「ただいまー」
        「ただいまでござる」

        どことなく楽しげな剣心と薫の声が玄関に響く。
        ふたりの声に答えるかのように、居間に置かれた花瓶の桜が、ふるりと花びらを震わせた。










       
桜酔い








        近隣では「桜の名所」として知られている桜並木は、今が満開のときを迎えている。
        「門下の皆で花見に行くので、君たちも是非一緒に」と言ったのは前川だった。そんなわけで、薫は今日の出稽古には着替えを持ってゆき、稽古の後に
        は座敷を借りて「お色直し」をした。とっておきの絹の小紋を身につけた薫に門下生の若者たちは色めきたち、剣心は妻の花が咲いたような姿を誇らしく
        思いながらも、門下生たちを牽制するのに忙しかった。

        ともあれ、大人数での花見は賑やかに盛り上がった。昼日中から始まった宴がお開きになる頃には陽もとっぷり暮れて、入れ替わるように夜桜見物の客
        たちがやってきて―――剣心と薫は途切れることのない喧騒を背に家路についたのだった。



        「あっ、こら、お行儀悪いわよ?」
        居間に入るなり、ごろんと肘枕で横になった剣心を、薫は笑ってたしなめる。
        「花見の、続きでござるよ」
        そう言う剣心の視線の先を追うと、そこには花瓶に生けられた桜の枝があった。「きれいね、うちの桜も」と、薫は目を細める。


        「薫、こっち」
        「え?」
        「おいで」


        振り向くと、剣心が寝転がったまま両腕を差しのべている。今日は昼間からたっぷり飲まされて、まだ酒精が残っているのだろう。あるいは、花見ならでは
        の浮かれた空気にも酔ったのか―――剣心は顔色こそ変わっていなかったが、明るい色の瞳の焦点が、平素と違いとろんと曖昧になっている。
        呼ばれた薫も、剣心ほど飲んではいなかったが、まだふわふわとした高揚感が続いていた。甘えるような笑みを唇に浮かべながら彼の傍らに膝をつくと、
        腕を捕まえられて引き倒された。

        「・・・・・・剣心、これじゃあわたし、桜が見えないわ」
        「ああ、すまない」
        腕に閉じ込められるように抱きしめられ、薫は苦情を訴える。剣心は腕を緩めて、薫の身体をころんと反転させた。
        横たわったまま彼女の身体を後ろから抱くと、薫は満足そうに息をつく。


        「きれいでござるなぁ」
        「ほんとねぇ。ちゃんと咲いてくれて、よかったわ」

        居間の一角に置かれた花瓶には、一本の桜の枝が飾られていた。
        今日出かけた桜の並木に負けず劣らずの満開で、そろそろ散り始めた花びらが、下に敷いた盆にちらほらと水玉模様を作っている。





        数週間前、剣心と薫のふたりは件の桜並木を通りかかった。
        その日は曇天で肌寒く、ようやく緑に近づいてきた花の芽は、冷たい風に晒されながら固く身を縮こまらせているようだった。

        そんな中、ふたりは道の傍らに、一本の枝が落ちているのを見つけた。
        誰かの心無い悪戯か、それとも木登りをしていた子供が足でもひっかけて折ってしまったのか。三尺近い長さのその枝には、まだ固い蕾が幾つもついて
        いた。
        そのまま放っておくのも忍びなくて、剣心と薫は折れた枝を拾って家に帰った。水揚げをして、大ぶりの花瓶に生け、常に日当たりのよい場所に置くように
        した。すると蕾は日に日にやわらかくほころんでゆき、じきに薄紅色の花びらが顔をのぞかせ、やがて見事に咲き揃い―――ここ数日は、剣心と薫の目を
        楽しませてくれている。





        「水と陽の光だけで花を咲かせるのだから、桜とはたくましいものでござるな」
        その花はたおやかで可憐だけれど、細い枝には力強い命の力が宿っている。その事をこの数日で実感した剣心は、感じ入ったように呟いた。薫は「ほん
        とうにそうね」と頷いて、そして彼の台詞に自分の見解を付け加える。


        「たくましいし・・・・・・桜って、いじらしいわね」


        桜を形容するのはずいぶんと珍しい言葉に、剣心は「いじらしい、でござるか?」と首を傾げる。
        「うん、あのね、ここ数日ずっと蕾を眺めていたら、何だかそう思っちゃったの」

        花といえばそのまま桜を指すくらい、この国に住む人々はこの花をこよなく愛している。
        毎年、春には開花を心待ちにし、満開を待たずして花の下では連日宴が開かれて、花を愛でつつ飲めや歌えやの大騒ぎが繰り広げられる。

        「でもね、花が咲いているのは、せいぜい数日の間でしょう?一年のうち数日だけ大注目される訳だけれど・・・・・・でも、それ以外の期間も、桜の木はそこ
        にあるわけでしょう?」
        「まぁ、夏場や冬場の桜並木には、皆そこまで注意を払わないでござるな」
        「ね?でも、春以外の季節だって、桜は精一杯生きているのよね。誰からも注目されなくても」


        夏には緑の葉を繁らせて、紅葉の季節を経て冬が来て。
        寒さに耐えて次の春をむかえるための力を蓄えて、そしてまた花を咲かせる。
        桜の木にしてみれば、別に人間達のために咲いているつもりはないのだろうけれど―――それでも。


        「春に桜の花を見て、きれいだなぁと思うひとはあんなに沢山いても、それ以外の季節に頑張って生きていることに対して、偉いねっていうひとはそんなに
        いないでしょう?それなのに・・・・・・毎年あんなに綺麗に咲くのが、いじらしいな、って。思っちゃったの」

        剣心は驚いたように目を大きくして―――そして、ふわりと笑うと薫の髪に口づけを落とした。
        「そう思ってくれるひとがひとりでもいれば、桜の木は喜ぶでござるよ」
        「うーん、でも、わたしが思ったくらいだから、そう考えているひとはきっと他にもいるわよね?それにね・・・・・・」


        薫の言葉を聞きながら、剣心は胸の奥にあたたかいものが満ちてくるのを感じていた。
        彼女自身にそのつもりはないのだろうけれど―――人知れず懸命に生きている様をいたわる言葉が、歴史の表には一切出ることなく生きる道を選んだ自
        分に対しての言葉のように思えて―――なんだか、嬉しくなった。


        「・・・・・・夜桜見物だってね、桜にしてみたら夜は静かに眠りたいと思っているんじゃないかと・・・・・・あっ!や、やだっ!」
        桜の気持ちについての薫なりの代弁は、悲鳴で途切れた。なんとなれば、剣心が後ろから身八つ口に手を差し入れてきたからだ。
        薄い襦袢の上から胸を探られて、薫は身を捩る。動いたはずみで裾が乱れて、素足に空気が触れるのを感じた。

        「やっ・・・・・・こら・・・・・・お行儀、悪い・・・・・・っ」
        必死で紡いだ言葉は、叱りつけるつもりで発したのだろうが、その語尾は甘く喘ぐように震えた。袷を引っ張って寛げながら、剣心は薫の身体を畳の上に
        転がす。
        「行儀が悪いというよりは、手癖が悪いのかな」
        まぜかえしながら薫の上に覆い被さって、細い顎を捕まえて口づける。深く求められて、薫は苦しげに眉根を寄せた。
        互いの舌を絡めあって味わっていると、醒めたはずの花見酒の酔いが戻ってきたような錯覚に襲われる。



        「や・・・・・・ねぇ剣心、ここで・・・・・・?」
        きつく結んだ帯締めが解かれたことに気づいて、薫は困惑の瞳を剣心に向ける。しかし剣心はにこにこと楽しそうに笑いながら、帯揚げを指にひっかけ引
        っ張った。
        「花見をしながらというのも、なかなかない機会でござろう?」
        「・・・・・・剣心、あなたわたしのさっきの話、ちゃんと聞いてた?」



        尖った声は、繰り返す口づけに遮られる。
        これ以上抗議をしても無駄だろうと判断した薫は、諦めたように瞳を閉じて彼の愛撫に身を任せた。









        ★









        夢の中、薫は桜並木に立っていた。





        夢の中の桜はとっくに花が散って緑の葉が繁っていた。
        ああ、今は夏なんだなと思った。

        陽射しは強いようだったが、たっぷりとした葉がちょうどよく日陰を作ってくれている。風が吹いて、葉末をさやさやと鳴らす。
        涼風が前髪を揺らす心地よさに、薫は目を閉じた。

        やがて、葉の揺れる音が変化した。
        目を開けると、葉は残さず紅く染まり、見事な桜紅葉となっていた。



        きれいでござるな、と声が聞こえた。
        気がつくと、隣には剣心が立っていた。

        きれいねと答えると、乾いた音を立てながら葉が散りはじめた。
        鮮やかな紅い色が睫毛の先をかすめて、薫はまた目を閉じる。



        次に目を開けると、冬が訪れていた。
        葉はすべて枯れ落ちて、裸になった枝が寒々しく北風に震えている。

        冷たい雨が降り、霙に変わり、やがて冬になる。牡丹雪が枝に降り積もり、黒い枝を白く染める。
        いつのまにか、寄り添った剣心に肩を抱かれていた。

        凍てつく風が枝を揺らし、雪が落ちる。
        枝には小さな花の芽が生まれていた。雪雲が割れて、太陽が顔をのぞかせる。暖かな風が蕾を撫でて、開花が始まる。



        一斉に咲いた花が、世界を薄紅に変えてゆく。



        仰ぎ見ると、満開の桜が空すら隠している。
        目に映るすべてが花に埋め尽くされて、花に酔いそうになる。

        剣心が耳元で、きれいでござるな、と囁く。
        きれいねと答えると、強い南風が吹いた。



        花びらが風に乗り、舞い踊る。薫は手をのばし、散りゆく桜を受けとめようとした。
        雨のように降り注ぐ花を浴びながら、薫はお疲れ様でしたと呟いた。

        この一年を、一所懸命生きてきたことに対して。
        最高に美しい瞬間を見せてくれたことに、感謝の気持ちをこめて。



        花はあとからあとから降ってくる。上下の感覚がわからなくなってしまいよろめくと、剣心に抱きとめられた。
        桜に溺れてしまいそうだわ、と言うと、溺れていいでござるよ拙者も一緒だから、と言われた。

        彼の髪には、桜の花びらが幾つも絡まっていた。
        そのひとひらに手をのばそうとすると、指を捕まえられて口づけられた。





        彼と桜とに包まれるのを感じながら、薫はゆっくりと瞳を閉じた。










        目覚めると、すぐ傍らに剣心の寝顔があった。
        一瞬、自分が現在何処にいるのかが判らず、薫はぼんやりとした頭で記憶を辿る。

        ああそうだ昨日は出稽古の後お花見に行って、帰宅してから居間で剣心に―――と、そこまで思い出して薫はぽっと頬を赤く染める。
        その夜、寝所に移って。昼から飲んでいたのとなんだかんだで疲れたのとで、ふたり揃って早々に眠ってしまった。
        そして、先程までの夢である。


        きれいだったなぁ、と。夢の中での桜の乱舞を思い返す。
        あんな夢を見たのは、やはり昨日の花見が余程印象的だったからかしら―――と。そこまで考えたところで、薫ははっとして身を起こした。
        寄り添っていた温もりが急に遠のいた所為か、隣にいる剣心がうーんと唸って身じろぎをした。薫は彼を残して、布団の中からするりと抜け出す。

        夜明け前の、暗い廊下を通って居間に向かう。
        それは、なんとなくの予感でしかなかったが―――的中していた。



        花瓶に挿された、桜の枝。
        昨夜まで枝を飾っていた花びらは、すべて散り落ちていた。

        薫は、花瓶の傍らに膝をつく。
        この桜が、呼んでいたから―――だから、あんな夢を見たのだろう。



        「・・・・・・お疲れ様でした」



        微笑んで、ねぎらいの言葉をかけると、花を落としてすっきり細くなった枝の先が、ほんの少し揺れたように見えた。
        桜の散る様というものは、どこか切なく儚く目に映るものであるが、あの夢を見たためだろうか。今の薫にはこの桜の枝が、一年間の勤めを終えてほっと
        息をついているように見えた。

        この枝をつけていた樹は、桜並木のどこにあるのかしら。
        そんなことを考えながら、薫は花びらを一枚いちまい丁寧に拾い集めていった。








        ★








        腕をのばす。
        けれど、いつもそこにある筈の体温に、何故か触れられない。

        先に起きたのだろうか。まだずいぶん早い時間なような気もするが―――
        うっすら目を開けながら、薫を探すように更に腕を動かすと、指先が柔らかいものに触れた。


        「・・・・・・かおる?」
        首を動かして見上げると、布団の端にちょこんと座っている薫の姿があった。
        「おはよう」
        にこにこと笑顔でそう言われたが、まだ少し眠い。剣心は挨拶には応えずに、肘で薫ににじり寄ると彼女の腰にしがみつき、膝の上にうつ伏せに頭を乗せ
        た。そこを枕にもう少しうとうとさせてもらおうと思ったのだが―――ふいに、くすくす笑いが耳をくすぐったので、剣心は何だろうと思って頭を動かす。
        「ね、こっち向いて」
        楽しげな彼女の声。剣心はぼんやり霞がかった頭のまま、ごろんと身体を返して薫の膝枕で仰向けになる。
        薫は指をまるく曲げた形で両手をあわせて、何かを包み込むようにしていた。何を持っているんだろう、と思っていたら、彼女は「見ててね」と言って視線を
        上に向ける。


        「せーのっ・・・・・・!」


        掛け声とともに、腕を空へと振り上げる。
        開いた手のひらの中から溢れて宙に舞ったのは、桜の花びらだった。


        「・・・・・・!」


        剣心は、息を飲む。
        払暁の寝室に生まれた、小さな桜吹雪。

        ひらひらと踊る花びらは薄闇の中白い軌跡を残しながら、ゆっくりと、剣心と薫の上に降りかかる。
        最後のひとひらは、剣心の前髪に落ちた。薫は彼の顔を覗きこんで「剣心、似合ってる」と笑う。
        驚いて目を丸くしていた剣心は、やがて薫に誘われたようにくすりと笑みをこぼすと、がばっと膝枕から起き上がる。


        「きゃー!」
        ばふ、と勢いよく布団の上に押し倒されて、薫は悲鳴をあげた。
        「昨日の、花見の続きでござるか?」
        そう言って、つぅ、と薫の唇を指先でなぞってやると、彼女はとろけるような微笑みを浮かべて剣心を見上げた。
        そんな表情をされたら、昨夜の続きをしたくなるのは当然のことだった。
        指に力をこめると、薫は目を閉じてそれに従う。軽く開かせた唇にふかく口づけると、下からのびた細い腕が、剣心の首に絡みついた。
        素直に応えてくる薫に、剣心は「珍しいでござるな」と息を継ぐ合間に呟いた。

        「な・・・・・・にが?」
        「いつもは嫌がるでござろう。朝方、こういう事をしたら」

        朝に悪戯を仕掛けると、たいてい薫は「明るいから恥ずかしい」「もう起きなきゃいけないのに」などと言って逃げようとする。その、真っ赤になって抵抗する
        様子がこれまた可愛いので、度々彼女の懇願を無視して襲いかかっているのだが―――


        「・・・・・・酔っちゃったのかも、しれないわ」
        寝間着の帯をほどいて袷をひらき、昨夜彼女の身体に刻んだ紅い痕を、もう一度ひとつひとつ辿ってゆく。首筋に吸い付くと、薫の唇から細いため息がこ
        ぼれた。

        「昨夜の酒が、まだ残っているのでござるか?」
        「そうじゃなくて・・・・・・桜に」
        「なるほど」


        剣心はそれだけで納得したように頷くと、彼女の胸の上に舞い落ちた桜の花びらに、ふっと息を吹きかける。薫の細い肩が、ぴくりと小さく震えた。
        身体を重ねて、ひとつになる。彼を受け入れる感覚に、薫は白い喉を反らせて堪えきれない声をあげた。
        絡みあっているうちにじわりと汗が浮いてきた肌に、「今年の勤め」を終えた桜の花びらがまといつく。





        「・・・・・・薫殿のほうが、似合うでござるよ」




        淡い色の花に飾られた裸身に目を細めながら、剣心は薫の体温に酔いしれた。













        了。






                                                                                         2015.03.2





        モドル。