3










        「・・・・・・大丈夫。猫は、助かるでござるよ」




        髪に触れられて、薫の肩がぴくりと震えた。
        「ほら、禍福はあざなえる縄のごとし、と言うでござろう? 悪いことと良いことはかわるがわるやってくるものでござるよ。馬に撥ねられたのは猫にとって
        不運だったが・・・・・・順番でいうと次に来るのは良いことでござる。だから大丈夫、きっと助かるよ」

        剣心の優しい声が、薫のこわばった心と身体に染み入ってくる。
        春の陽射しが、凍てつく氷の地面を、ゆっくりと融かしてゆくように。

        「それに、猫は巻き込まれたのではないでござるよ。そうではなく、薫殿は怪我をした猫を助けるために、あの場に居合わせたんでござる」
        きっぱりと言い切られて、薫はおずおずと顔をあげた。剣心はそっと手を動かして、彼女の髪を撫でてやる。
        「そうなのかしら?」
        「ああ、拙者が保証する」
        根拠もないのに、殊更に自信たっぷりに断言する剣心に、薫はようやく僅かに表情をゆるめた。髪をくすぐる彼の指の感触は、心地よかった。


        「薫殿も、今日は嫌なこと続きだったが・・・・・・そのぶんこれから暫くは、良いことが続くでござるよ。それも、保証するから」
        薫は細く息をつき、小さく首を動かして剣心を見ると、「・・・・・・ほんとに?」と泣き疲れて掠れた声で訊いた。
        「うん、本当に」
        「いいことって・・・・・・たとえば、どんな?」
        「たとえば・・・・・・でござるか?」

        剣心は薫の顔をじっと覗きこみながら、少しの間、何かを考えているのか黙りこむ。
        そして、「・・・・・・その、これがただの拙者の自惚れだったら、すまない。いや、むしろ嫌だったら申し訳ないのだが・・・・・・」と、薫にしてみれば意味のわか
        らないことを口にする。

        薫が怪訝そうに首をかしげると―――
        ふっ、と。剣心の顔が近づいた。



        「けん・・・・・・しん?」



        一瞬、何が起きたのかわからなかった。
        ふいに翳った視界。頬に触れる髪のくすぐったい感触。身体を包み込む、暖かな体温。
        それらを順に知覚して、ようやく彼に抱きしめられたことを理解する。


        「・・・・・・っ!」
        あっという間に、薫はうなじまで真っ赤になる。緊張に背中がびしっと固くなるのが、剣心の腕にも伝わった。けれど剣心は抱きしめた腕を緩めず、むしろ、
        ぎゅうっと力をこめる。

        「薫殿が悲しくなくなるまで、こうしているから」
        「・・・・・・え?」
        「今だけではなく、これからも・・・・・・薫殿が悲しくなったときや、泣きたくなったときは、こうやって拙者がそばにいるから・・・・・・だから、その」
        剣心は僅かに顔を起こして、薫の目をのぞきこむ。



        「つまり・・・・・・拙者が、そばにいるだけでは・・・・・・駄目でござろうか?」



        突然の抱擁と思いがけない言葉にぽーっとなっていた薫は、少し心配そうに剣心に尋ねられて、はっと我に返りぶんぶんと首を横に振る。
        「だっ・・・・・・駄目じゃないっ!駄目どころか、めちゃくちゃ嬉しいっ!」
        剣心は安心したように「よかった」と笑うと、もう一度首を前に傾けて、薫の頬に自分のそれを重ねるようにする。


        これからは、悲しいときにはいつも、そばにいてくれること。抱きしめて、慰めてくれること。
        つまり―――これが彼の言う「いいこと」らしい。

        なるほど、剣心が「自惚れだったらごめん」と前置いた意味が、なんとなくわかった。
        そんなの、自惚れなわけがないのに。こんなの―――むしろ嬉しすぎて、「いいこと」の度が過ぎていて、倒れてしまいそうな気分だ。



        「・・・・・・剣心」
        「うん」
        「ありがとう・・・・・・ちゃんと、悪いことの後にはいいことが待っているものなのね」

        この姿勢では、剣心からは薫の顔を見ることはできない。けれどその声音で、彼女が今笑顔でいることがわかった。
        そのことが嬉しくて、剣心は華奢な背を優しく撫でながら、頬をほころばせた。









        ★








        弥彦が「風呂わいたぞー!」と言いながら居間にやってくるまで、剣心は薫を抱きしめてくれていた。
        丁度いい湯加減のお風呂につかってゆっくり身体を温めて、丁寧に髪を洗った。

        風呂からあがると、「こんな時間になってしまったが」と言いつつ、剣心が食事を用意してくれていた。剣心とふたりで軽めの夕食に箸をつけながら、改め
        て弥彦にも今日の出来事を話して聞かせた。予想通り、弥彦は榊に対して「男の風上にも置けない」と怒っていた。ついでに「そんな奴、ぶん殴って性根
        を叩き直してやりゃよかったんだ」と薫も怒られた。薫は「次に会ったときにそうするわ」と笑って答えた。

        寝床に入る前に、廊下で剣心におやすみと言われて。思いきって「もうちょっと」とねだってみたら、剣心は真面目くさった顔で咳払いをしてから、ぎゅっと
        抱きしめてくれた。
        彼に触れられた余韻が消えないうちに、布団にもぐりこむ。「ついていない」が続いた一日が、ようやく終わろうとしている。


        ―――いや、ついていなかったのは前半だけかしら、と。枕に頭を落ち着けながら、薫は考え直す。
        嫌なことが立て続けに起きた一日だったけれど、そのお陰で思いがけない「いいこと」もあった。
        帰りを待っていてくれるひと、自分のために怒ってくれるひと、そばにいて抱きしめてくれるひとがいることがどんなに有難いことか、実感することができた
        のだから。






        明日はどんな一日になるんだろう。
        また悪いことが起きたとしても、剣心が言ったとおり、その後にいいことが待っているといいな、と。
        そう思いながら、薫は目を閉じた。















        4 へ続く。