
するり、と。剣心の右手が身八つ口の中に忍び込んだのを感じて、薫の肩がびくりと震える。
「自分で着せたものを自分で脱がせるのが、これまた醍醐味というか」
「いっ・・・・・・今着せたばかりでしょうがっ!」
「ああこら、暴れると着崩れるでござるよ」
「そんなのっ・・・・・・剣心の、所為・・・・・・あっ!」
束の間剣心は、襦袢の上からの乳房の柔らかな感触と、彼女のうなじが赤く染まってゆく様子を楽しんだが―――これ以上悪戯をすると、もう一度着付
けをし直さないといけなくなるだろう。すっと手を抜き、薫の身体を正面に向き直らせて、口づけた。
「・・・・・・剣心の、ばか」
唇の上で、拗ねた口調でそう言って、報復のつもりか軽く歯を立てる。そんな薫が可愛くて、剣心はむしろ相好を崩す。
「でも、本当にいいんでござるか?祝言に行くのなら、もっと華やかな帯結びのほうがよかったのでは?」
「いいの、充分おめでたい柄を選んだんだし、だいたい主役は花嫁だもの。それに―――」
頬に目蓋に、啄ばむように降ってくる口づけを受けながら、薫は答えた。
「外国のひとの祝言なんて、はじめてだもの。無難にしておいたほうが安心かなぁ、って」
2 へ続く。