桜並木の満開の下











        一緒に桜の季節を迎えるのは、これが三度目だった。





        「滑るから、気をつけて」



        薫の手をしっかりと握りながら、剣心は注意を促す。
        よく晴れた春の昼下がり、空は明るい水色で、空と地の間はどこまでも続く薄紅色。昨年もふたりで訪れた桜並木は今がちょうど満開の頃で、暖かな風
        が梢を揺らす度に、はらはらと花びらの雨が舞い落ちる。花の下の道はすっかり薄い桃色に染められており、その花びらの絨毯は一見とても美しいのだ
        が―――いかんせん、上を歩くと滑りやすいのも事実である。

        「大丈夫よ、ちゃんと注意するから。それに、もし滑ったとしても、剣心支えてくれるんでしょ?」
        「それは勿論」

        真面目くさってそう答える剣心からは「決して転ばせてなるものか」という空気というか気合のようなものが発せられており、薫はありがたく思いながらも
        「心配性だなぁ」と苦笑を禁じ得なかった。
        ひとつ前の季節に、薫のお腹には新しい命が宿った。月満ちて身ふたつになるのは、夏の予定である。



        「・・・・・・やっぱり、お腹の赤ちゃんにもわかるのかなぁ」
        「何がでござる?」
        呟くような一言が耳に入り、剣心は薫に尋ねた。すると薫は足を止めて、帯の下あたりに手を当てる。
        「さっきからね、随分動いてるの」
        「え、それって大丈夫なんでござるか?」
        眉を寄せて気遣わしげな声をあげる剣心に、薫は「そういう事じゃなくって・・・・・・」と笑った。

        「きれいな桜を見て、赤ちゃんも機嫌がよさそうってことよ。これなら剣心にもわかるんじゃないかなぁ」
        薫は剣心の首に腕を回して、「ほら」と下に向かって引き寄せるようにする。剣心は言われるままに膝をつき、薫のお腹に抱きつくようにして頬をくっつけ
        た。


        「・・・・・・あ」


        剣心がそうするのを待っていたかのように、薫の中の小さな生命が動く。
        初めて胎動を自分の肌で感じた剣心は、驚いたように目を大きくする。


        「ほんとだ、動いたでござ・・・・・・お、ろっ!?」


        勢いこんで立ち上がろうとして必要以上に力んだ足は、敷きつめられた花びらの上でつるっと滑った。
        どさっ、と音を立ててひっくり返った剣心に薫は目を丸くして―――申し訳ないと思いながらも、笑ってしまった。

        「だ・・・・・・大丈夫? 剣心?」
        「ああ、いや、すまない・・・・・・大丈夫でござるよ」
        ものの見事に尻餅をついた剣心に、薫は手を差しのべる。肩を揺らしてくつくつと笑いながらではあったが。
        「そんなに、びっくりしたの?」
        「うん・・・・・・驚いたでござる」
        薫の手を借りて立ち上がった剣心は、袴にまとわりついた花びらを払ってから、改めて薫の腹部に触れてみた。


        「ほんとに、生きているんだなぁと・・・・・・ほんとうに、ここにいるんだなと思って・・・・・・驚いた」
        「なぁに? まさか今の今まで信じられずにいたの?」
        まだくすくすと笑いのおさまらない薫に、剣心はやはり大真面目に返す。
        「いや、信じてはいるでござるよ? 信じてはいるが・・・・・・でも」
        「でも?」
        「こんなの・・・・・・幸せすぎるでござろう? だから、本当に信じてよいものなのかと・・・・・・」

        その答えに、薫は唇にあたたかな笑みをたたえたまま剣心の頭をそっと掻き抱いた。
        抱き寄せられるままに首を傾ける。頬と頬が、柔らかく触れ合った。



        「剣心は、幸せすぎるくらいでちょうどいいのよ」



        子守唄を歌うような優しい声に、剣心は思わず目を閉じた。
        そうすると、よりはっきりと感じられる。
        降りそそぐ花びらの感触を。春の風が髪をかすかに揺らすのを。
        そして―――愛しいひとのぬくもりを。

        「長い間、ずっとひとりでいたんだもの。その間たくさん悩んだり苦しんだりしていたんだもの。だから今は、幸せすぎるくらいじゃないと、つり合いがとれな
        いわ」

        ひとつの迷いも感じられない、深い労わりと愛情のこもった言葉。
        きっと昔の自分だったら、こんなあたたかな想いがこめられた言葉にすら、反証を唱えたことだろう。
        こんな罪深い人間に、そんな資格などないと。ただただ、頑なに。
        けれど―――



        「・・・・・・うん。ありがとう、薫殿」



        けれど、今は素直に頷くことができる。
        今はもう、幸せとは自分ひとりのものではないということを、知っているから。

        君が好きで、君が誰より大切で、だから君には幸せでいて欲しいと願う。
        きっと君も―――同じ気持ちでいてくれているのだろう。



        俺が幸せであることを、君が願ってくれるなら。それが君の幸福につながるのならば。
        光のある方へと歩むことを―――俺はもう、躊躇いはしない。



        「来年は、三人でこの桜を見るのでござるな」
        「うん、今から楽しみね」



        君が、教えてくれた。幸せとは、ひとりで築くものではないということを。
        君がいるから、これからは前を向いて歩いてゆける。君が紡いでくれた新しい命も、これからは、一緒に。




        細い腕にそっと手を添えて、剣心は目を開けて薫の顔をのぞきこんだ。
        はにかむ微笑みに引き寄せられるようにして、そっと口づける。

        風が柔らかく、桜の梢を揺らす。
        花の下で寄り添うふたりの上に、並木道のゆく先に、薄紅の花びらが降りそそぐ。








        ふたりがともに歩む未来を、祝福しているかのように。













        了。





                                                                                           2014.04.25











        モドル。