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        「大袈裟なんだよ剣心は・・・・・・そんな心配することでもねーだろ?」
        先程から、居間と玄関先とを落ち着かなく行ったり来たりしている剣心に、弥彦は呆れたように声をかける。





        薫が、出稽古から帰ってこない。
        普段は、午後からの稽古ならば遅くとも夕方までには帰ってくるはずなのに、今日はとうに日が暮れてあたりがすっかり暗くなっても、薫は戻ってこなかっ
        た。先に赤べこの手伝いから帰ってきた弥彦が「ごめん腹減って限界、我慢できねー」と言って先に夕食をとっている間、剣心は繰り返し門の方まで出て
        は首を伸ばすようにして、道の向こうを窺っていた。

        「どうせ帰り道で久しぶりの友達と会ったとか、きっとそんなところだろ?子供じゃねーんだから、そのうちちゃんと帰ってくるって」
        ってゆーかお前そんなに心配性だったのかよ、と弥彦は笑ったが、剣心としては気が気ではなかった。弥彦は「子供じゃないのだから」と言うが、だからこ
        その―――年頃の娘だからこその心配というものがあるのだ。とはいえ、そんな事を弥彦に言うのもはばかられるので、剣心は彼が片付けをしに台所に
        ひっこんでから、深く長くため息をついた。


        腹の奥が、そわそわと落ち着かない感じがして、とてもじゃないがのんびり座っている気にはなれない。
        考えてみれば、こんなふうにおろおろと心配しながら、誰かの帰りを待つというのははじめてではないだろうか。
        そういえば、京都に発つ前は主に自分がそういう心配をかける側だった気がする。刃衛との闘いのとき、お気に入りのリボンを手に握らせて、必ず帰ってく
        るよう約束させた薫。あのときは、いつも明るくて快活な彼女の瞳に不安な翳りが落ちていた。それからも、薫があの日と同じ眼差しを向けてくることが幾
        度もあった。

        あの頃、俺は彼女の不安をそこまで真剣に酌みとっていなかったけれど―――京都から戻ってきて、これからはこの場所で生きていこうと決めた今ならわ
        かる。彼女は、いつもこんな気持ちで俺のことを待っていてくれたんだ。いつ何処に去ってしまうかもわからない、根無し草だった俺のことを。



        そんな事を考えていると、かたりと玄関のほうで物音がして、剣心は弾かれたように立ち上がる。
        かすかに「ただいま」という声がした。しかしそれは、いつもの薫の声の半分以下の音量だった。
        「おかえりでござる、薫、ど・・・・・・」
        明るい声で出迎えた、つもりだったが、その調子を最後まで保たせることはできなかった。

        框の前に立つ薫は、ぐったりと疲れた表情で顔色は真っ青だった。
        着衣は乱れてこそいなかったが、何故か白い道着の胸の辺りには点々と血の跡がついている。


        「ど・・・・・・どうしたのでござるか?!稽古中に何かあったのでござるか?!まさか、どこか怪我でも・・・・・・」
        おろおろと、焦ったように矢継ぎ早に尋ねてくる剣心。薫はぼんやりと彼の顔を眺め、そして「わたしの血じゃない」ということを示すため、ふるりと首を横に
        振った。

        「一体・・・・・・何があったのでござるか?」
        気遣わしげに、そう言われて。それが薫の限界だった。
        ふわり、と両の瞳に涙が溢れたかと思うと、堤防が決壊したかのように流れ出す。



        「うっ・・・・・・わぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・・!!!」



        剣心の目の前で、薫はぼろぼろと大粒の涙を流し、子供のように声をあげて泣き出した。
        とてもじゃないがそれ以上「何があったのか」などと尋ねることはできなくて、剣心はおろおろと両手を宙にさまよわせる。いっそ抱きしめてしまおうかと腕
        を伸ばしかけたとき、「何だ?!何があったんだ?!」と弥彦が台所から駆けつけてきて、剣心は慌ててその手を引っ込めた。





        結局、薫は五分程の間玄関に立ったまま泣きじゃくり、少し嗚咽がおさまってきたところで剣心に促され、頼りない足取りで居間へと向かった。









        ★








        剣心は弥彦に風呂を沸かしておくよう頼み、温かい茶を淹れて、目を真っ赤にした薫の前に湯呑みを置いた。
        「・・・・・・ごめんね、少し落ち着いたから」
        弱々しい声でそう言った薫に、剣心は「話せるでござるか?」と訊いた。
        薫は小さく頷くと、お茶をひとくち喉に流しこんでから、ゆっくりと唇を動かした。

        前川道場で会った榊のこと。彼に言われた言葉と、少女たちにされたこと。
        そして―――その後、目の前で猫が馬車にはねられたこと。


        その猫は道の真ん中で、迫り来る馬車に驚いて動けなくなっていた。気づいた薫は助けようと思い駆け出したが、一歩遅かった。
        馬の蹄に引っ掛けられた猫は、ぽーんと毬のように吹っ飛ばされた。投げ出された小さな身体は、地面に落ちる前に薫の胸に受け止められた。
        猫は、生きていた。傷を負ってはいたが、にゃーにゃーとか細い鳴き声を漏らしていた。

        薫は猫を抱いて、小国診療所まで走った。玄斎と恵は「猫を診たことはないが」と困惑しながらも、何とか手当てをしてくれた。治療中、猫は割合おとなしく
        していたが、傷が痛むのか暴れようとする度、薫も手を貸して小さな手足を押さえた。何度かひっかかれたが、暴れる元気があるのはむしろ救いだと思っ
        た。


        「・・・・・・それで、とりあえず手当ては済んだから、今晩はこのまま診療所に寝かせて・・・・・・
        ひと晩越せれば、助かるだろうと、玄斎は言った。
        薫と恵は「怪我の迷い猫を預かっています」と書いた貼り紙を作って、診療所の前に貼った。首に鈴がついているということは、飼い猫であろうから。
        気がつくとあたりはすっかり暗くなっていて、恵は「もう帰りなさい。剣さんが心配するでしょうが」と言って薫の肩を叩いた。

        「あとは・・・・・・猫の体力と、神様次第だって・・・・・・」
        薫はくすんと鼻をすすって、またひとくち茶を口にした。
        隣で黙って聞いてくれていた剣心が、「それは、大変な一日だったでござるな」と、静かな声で言った。
        「今日はついていない日だと思っていて・・・・・・でも、もう何も起きないだろうと思っていたら、最後にあんなことになっちゃって・・・・・・」



        目の前で猫が撥ねられたことは、今日一番の衝撃を受けた出来事だった。
        猫が死ななかったことは不幸中の幸いだったが、でも―――

        「なんか、思っちゃったの。あの猫は、わたしの厄日に巻き込まれたんじゃないかって・・・・・・わたしがあそこにいたから、あんな目に遭ったんじゃないか、
        って・・・・・・」





        今日一日の度重なる不運にすっかり心が弱っているのだろう。薫はそこまで喋るとまた泣けてきたらしく、俯くと両手で顔を覆った。
        それまで静かに相槌を打っていた剣心は、ほんの少し躊躇った後―――手を伸ばして、薫の髪に触れた。













        3 へ続く。